たかしの啄木歌碑礼賛

啄木の歌碑並びにぶらり旅等を掲載いたします

盛岡の旧町名(上田組町)

2011-10-18 | ぶらり盛岡
盛岡の武家屋敷

盛岡では、江戸後期の文化9年(1812)に盛岡城下の町人・職人街を「丁」の字を使い、これまでの23町から28丁に増やし、文化11年(1814)に、武家屋敷街を明示する武家屋敷小路を定め、明治時代にいたっている。武家屋敷小路としては、

上田組町、上田小路、上田与力小路、上田新小路、下小路、平山小路、帷子小路、新山小路、仁王小路、、日影門小路、大沢川原小路、加賀野小路、餌差小路、大清水小路、鷹匠小路、馬場小路、上小路・・・・などがあった。

このように、町人・職人街は丁(町)、武家屋敷は小路、また足軽(同心)街は組町と呼んでいた。

城下の町割りとしては、盛岡城のすぐ側の内丸には上級武士の武家屋敷、その外側には町人・職人の居住する街がつくられ、それらは城を中心にして同心円状に町割りされた。また、一般の武士が住んだ区域として、仁王小路、上田小路、上衆小路、下小路などの武家屋敷がつくられた。
また、城下への出入口付近には、城下を守るために下級武士の足軽(同心)町がおかれた。<盛岡藩では寛保2年(1742年)に足軽を"同心"と称えている> 盛岡城下の玄関口に設置された同心町には奥州街道に沿う北の上田組丁、南の仙北組丁などがある。


(1)上田組町

上田組町は、奥州街道に沿う、盛岡の北の玄関口で、四ツ家の地蔵さんから、上田のJR山田線の踏み切りを渡り、高松の池の方をさす。









上田地区は、藩政時代には、岩手郡上田村といい、「上田通り」31村のうちに組み込まれ、上田とおり代官所の所管下にありました。盛岡藩では城下の北の関門として,奥州街道口に土手を廻らし柵を設けた枡形(ますがた)を造り,上田惣門とした。この枡形に至る道の両側に5人の組頭のもとに各組30人ずつ、総勢150人の足軽が配置されていました。家はかやぶき屋根の足軽屋敷が建ち並び、家屋はほとんど同型の「ころどや(一軒家)」で、屋敷の境はひば垣でした。「御組丁」とも言いましたが、屋敷内には「ぐみ」の木が多く植えられていたところから、もじって「上田ぐみ町」、また寛保2年(1742)南部藩は足軽を同心と唱えさせたところから「御同心丁」ともいいました。上田組町は、まっすぐ長い一本町で、屋敷並みを過ぎれば、人家はまばらで、東裏には正覚寺(しょうかくじ)があり、西裏には覚山の地蔵尊に通ずる道がありましたが、いずれも広い田圃の中でした。
また、枡形の外側には数軒の茶屋があり,「上田茶屋」と呼ばれた。
上田堤は,盛岡城下の建設に際し河北地域の治水上最も重要な施設であった。4つの堤があったが,現在は中堤・下堤が「高松の池」と呼ばれ,景勝地となっている。
この地域は近代に入ると,盛岡高等農林学校(岩手大学農学部),盛岡中学校(盛岡第一高等学校),県立工業学校(盛岡工業高等学校),盛岡高等工業学校(岩手大学工学部)などが次々と建設され,文教地区として発展していった。



上田通り(JR山田線踏み切り付近)



正覚寺




高松の池



高松の池の平和祈念像「望み」





********************************************************************

啄木の盛岡中学時代の歌

  袖を掩(おほ)へ世の智に迷ふ胸ひめて、歌に秋しる、夕花の蝶。

 
≪盛岡中学校校友会雑誌 第3号(明治35年12月)≫ 「白蘋」名で9首 (その7)

**********************************************************************




最新の画像もっと見る