たかしの啄木歌碑礼賛

啄木の歌碑並びにぶらり旅等を掲載いたします

盛岡の旧町名(加賀野)

2011-12-29 | ぶらり盛岡
(15)加賀野(かがの)

盛岡のまちづくりは,慶長3年(1598)の盛岡城の築城にあわせ,お城を中心に城下町が開かれたことに始まる。盛岡城下の町人・職人街は江戸後期の文化9年(1812)に、「丁」の字を使い、これまでの23町から28丁に、また、文化11年(1814)に、武家屋敷街を明示する武家屋敷小路を定めて発展し、明治時代にいたっている。
加賀野地区にも多くの小路が設けられた。加賀野の地名は現在もつかわれており、中津川に架かる山賀橋から「上の橋」までの河南地区を指しており、国道4号線バイパスにある岩手大学付属中学を含んだ大きな地域です。加賀野の名前の由来は、はっきりしませんが、加賀の国に関係があるのでしょうか。野原が芝生で覆われている所を「かがの」ともいわれたそうです。これからいうと、加賀野は、もとは芝生地帯だったのでしょうか。加賀野と名の付いた小路は、加賀野中道、加賀野角子(すまこ)、加賀野久保田、外加賀野小路、加賀内小路、加賀野新小路、加賀野裏小路、などたくさんあります。








加賀という有徳の百姓が住んでいたことが由来ともいわれるが、柳田国男「地名の研究」の芝原・草原を意味する「カガ」が由来と考えられる。中津川から引水した桜川を堰となし、水田地帯になった。

天保4(1833)年以前から内加賀野小路と外加賀野小路に分かれ、その境は外堀であった。境には内加賀野御門(加賀野惣門)が置かれていた。江戸時代は侍町で、おもに御徒(おかち)と呼ばれる下級武士が住んでいた。
明治22(1889)年の市制施行の際には、加賀野新小路の一部、内加賀野小路は大字(おおあざ)志家に含まれ、外加賀野一体は、大字加賀野とされた。大正13(1924)年、加賀野耕地整理組合が設立され、約10万坪の住宅街を造成した。


内加賀野小路


町名由来の案内板のある川留稲荷神社境内







外加賀野小路




外加賀野小路





加賀野惣門跡表示



加賀野惣門は町人町の「紙町」のすぐ傍にあり、「紙町惣門」ともいわれ、ここより20mほど先にあったといわれています。




加賀野裏小路

中津川沿いには加賀野裏小路が造成され、明治以降は磧(かわら)町となり、石川啄木の「小天地(しょうてんち)」が発行されたのは、ここの武家屋敷の1つであった。




啄木が住んだ家の跡地の建物







加賀野の近くの天満宮の境内には、昭和8年に建立された、一対の狛犬があり、その阿形の狛犬には小天地(明治38年9月号)に発表された、次の歌が刻まれている。



阿形の狛犬



夏木立中の社の石馬も
汗する日なり
君をゆめみむ

啄木(小天地) 



また、吽形の狛犬には次の歌が刻まれている。



吽形の狛犬


松の風夜晝ひびきぬ
人訪はぬ山の祠の
石馬の耳に

啄木(一握の砂)



この歌は、岩手日報(明治41年11月3日)等に発表され、「一握の砂」に掲載されている。一握の砂では「夜昼ひびきぬ」になっているが、岩手日報では「ひる夜ひびきぬ」になっている。



岩手日報(明治41年11月3日)




この他、境内には、平成4年に建立された狐の石像の台座に刻まれた啄木短歌もあります。



狐像の台座の歌



苑古き
木の間に立てる石馬の
背をわが肩の月の影かな

啄木



この歌は、岩手日報(明治38年7月18日)に発表した随筆   閑天地「十一夜會の記」 にある。



巖手日報 明治38年7月18日





東文化小路


山賀橋と富士見橋の間に文化橋があり、内加賀野小路に続き東文化小路があった。



文化橋



東文化小路





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