たかしの啄木歌碑礼賛

啄木の歌碑並びにぶらり旅等を掲載いたします

盛岡の旧町名(新田町)

2011-11-28 | ぶらり盛岡
(6)新田町
盛岡城下の西側は北上川が自然要塞になり守られていた。北上川を渡る街道としては奥州街道と秋田街道があります。奥州街道には明治橋があり、橋の外側に仙北組長を設け警備にあたった。また秋田街道は材木町・茅町を経て北上川に架かる夕顔瀬橋を渡り新田町を通る道で、この新田町(しんでんちょう)に枡形を設け、敵の進む勢いを鈍らせる役割をもたせた。



夕顔瀬橋



夕顔瀬橋は、1656年に架設されて以来、 洪水などにより架橋を繰り返したようで、現在架っている橋は、平成5年に架け替えられている。夕顔瀬町・新田町の通りは鉄道線路のため、車での通り抜けはできなくなり、歩行者は地下道を利用している。夕顔瀬橋に近い方を夕顔瀬町、線路の挟んで、その先が新田町になっている。



夕顔瀬・新田町通り



夕顔瀬・新田町通りは鉄道線路で遮断され、歩行者は地下道を利用している





なお、自動車は新田町の通りに平行にバイパスがつくられている。夕顔瀬橋は少し斜めに設置され、バイパスに直進できるようになっている。このバイパスは銀河鉄道の線路をまたいでおり、バイパスの上をさらに新幹線が走っている。





自動車は夕顔瀬橋をまっすぐに進むこのバイパス道を利用し太田橋(手前に進むと太田橋)の方にぬける



夕顔瀬町にある淺草観世音




このように、盛岡城下においては、城下に出入りする街道がいくつかあり、奥州街道には、南の仙北組町・北の上田組長、野田街道には御弓町、宮古街道には上小路、遠野街道には神子田組町、秋田街道には新田町を設け、それぞれの町を警備の関門とし、お城から半径5㎞の内側に町人街、侍街を設けている。28の町人街のうちほとんどが奥州街道沿いにあり(材木町、八幡町が少し離れている)、その周りに侍街といわれる小路がたくさん存在していた。これまでに、28の町人街と城下に出入りする街道沿いの足軽(同心)街をみてきたので、次回からは侍街の小路を訪ねることにする。





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啄木の盛岡中学時代の歌

  しげ笠に紐は濃かりきくれなゐのわかしや花を市にうる
 
岩手日報(明治34年12月4日)  白羊会詠草(二)   花売の歌  石川翠江 名で4首(その1)

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玉山小学校の啄木歌碑

2011-11-25 | 啄木歌碑
玉山小学校は盛岡市玉山区日戸にある。日戸村は啄木が生まれた村で、明治22年に玉山村と合併し玉山村になった。学校の位置は、県道盛岡-渋民線の旧玉山公民館付近から東方に600メートルほど進むと、小高い丘の上にあります。啄木が生まれた常光寺へ行く途中にある。この歌碑は、校舎の右側に、啄木生誕118年にあたる2004年2月建立された。
 






或る時のわれのこころを
焼きたての
パンに似たりと思いけるかな

啄木




この歌は、啄木歌ノート(明治43年10月13日)にあり、一握の砂「我を愛する歌」に掲載されている。





玉山小学校は常光寺の方に進むと、この信号から600mほどの所です。






玉山小学校











盛岡の旧町名(上小路町)

2011-11-22 | ぶらり盛岡
(4)上小路町(うわこうじ)

盛岡城下の警備の関門は奥州街道に沿う北の上田組長、南の仙北組町、北東部には野田街道に沿う御弓町が有ります。また、城下の東側には、宮古へ向かう閉伊街道の城下口に当たる足軽町の上小路町、遠野・釜石街道筋に神子田組町がります。

上小路町は高崩(たかくずれ)の段丘に造られた侍町の小路があったことに由来しているようです。現在も、この辺の住所は盛岡市高崩になっている。



上小路町







高崩(たかくずれ)の段丘に造られた侍町の小路があったことに由来している。江戸中期まで中野村(東中野村)の枝村であったが、後に足軽町として盛岡城下の武家屋敷地となった。

当地は宮古へ向かう閉伊街道の城下口に当たり、足軽町の上小路組町(十人組町)と、町家を形成した上小路町に分かれていた。同町東はずれには、簗川春木場と呼ばれる貯木場があった。

上小路東方の新山館(しんざんだて)には、幕末の文久3(1863)年に洋学校「日新堂」が建てられた。近代製鉄業の先駆者大島高任(たかとう)と西洋医学者八角高遠(やすみこうえん)が指導者となって、採鉱・製錬・砲術・医学などの教育・研究・開発の事業を行い、盛岡藩における洋学発祥の地となった。南大橋近くの岩手自動車学校入り口に、昭和45(1970)年に岩手県医師会によって建てられた記念碑がある。



(5)神子田組町(みこだ)

この他、城下の東南の関門として、遠野・釜石街道筋に神子田組町がります。



信号の手前が神子田町、向こうが鉈屋町



神子田(みこだ)組町は町人町の鉈屋町の先にあり遠野に通じる街道沿いです。上の写真の信号から向こうが鉈屋町で、手前が神子田町です。

神子田町は朝市でも有名で、この市場は月曜日休みの年300日間営業しています。以前は盛岡市南大通の盛岡市中央青果の外にあったが、昭和52年6月に現在の「神子田」に移転し、盛岡市民の台所として活況を見せている。
市場は通路が二つあり、両側に100区画以上の売り場が並び、朝5時から8時半ころまで開いている。







神子田町の朝市




なお、足軽(同心)家屋については、花巻市の有形文化財として、同市桜町四丁目に二軒が保存されている。



花巻市桜町の同心家屋






同心家屋





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啄木の盛岡中学時代の歌

  夕くれを落葉に人の笛の手はわなゝく指にふし乱れけり
 
岩手日報(明治34年12月3日) 白羊会詠草(一) 夕の歌   石川翠江 名で6首(その6)

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盛岡の初雪

2011-11-19 | ぶらり盛岡
平成23年11月16日、朝起きて新聞に目を通すと、盛岡での初雪のニュースが載っていました。15日の午後10時過ぎに降りだしたようです。庭を見ると木の枝の上には雪が残っていましたが、地面に積もるほどの雪はありませんでした。



庭木の雪(平成23年11月16日朝)




16日の日は、岩手山には雲がかかり、岩手山の様子を見ることができませんでしたが、10日の日には岩手山の雪はほとんど見えませんでした。






岩手山(11月10日)




昨日(18日)は快晴でしたので、岩手山の雪の様子を見ることができました。10日の日には岩手山の雪はほとんど見えなかったので、多分15日に降り積もったのでしょう。




岩手山(11月18日、四十四田ダムにて)



岩手山と白鳥(11月18日、高松の池にて)




盛岡は本州では一番気温の下がる県庁所在地ですが、雪は少なく、風が弱く、体感寒さはさほど感じません。また地盤が固く、地震等の影響も少なく、住みやすい町です。近くには、つなぎ温泉、鶯宿温泉、花巻温泉など多くの温泉もあります。





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啄木の盛岡中学時代の歌

  流れにし山を西への雲の末に思ひこちたき夕そゞる髪
 
岩手日報(明治34年12月3日) 白羊会詠草(一) 夕の歌   石川翠江 名で6首(その5)

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旧玉山公民館前の啄木歌碑

2011-11-17 | 啄木歌碑
旧玉山公民館は盛岡市玉山区日戸にあり、県道盛岡-渋民線にあります。公民館の脇道を進むと玉山中学校に行く。この歌碑は、玉山公民館が庭園を造ったときの記念として昭和48年7月に建立したもので、"ふるさとの山に向ひて"の歌と、造園に協力した人たちの氏名が刻まれている。なお、啄木が生まれた日戸村は明治22年玉山村と合併し玉山村になっている。











ふるさとの
山に向ひて
言ふことなし
ふるさとの山は
ありがたきかな

啄木



この歌は、啄木歌ノート(明治43年8月28日)にあり、「一握の砂」に掲載。



なお、玉山中学校の校歌は

「啄木生みて 永久なるところ」・・・と始まっている。



旧玉山公民館前の案内表示