たかしの啄木歌碑礼賛

啄木の歌碑並びにぶらり旅等を掲載いたします

花巻の啄木歌碑

2011-09-18 | 啄木歌碑
花巻といえば宮澤賢治ですが、花巻市東和町の釜石線「土沢駅」隣の菊忠印刷の前に啄木歌碑があります。あまり知られていない歌碑かも知れません。建立した菊池忠七さんのお話では、大学の恩師である金田一京助先生に、この歌は「軍人の・・・・」とあるので、歌碑などを建立する人は誰もいないと思うので、お前が建立するようにと言われており、菊忠印刷操業85周年記念として、平成16年10月に建立した、ということでした。









軍人になると言ひ出して、
父母に
苦労させたる昔の我かな。

啄木



この歌は、啄木の歌ノート「一握の砂以後」(明治43年11月末より)にあり、創作(明治44年3月号)に発表、悲し玩具に掲載されている。



石川啄木が学んでいた当時(明治31年~明治35年)の盛岡中学校は、立志の気風にあふれ、軍人志望の学生が多かった。啄木もまたその風潮に刺激された一人で、体操の時間には小隊長となって得意がったという。その頃、三歳年上で、上級生の及川古志郎が、海軍兵学校の目指して勉強中であることを知った啄木は、軍人になるための指導を仰ぐために及川を訪ねた。しかし、僧侶の父、寺と関わり深く過ごした母が、たった一人の息子の軍人志望を知った時の驚きはいかばかりであったろうか。一方、及川は厚意ある指導を惜しまなかったが、啄木の小柄な体格は軍人に向いていないと判断し、それとなく啄木を諭したという。その交友がきっかけとなり、大の読書家であり、文学にも精通していた及川が、啄木に文学への興味を抱かせることとなる。やがて、啄木は詩人の道を歩み、及川は海軍士官の夢を実現させ、後年、海軍大臣の要職についた。大きな志を抱いて羽ばたいた二人の魂は、今も人々の心の中で生き続けている。(平成16年10月 菊忠印刷操業85周年記念 石川啄木記念館学芸員 山本玲子)



高村光太郎ゆかりの地









山静

太古

光太郎



芸術家高村光太郎が花巻にて過ごしたのは、太平洋戦争も終わりに近い昭和20年5月からの7年間になります。疎開先の宮沢家も戦災を受けたため、転々とした後10月に岩手県稗貫郡太田村山口の小屋に移り、農耕自炊の生活を始めました。現在の高村山荘です。
その間、東和町の小桜家(料亭)に食事に来た時、食事したテーブルに文字を刻んだ。そのテーブルは現在、大きなガラスケースに入れ、床の間に飾っている。




土沢まつり








土沢まつりは9月17日~18日です。また、19日は東和町の三熊野神社の泣き相撲(みくまのじんじゃのなきずもう)です。













最新の画像もっと見る