たかしの啄木歌碑礼賛

啄木の歌碑並びにぶらり旅等を掲載いたします

大湯温泉

2012-11-25 | 温泉
大湯温泉は、秋田県鹿角(かづの)市にある温泉で800年の昔から、大湯川沿いに然湧出した温泉で温泉効能が素晴らしい豊富な量の湯が湧き、江戸時代にはこの地を治めていた南部藩の保養温泉地に指定された、とあります。入浴すると、無色透明な湯なので、効能が無いように思われますが、美肌効果が大きい湯です。特に女性の方には良い湯かも知れません。大湯温泉郷の中の「ホテル鹿角」に一泊しました。浴室は広く、露天風呂もあります。





ホテル鹿角



浴室



露天風呂




お庭




帰りは途中の「道の駅」に寄りながら車をはしらせ、安代から高速道路にのり、岩手山サービスエリアで昼食をとって、盛岡まで帰って来ました。




啄木歌碑



神無月
岩手の山の
初雪の眉にせまりし朝を思ひぬ

啄木


盛岡三十三観音(第二十四番 吉祥寺)

2012-11-22 | ぶらり盛岡
第二十四番 吉祥寺   如意輪観音     盛岡市名須川町

吉祥寺は二十三番の光台寺に並んでおります。盛岡中央郵便局から歩いて10分ほど、上盛岡駅から歩いて5分ほどです。如意輪観音は本堂に安置されている。この如意輪観音は、紙本表装軸の画像で大和法隆寺の僧春日鏡秀によって描かれたものだそうです。





山門



本堂







如意輪観音



今朝(平成24年11月22日)の岩手山










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啄木の盛岡中学時代の歌


  岩間よぢて天(あめ)のよそほひ地のひびき朝のひかりの陸奥(みちのく)を見る


 明星  明治35年12月号に3首(その3)  石川白蘋 


啄木は明治35年10月に盛岡中学を退学しましたが、明治36年12月まで、ペンネーム「白蘋」で投稿しています


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切通坂 の啄木歌碑

2012-11-19 | 啄木歌碑
東京の切通坂(きりとおしざか)は啄木が朝日新聞社に勤務していた時、夜勤の帰りに通った道です。ここには、切通坂に由来する啄木の歌が刻まれています。



切通坂の案内




「御府内備考」には「切通は天神社と根生院との間の坂なり、是後年往来を聞きし所なればいふなるべし。本郷三、四丁目の間より池の端、仲町に達する便道なり、」とある。湯島の台地から、御徒町方面への交通の便を考え、新しく切り開いてできた坂なので、その名がある。
初めは急な石ころ道であったが、明治37年(1904)上野広小路と本郷三丁目間に、電車が開通してゆるやかになった。
映画の主題歌「湯島の白梅」"青い瓦斯灯(がすとう)境内を 出れば本郷切通し"で、坂の名は全国的に知られるようになった。
また、かって本郷三丁目交差点近くの「喜之床」(本郷2-38-9・新井理髪店)の二階に間借りしていた石川啄木が、朝日新聞社の夜勤の帰り、通った坂である。

二晩おきに 夜の一時頃に切通しの坂を上りしも 勤めなればかな

石川啄木 



       ― 郷土愛をはぐくむ文化財―   文京区教育委員会  平成11年3月





啄木歌碑






二晩おきに
夜の一時頃に切通しの坂を上りしも
勤めなればかな

石川啄木





歌碑の案内




"この歌は、石川啄木(1886~1912)の明治43年(1910年)の作で、『悲しき玩具』に収められている。文字は、原稿ノートの自筆を刻んでいる。
当時啄木は、旧弓町の喜之床(現本郷2-38-9・新井理髪店)の2階に間借りしていた。そして一家5人を養うため、朝日新聞社に校正係として勤務し、二晩おきに夜勤もした。
夜勤の晩には、終電車で上野の広小路まで来たが、本郷三丁目行きの電車はもう終わっている。湯島神社の石垣をまさぐりながら、暗い切通坂を、いろいろな思いを抱いて上ったことであろう。
喜之床での2年2か月の特に後半は、啄木文学が最高に燃焼した時代である。この歌は、当時の啄木の切実な生活の実感を伝えている。
文京区内で最後に残っていた啄木ゆかりの家"喜之床"が、この3月18日に犬山市の博物館「明治村」に移築、公開された。

            昭和55年5月3日  文京区教育委員会"



作品展

2012-11-15 | ぶらり盛岡
第42回 私たちの作品展が開催されています

期日: 11月14日(水)~11月18日(日)
会場: 盛岡市民文化ホール
主催:私たちの作品展実行委員会
共催:盛岡市、盛岡市教育委員会、(財)盛岡市文化振興事業団
入場料:無料
お友達と一緒に会場までいらしてください。

この作品展は盛岡市内で創作活動をしている団体の皆さんが日ごろの成果を発表する場として毎年秋に開催されております。今回は、26団体の250名の方から350点の絵画・工芸・手芸・写真・その他の作品が出品されております。



























岩手山(24年11月11日)






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啄木の盛岡中学時代の歌


  はても無うながれて水はかへりこず神に終りのさばき拒(いな)む


 明星  明治35年12月号に3首(その2)  石川白蘋 


啄木は明治35年10月に盛岡中学を退学しましたが、明治36年12月まで、ペンネーム「白蘋」で投稿しています


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盛岡三十三観音(第二十三番 光台寺) 

2012-11-05 | ぶらり盛岡
第二十三番 光台寺   聖観音    盛岡市名須川町

光台寺は1573年、羽前国(現・山形県)光台寺の住僧故関大和尚が盛岡に移錫、創立した。第27代盛岡藩主南部利直公の妻源秀院殿墓所を建立し現在に至っている。御本尊の阿弥陀如来は盛岡市の重要文化財に指定されている。
聖観音は本堂内に安置されています。この観音様は、城下町であった頃、葺手町にあった浄土宗頓証山菩薩院(廃寺になった)に安置されていた観音様であったと伝えられている。





光台寺








 聖観音様




ムカデ姫の墓
蒲生氏郷の叔父、小倉行隆には武姫(お武の方)という娘がいました。彼女は氏郷の養妹となっていたのですが、南部家27代利直のもとに蒲生家の家宝を持参して嫁ぐことになった。この宝物とは「大ムカデ退治」に使われた矢で、その大ムカデを討ち取った時の矢の根(鏃)を南部家に持参したのです。
ところが、お武の方が亡くなったとき、遺体の下の変色した形が、むかでのはいまわる姿に似ていたことから、 「お武の方が持ってきた、むかでを退治した矢の根石の怨念にちがいない」と人々は驚き恐れました。
この奇怪な出来事に利直公は、むかでは水を嫌うことから、堀をめぐらした土手の上に、 石垣でかこまれた墓を建立し、堀にかこまれた墓地に橋が架けました。ところが、 殿様の渡り初めを待つ夜に、不思議なことに一夜のうちにその橋が壊され、大騒ぎとなりました。 その後、何度橋を架けても、むかでが出て壊してしまいました。お武はいつしか、「ムカデ姫」と呼ばれるようになり、墓地を「むかで姫の墓」と呼ぶようになりました。 むかで姫の墓は、光台寺(こうだいじ)の境内にありますが、道路から直接行けるように整備されています。



ムカデ姫の墓





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啄木の盛岡中学時代の歌


  ふとさめし瞳とぢてぞ安かりし夢のゆくへの闇をおもひぬ


 明星  明治35年12月号に3首(その1)  石川白蘋 

啄木は明治35年10月に盛岡中学を退学しましたが、明治36年12月まで、ペンネーム「白蘋」で投稿しています



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