一日の王

「背には嚢、手には杖。一日の王が出発する」尾崎喜八

映画『悪人』 …あの人は悪人やったんですよね? ねぇ、そうなんですよね?…

2010年09月12日 | 映画
あなたは善人だろうか?
それとも悪人だろうか?
そんな単純な問いには、たぶん答えようもないと思うが、絵に描いたような善人がいないように、どうしようもない極悪人もそれほど多いとは思われない。
だが、世間一般、特にマスコミは、善人か悪人かはっきり決めたがる傾向にある。
加害者と被害者をはっきりさせなければニュースにならないからだ。
本当は、何が善で、何が悪か……その定義すらもはっきりしているわけではないし、この複雑怪奇な現代社会では、これは善、これは悪と、白黒をつけることはきわめて難しい。
それでも連日、TVや新聞には、いろんなタイプの悪人が登場する。
少なくとも自分は悪人ではないと思い込んでいる視聴者や読者たちは、それを批判の目で眺め、現在の自分の幸福を確認する。
悪人ではない自分の幸運に感謝する。
だが、私は思う。
〈この世の中に悪人じゃない人間はいないんじゃないか……〉
と。
善と悪の割合はほぼ半分ずつで、人の心の傾き加減で、それは善にもなれば悪にもなる。
そんな危うい均衡の上に人の心は成り立っている……。
9月11日(土)に封切られた映画『悪人』は、そんな自分の中の普段は意識しないダークな部分を否が応にも目の前に突きつけてくる作品であった。

原作である吉田修一の小説は、2007年の暮れに読んでいた。
福岡、佐賀、長崎が舞台で、イメージしやすさも手伝って、一気に読めた。
素晴らしい作品で、吉田修一の作品ではいちばん好きな小説である。

《世間でさかんに言われるように、出会い系サイトで会ったばかりの女を、本気で愛せる男なんておらんですよね? 愛しとったら、私の首を絞めるはずがないですもんね?
 でも、あんな逃げ回っとるだけの毎日が……、あんな灯台の小屋で怯えとるだけの毎日が……、二人で凍えとっただけの毎日が、未だに懐かしかとですよ。ほんと馬鹿みたいに、未だに思い出すだけで苦しかとですよ。
 きっと私だけが、一人で舞い上がっとったんです。
 佳乃さんを殺した人ですもんね。私を殺そうとした人ですもんね。
 世間で言われとる通りなんですよね? あの人は悪人やったんですよね? その悪人を、私が勝手に好きになってしもうただけなんです。ねぇ? そうなんですよね?》

ラストのこの文章を読んだときの心のふるえを、今も思い出す。

【ストーリー】
土木作業員の清水祐一(妻夫木聡)は、長崎郊外のさびれた漁村で生まれ育ち、恋人も友人もなく、祖父母の面倒をみながら暮らしていた。
車だけが唯一の趣味で、何を楽しみに生きているのか分からなかった。


佐賀の紳士服量販店に勤める馬込光代(深津絵里)は、妹と二人暮らしで、アパートと職場の往復だけの退屈な毎日を送っていた。

孤独な魂を抱えた二人は、偶然出逢い、刹那的な愛にその身を焦がす。
しかし、祐一にはたったひとつ光代に話していない秘密があった。
彼は殺人事件の犯人だった――。


数日前、福岡と佐賀の県境・三瀬峠で、福岡の保険会社のOL・石橋佳乃(満野ひかり)の絞殺死体が発見された。
事件当日の晩に佳乃と会っていた大学生・増尾圭吾(岡田将生)に容疑がかかり、警察は行方を追う。


久留米で理容店を営む佳乃の父・石橋佳男(柄本明)は、一人娘の死に直面し、絶望に打ちひしがれる。


そのうえ意外な事実が浮かび上がる。
佳乃は出会い系サイトに頻繁にアクセスし、複数の男相手に売春まがいの行為をしていたというのだ……。
愕然とする佳男は、その事実が受け入れられず、愛娘を喪った悲しみと犯人への憤りに苦しんでいた。


ついに逃げていた増尾が警察に拘束される。
だが、DNA鑑定から犯人ではないことが判明し、やがて新たな容疑者として金髪の男・清水祐一が浮上した。

祐一の祖母・房枝(樹木希林)は、祐一が殺人事件の犯人だと知らされ、連日マスコミに追い立てられるようになる。
房枝は、幼い頃に母親に捨てられた祐一をわが子同然に育ててきた。
孫の犯した罪に動揺する一方で、悪質な詐欺に遭い、追い詰められていく。


警察の追跡を逃れた祐一は、光代の元へ向かい、佳乃を殺めたことを打ち明け、警察に自主すると言う。
光代は衝撃を受けるが、思わず祐一を引き止めた。
殺人犯と分かっても、それでも光代は祐一と一緒にいたかった。
生まれて初めて人を愛する喜びを知った光代は、祐一と共に絶望的な逃避行へと向かう。
やがて、地の果てとも思える灯台に逃げ込んだ二人は、束の間の幸せなひとときを迎えるが、その逃避行が生んだ波紋は、被害者の家族、加害者の家族の人生をも飲み込んでいく――。
(ストーリーはパンフレットより引用し、構成)


暗い映画である。
明るさの欠片もない作品である。
原作を読んでいなくて、直接この映画を見たならば、その暗さに打ちのめされるかもしれない。
福岡、佐賀、長崎でロケされているが、『男はつらいよ』のロケ地みたいな名所旧跡などは登場しない。
殺伐とした郊外の風景であったり、人気のない峠や岬だったりする。
だが、それらの風景が実に魅力的なのだ。
物凄く風景にこだわった作品で、そこに登場人物の心象風景さえ映し出す。
映画にただ健全さだけを求める人は見ない方がイイと思うが、今年公開された『告白』や、ポン・ジュノ監督作品の『殺人の追憶』や『母なる証明』に感動した映画ファンにはぜひ見てもらいたい作品である。
それから、これは映画を見終わった後に気づくことであるが、この作品は純愛の物語であり、ラブストーリーであるということだ。
それは濁った泥水に咲く蓮の花のように美しい。


李相日(監督・脚本)
李相日監督といえば、2006年の『フラガール』。
日本アカデミー賞最優秀作品賞をはじめ、国内の映画賞を総ナメにした傑作だが、ことにラストの蒼井優のダンスは素晴らしかった。
もちろん映画館で見ているし、TVで放送された時にも見ている。
2004年の『69 sixty nine』も良かった。
村上龍の原作を映画化したもので、私の出身地・佐世保でロケされた映画ということもあって、特に印象深い作品。
『悪人』同様、妻夫木聡が主演していた。
『フラガール』と『69 sixty nine』の好印象から、李相日監督作品は期待できると思って映画館に駆けつけた。
そして、その期待は裏切られることはなかった。

妻夫木聡(清水祐一)
2003年の『ジョゼと虎と魚たち』と2004年の『69 sixty nine』は良かったが、その後の作品(2005年の『春の雪』以降)には、私個人としては特に惹かれるものがなかった。
今回は、『69 sixty nine』の時と同じ李相日監督作品。
妻夫木聡本人も、原作を読んで、「これは絶対にやりたい」と立候補したというだけあって、公開前からその意気込みがビシビシ感じられた。
撮影前に九州北部を一人旅し、実際に峠や灯台を訪れたりして役作りをしたとのこと。
自身を祐一に近づけていくという作業を大事にし、集中力が途切れないように気をつけていたようだ。
役としての祐一のキレっぷりは想像以上で、本当に驚いた。
ラストカットの表情も秀逸。
鑑賞後、この『悪人』は、彼の現時点での代表作になった……と思った。


深津絵里(馬込光代)
国道沿いにある紳士服量販店で、ガラス越しに外を見つめる登場シーンから、光代を演じる深津絵里の演技にくぎづけになった。


途中からはノーメイクに近いシーンも多く、深津絵里の覚悟を感じた。


佐賀の女を深津絵里が演じていること自体にも感動。
佐賀弁を話している彼女の表情が、佐賀の風景と共に忘れがたい。
本作において、第34回モントリオール世界映画祭・最優秀女優賞を受賞。
日本人女優の同賞受賞は1983年の『天城越え』の田中裕子以来2人目という快挙であった。


柄本明(石橋佳男)
岸部一徳と同様、どの映画にも出ている印象がある。
ここ2~3年のうちに私が見た映画でも、
『ぐるりのこと。』(2008年)、
『きみの友だち』(2008年)、
『ハッピーフライト』(2008年)、
『花のあと』(2010年)、
『孤高のメス』(2010年)など、数多くの映画に出演している。
出演時間の長短に関わらず、独特の世界を創り上げる演技力はさすがだ。
本作『悪人』は特に重要な役を与えられており、彼の存在なくしては映画の成功はなかったと思われる。


樹木希林(清水房枝)
『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』(2007年)の時はそれほど思わなかったのだが、今回、この『悪人』を見て、樹木希林の演技力の凄さに驚いた。
この映画の原作も、映画自体も、妻夫木聡と深津絵里を主人公としながら、ある意味「群像劇」と言えるもので、多くの登場人物の生活を映し出すのだが、この映画ではことにこの清水房枝を執拗にカメラが追っていたような気がする。
それは、樹木希林の演技がことに素晴らしかったからではなかと……。
樹木希林を見ているうちに、私は、昨年11月に見たポン・ジュノ監督作品『母なる証明』に出ていたキム・ヘジャを思い出していた。
『母なる証明』は物凄い傑作であったが、あのキム・ヘジャと同等の演技が、今現在できる日本の女優は、樹木希林をおいて他にはいないのではないかとさえ思った。


岡田将生(増尾圭吾)
金銭的に何不自由なく育った老舗の旅館の息子である大学生という役。
ルックスも良く、周囲からチヤホヤされ、人の心の痛みが解らないひねくれた性格の持ち主。
今年上映された映画『告白』で演じた熱血すぎてウザいKY教師同様、癖のある役を見事にこなしていた。
映画デビュー作『天然コケッコー』以来、注目している俳優であるが、日々成長しているのが嬉しい。
今年10月には、蒼井優と共演した『雷桜』の公開が控えている。


満島ひかり(石橋佳乃)
話題作『愛のむきだし』(2009年1月公開)で一躍有名になって以降、
『クヒオ大佐』(2009年10月公開)、
『食堂かたつむり』(2010年2月公開)、
『カケラ』(2010年4月公開)、
『川の底からこんにちは』(2010年5月公開)、
と、引っぱりだこの感がある満島ひかり。
裕福な大学生・増尾と付き合おうとする一方で、出会い系サイトにハマっていて、祐一や複数の男たちと売春まがいの行為をしている……という難しい役。
「私とはまったくタイプが違う」と感じつつも、その難役に果敢に挑戦。
「本当にこういう娘いそう……」と思わせるほどの好演。
ことに、三瀬峠で、笑いながら祐一を罵倒する場面は素晴らしい。
祐一に腕を掴まれ、絶叫するシーンは見応えあり。
今後の彼女の活躍が楽しみだ。


宮崎美子(石橋里子)
佳乃の母親の役。
ノーメイクの宮崎美子に驚いた。
すっかり、どこにでもいるおばさんの顔になっていた。
あのTVのクイズ番組で活躍している宮崎美子はどこにもいなかった。
2008年に公開された映画『きみの友だち』や、今年公開された『RAILWAYS 49歳で電車の運転士になった男の物語』の演技も素晴らしかったが、この『悪人』でもそれにも増して素晴らしい演技をしていた。
現在公開中の映画『君が躍る、夏』や、来月公開予定の『雷桜』などにも出演しているので楽しみだ。


この他、光石研もイイ演技を見せていたし、


私の好きな余貴美子も、出演時間は短いものの、祐一の母親を熱演していた。
(余貴美子もノーメイクに近く、最初見たとき彼女と気が付かないほどであった)


久石譲の音楽は文句なしの素晴らしさ。
曲の高ぶりを極力抑え、饒舌にならないように抑制された曲に仕上がっている。
いつまでも聴いていたいような美しい曲である。
エンディングのテーマ曲も、久石譲の作曲・編曲。
福原美穂の歌唱も素晴らしい。

この作品は、そのほとんどが福岡、佐賀、長崎でロケされているが、佐賀県でロケされた場所の一部を紹介しようと思う。

光代が働く紳士服量販店は、フタタ佐賀西バイパス店。


光代が自転車で通う通勤路は、鍋島駅近くの田園地帯。


祐一と光代が初めて待ち合わせをしたのは佐賀駅の南口ロータリー。


祐一に連れ出された光代が、翌朝、妹に電話をかけるシーンは、ポプラ大和店。


祐一が光代に人を殺したことを告白するイカ料理の店は、呼子のいか本家本店。




祐一が出頭しようとした警察署は、佐賀市諸富町の諸富警察署。


その他、白石町などでもロケされている。

最後に、
原作者であり脚本も担当した吉田修一は長崎県出身だが、
妻夫木聡(福岡県出身)、
深津絵里(大分県出身)、
満野ひかり(沖縄県出身)、
宮崎美子(熊本県出身)、
光石研(福岡県出身)、
松尾スズキ(福岡県出身)など、
出演者も九州・沖縄出身者が多かった。
チームワークの良さも傑作を生み出した要因のひとつかもしれない。

佐賀でロケされた1958年の野村芳太郎監督の名作『張込み』のように、この李相日監督作品『悪人』も、長く佐賀の人々に語り継がれる作品になるような気がする。
リアルタイムで映画館で見ておく価値のある作品であると思われる。

『悪人』と同じ、吉田修一原作、李相日監督作品『怒り』(2016年9月17日公開)のレビューは、コチラ

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