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快気分析

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仕組みとアプローチ -  本能寺の変 秀吉を追撃しなかった毛利氏のアルゴリズムは正しかった

2017-11-25 10:42:41 | 地震 津波
 本能寺の変の一報を受けた秀吉の軍勢は毛利氏と和睦し、中国大返しで京都に向かうわけですが、毛利氏にしてみればこのような秀吉の和睦は信長やその代理となる織田氏の了解を得たものではなく、当時としては言わば勝手に結んだ密約に近いものとも言えるわけで、このような協定は例え毛利氏が反故にした所で秀吉も協定破りを口にはしにくいはずだったとも考えられるのです。
 では「毛利氏が何故秀吉の軍勢を追撃しなかったか?」となると、当然、よく言われる通り、そして筆者もそう思いますが、毛利氏と秀吉が当時既に相当な共謀関係になっていたと考えられ、本能寺の変も或いは、明智家臣団の一部でもある旧足利幕府奉公衆経由などで変の決行数時間前あたりから伝令が発せられていた可能性も十分に考えられます。
 仮ににそうであるとした場合、実は秀吉や毛利氏、足利義昭らが変の発生が有るのを6月3日の昼ごろには知っていたとなり、それならば高松城周辺から姫路城に移動するスピードが異常に速い、と言うのも十分に裏付けられるわけです。
 中国大返しの速さが異常な事から秀吉黒幕説なども多いわけですが、以前にも記事にした通り、当時は未だ征夷大将軍であった足利義昭が常日頃から旧足利幕府奉公衆であった伊勢貞興らに信長襲撃命令を下していたならば、変の決行数時間前には伝令を送っていた可能性は高いと考えられます。
 しかし筆者は毛利氏や秀吉、そして足利義昭らが仮に共謀していなかったとしても、毛利氏は秀吉を追撃しなかったと考えています。
 理由は次の通りです。
 秀吉も毛利氏も本能寺の変について最初に情報を得たのは「第一報」に過ぎません。
 変の直前、直後での状況しかわからず、しかも信長や信忠の遺体は確認されていないのです。
 毛利氏が本能寺の変で信長が本当に実質討たれ、信忠も二条城で実質討たれたのがわkるのは、変の数日後ではないでしょうか。
 仮に変の数日後である6月8日あたりに毛利氏がほぼ正確な情報を得たとしても秀吉は既に遠くに行ってしまっており、その時点で秀吉の軍勢を追撃してもあまり意味は無いという事になるわけです。
 変からまだ日が浅い6月4日あたりに毛利氏が掴んだ不確かな情報で、毛利氏が秀吉との和睦を反故にして秀吉の軍勢を追撃、討伐にかかったとして、仮に信長が生きていた場合はかなりのペナルティーとなり、後の駆引きで相当なハンディを負う事になります。
 そして秀吉からの信頼も失う事になります。
 反対に仮に信長が生き残っておらず。本当に抹殺されたならば、織田方は跡目争い、家臣同士の争いなどで内紛状態になり、上杉氏、北条氏、長宗我部氏などが一斉に織田方に反撃の攻勢をかけて来るわけで、織田方の各武将が残っていたとしても逃げ帰る、或いはやっと防戦一方で、とても毛利氏攻めなど出来ない事となるわけで、結果として実際にそうなりました。
 更に毛利氏が本能寺の変の一報では「信長がまだ生きていると言う可能性」を考えた理由について、筆者はもう一つ有ると考えています。
 それは以前にも書きましたが、信長が仮病を装って弟の織田信行を清須城に誘き出し、暗殺した事実が有るからです。 
 この事を毛利氏が知っていれば、或いは知らなくても当時の戦乱ではこうした謀略が頻繁に行われていたはずと思われ、「いくら信長の弟でも敵対していたならば信行でも仮病を使ってでも暗殺すると言うなら、敵対している毛利氏が同じ様にして仮病のクーデターで誘き出されると言うのは十分に考えられる。本能寺の変というクーデターも信長と光秀が共謀した仮病であり毛利氏を秀吉追撃に誘き出して迎撃するはず。」とリスクを想定したのではないか、と筆者は考えています。