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快気分析

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仕組みとアプローチ -  本能寺の変 明智光秀には予想外の時期に起きてしまったと見る理由

2017-09-30 12:55:59 | 地震 津波
 9月22日の記事などでは、追い詰められた斉藤利光が本能寺の変を急に起こした可能性が高いと筆者が考えている事を書きましたが、「明智光秀の予想外の時期に起きてしまった」、と見られるのには以前の記事で書いた事以外にも理由があります。
 それは「光秀があまりにも準備不足だったとしか見えない」と言う事です。
 その一つは、織田信孝を討つ動きも無かった事。これが山崎の戦いで破れた一つの要因でもあると考えてます。
 更に信長親子を討つのなら、他の武将、つまり長宗我部氏や毛利氏、更には上杉氏などと事前に打ち合わせを行い、日をほぼ同じくして一斉蜂起するべきなのにそうした記録は有りません。
 一斉蜂起すれば明智方になびく武将も多かった可能性が高いだけでなく、織田方でも寝返りする武将も少なからず有ったはずですが、そうはならなりませんでした。
 もう一つはルイス・フロイスは、「山崎の戦いで明智方が破れたのは人質をとらなかったから」、と書いており、人質をとる時間も判断する余裕も無かったと考えられ事。
 更に決定的な準備不足が見て取れます。
 それは「信長の遺体を回収する事が出来なかった」と言う事です。
 信長ならば討たれる事がもう確実とわかれば、当然ながら自分の遺体とわかるものを残さないようにしたはずです。
 理由は織田信忠、信孝が討たれたかどうかは信長には当時最後までわからず、生きていれば当然ながら信長の遺体が回収されない方が、跡継ぎや家臣などには離反や寝返りを防げて有利だからです。
 そう言う事は戦国の当時ではよく行われていたのではないでしょか。
 そうした事例に何度も遭遇して信長自身も苦労した経験もあったはずで、こうした信長の判断は自然に出て来て不思議ではないと思われます。
 そして信長の遺体が回収できなかったが為に、信長が生きている可能性も想定して明智方になびく武将は殆ど無く、山崎の戦いでは明智軍が大敗します。
 光秀のような知略家がそのような事を想定して、「ニセの遺体か首」を事前に用意していなかったのは何故でしょうか。
 それは、信長に似た「ニセの遺体か首」となる予定の者を捜し出す時間もチャンスも無かったから、と筆者は考えています。
 当時、京都は明智軍が包囲しており、仮に信長が生きていたとしても、生きていると言う証拠を大勢に見せる事は困難だったはずなのです。
 昔はDNA鑑定などは出来なかったのですから、光秀はニセモノでも良いからとりあえず信長と見分けのつかないソックリな首を晒してしまえば勝ちで、織田方からの離反者はかなり多かったと考えています。