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快気分析

何か快適な気分になれるような記事にしたいです。

仕組みとアプローチ -  仮に本能寺の変が無かったとしても毛利氏の反撃攻勢になっていたと考えられる理由

2021-01-17 21:04:55 | 明智光秀
 信長・信忠が敗死した本能寺の変が仮に無かったらどうなっていたか?
 きっと織田勢によって天下統一が成された可能性が高かったはず、と言う見方は今も多いのかどうかはわかりませんが、歴史専門家でもない私でもそれは無かったと思っています。
 ならばその理由となるシナリオとはどのようなものなのか?について記事にしてみました。
 織田信忠を名目上の総大将とし、信長がそれを更に総合管理監督する織田勢が毛利討伐に軍勢を進めるとします。
 仮にですが、信長・信忠が征夷大将軍に任命されていなかった場合についてと言う想定なのですが、次のような事が考えられるかと思っています。
 進撃して来る織田勢に対し毛利氏はまともに戦ってはかなわない。
 そこで形だけであっても征夷大将軍である足利義昭を織田勢があたかも襲撃して討取ったような形にしてしまうと言うのです。
 それには毛利方の部隊か、或いは調略で手先にしていた織田方の武将の軍勢によってあたかも織田勢の一部の部隊が征夷大将軍である足利義昭を討ちにかかった、或いは討ち取ったかのように見せかけるような謀略を実行する。
 足利義昭の遺体が仮に出て来なくても織田勢が征夷大将軍を襲撃したか、或いはそれで討たれたと解釈される。
 いずれにしても織田勢が征夷大将軍である足利義昭をその手で直接襲撃したか、或いは更に討ち取ったと言う事になり、名目上は信長・信忠は「逆賊」となる。
 そこで毛利氏は(旧?当時現?)足利幕府奉公衆らを含む明智勢のトップ、明智光秀に働きかけ毛利氏への寝返り工作を進める。
 そのネタとは「このままでは明智光秀さん、あなたは逆賊で逆臣になってしまいますよ」です。
 明智光秀が毛利氏に寝返ってもそれは「信長・信忠に対しては逆臣」だが「朝廷に対しては逆賊ではないし足利義昭に対しても逆臣ではない」わけで、そもそも信長が足利義昭を追放したのも「朝廷に対しては逆賊、足利義昭に対しては逆臣」と言う面も多少は有ったわけです。
 それで仮に明智光秀が毛利氏に寝返ってもそれは「逆賊ではない」だけでなく広義には「逆臣にはあたらない」とも解釈される。
 ここで織田勢は大きく崩れるわけです。
 そして更に既に仮に秀吉が毛利氏と癒着・共謀関係だったとすれば、秀吉にも同様に毛利氏への寝返りを宣言させる。
 秀吉も明智光秀と同様に「逆賊ではない」だけでなく広義には「逆臣にはあたらない」とも解釈できなくもない。この点は毛利氏と秀吉で以前から既に計算済。
 もしかした明智光秀もかなり前から同様な計算をしていたのかも知れないがそれはわからない。
 仮に明智光秀が毛利攻め援軍を信長に進言していたとすれば、それはこれが理由か或いは逆に信長への忠誠心と秀吉に対する疑惑だったかのどちらか、と言う事になる。
 更に明智勢の中で(旧?当時現?)足利幕府奉公衆ではなかった高山右近は、毛利氏に匿われていた荒木村重に恩義(高山右近の人質を処刑しなかった)が有って毛利方に寝返り、更には高山右近の近縁である中川清秀も秀吉との間で1580年に作っていた内誓紙の存在も有って毛利方に寝返った秀吉に寝返り。
 と言うわけで秀吉には自軍の数万の軍勢と更に配下の宇喜多勢数万が当然加勢、更に毛利勢数万が当然有って、更に寝返った明智勢も含めると軍勢は少なくとも10万前後となり、一方の織田勢は明智勢が抜けて問題にならない程に劣勢となる。
 これで瞬く間に信長・信忠が討ちとられるか、或いは片方だけが討ち取られるか、と言う状況は十分に考えられ、更に仮に両名とも何とか落ち延びられても、畿内に帰る途中で宇喜多勢にかなりの迎撃、追撃をされて将兵の多くを失う事になる可能性が高かったと思われ、更に畿内に戻れても上杉氏や旧武田の国人らが反撃攻勢に転じる、と言う状況になり、織田方の有力武将も防戦か逃げ帰るのがやっとと言う状況となり、世間も既に弱体化した織田勢には「征夷大将軍がそもそもの朝廷の官位なのだから」と言う事で織田勢に同情などしないようになる。
 そうしたプロセスで結局は信長・信忠は敗死かそれに近い状況になるばかりでなく、信孝、信雄ら織田家の血筋も皆逃亡、或いは処刑と言う事になっていたのかも知れません。
 本能寺の変が無くてもやはり同じかもっと織田勢の弱体化は酷かったとも思われます。
 ただこのプロセスだと秀吉が毛利氏の上に立つ事は出来ません。
 トップは当然、足利義昭が生きていればそれを擁立する毛利氏、足利義昭が落命していれば毛利氏単独、その次が明智光秀らとなるわけで、だとすれば本能寺の変が有った方が秀吉には有利だった事になります。
 秀吉はこうした事象分析にきっと長けていたのではないでしょうか。
 

仕組みとアプローチ -  なぜ織田信長・信忠共に征夷大将軍にならなかったのか

2021-01-12 23:45:38 | 明智光秀
 朝廷のトップ正親町天皇に対して毛利氏は征夷大将軍を足利義昭のままにしておいてもらえるように嘆願していた可能性は高い。
 当然です。
 如何に形骸化していたように見えていた征夷大将軍の足利義昭と言えども、毛利氏にとっては信長の織田勢に対して重要な駆け引きのカードだったはずなのですから。
 なので余程の事が無い限り、正親町天皇は信長、信忠や織田勢を征夷大将軍にしなかったはずだと考えられます。
 そして一方の信長の方も、誠仁親王を既に支配し始めている状況だった事からもわかるように朝廷を乗っ取るような動きだったわけで、正親町天皇の配下としての官位などいらない、と考えていた可能性は高かったのではないでしょうか。
 ただ正親町天皇も朝廷の要求に信長が同意するならば信長を征夷大将軍に任じても良い、と考えていたとは思います。
 朝廷の要求としてその一つは、誠仁親王を支配するのは止める事、そして京暦をそのまま続ける事、更に毛利氏を殲滅まではしない事、石見銀山やその他の御料地の既得権利は従来のままかそれ以上とする事、などだったように考えられます。
 当然ですが、当時の信長はそれに同意などはしなかったはずで、と言う事は信長の方も「征夷大将軍などイラナイ」と言う姿勢だったと見ています。
 しかし嫡男の織田信忠を征夷大将軍に任命する事に関しては、もしかするとですが、信長は条件次第で朝廷と同意するつもりが有ったのかも知れません。
 そのあたりの協議の最後が実は本能寺の変の前日に有った茶会ではなかったかと思っています。
 そして各史料から読み取れるのは、どうやらこの協議が決裂か朝廷側に不利な条件での決定に近かったのではないか、と言う感じに見えます。
 まず公家衆らが持参した手土産を信長が受け取らなかったと言う事が一つ、もう一つは公家衆らが帰る時には機嫌がよかったとは思えない状況だったと言う史料が残っているからです。
 と言う事は信忠の征夷大将軍任命は無かったのか?
 それともある程度の妥協的な条件で信忠を征夷大将軍にする事を信長が押し通して合意させてしまったのか?
 個人的にはと言う程度ですが後者の可能性もゼロではなかったと思っています。
 理由は簡単です。
 信長にとっては足利義昭が征夷大将軍の官位を解かれた方が毛利攻めには都合が良い事になり、一方の朝廷側は征夷大将軍任命を約束したところで翌日の本能寺の変で信忠が敗死してしまえばその話は無かった事にできるからです。
 仮にこの流れだったとすると征夷大将軍に任命される任官式を兼ねて、信長は明智光秀だけでなく、筒井順慶や中川清秀、高山右近など主な武将らとその部隊を京都に集めて出陣式を行う、と言う事になるわけで、京都に集まる多くの部隊の中に実は明智勢を偽装して信長を最初に襲撃した者達がいた、と言う可能性はゼロではないかと考えています。
 その他の可能性として斎藤利三の部隊によるもの、伊勢貞興ら室町幕府奉公衆らの部隊によるものなど、他にも信長と信忠に消えて欲しいという立場の者やその手先達は多々いたはずで、それらの部隊が京都に集結する事になった、と言うのなら簡単に本能寺の変が発生する事になったと言う所ではないでしょうか。
 

仕組みとアプローチ -  1578年から信長が妙に強気な姿勢に方向転換したと思われる理由

2021-01-11 10:54:03 | 明智光秀
 前回記事の続きになります。
 1578年からの信長は右大臣兼右近衛大将を辞した後は特に官職には就かず、朝廷に対する姿勢が急に変化します。
 当時においてまだ織田勢と対局できる力が有ったのは上杉氏と毛利氏、そして北条氏位だったのですが、その筆頭である上杉氏では1578年4月に重大な出来事が有りました。
 それは当主、上杉謙信の死去です。
 その後の上杉氏は家督争いで内戦状態となり、これが御館の乱でした。そしてこの乱により上杉氏は従来よりもかなり弱体化します。
 信長が自らを神のようにして行く方針に転換したのはまさにこの時だったのではないでしょうか。
 例えば安土城の天守が完成したのは1579年5月。
 工期から考えると、大体1578年あたりから工事を開始したと見て良いかと思えます。
 そしてキリシタンでありながら賀茂在昌が既に陰陽頭として確認されている旨が記載されているのが、史料では1580年と言う事になっています。
 これが意味するのはつまり、「朝廷(正親町天皇)側は1578年から1580年のどこかで既に信長を危険視していて、当時において火薬等の調達を実質支配していたイエズス会をも朝廷の側に取り込もうとした」と言う事だった可能性は十分に有ったと考えています。
 

仕組みとアプローチ -  征夷大将軍の足利義輝を討ち取った三好三人衆らはどうなったか

2021-01-11 09:48:45 | 明智光秀
 1565年、征夷大将軍の足利義輝は松永久通と三好三人衆らによって討取られます。
 その時とその後の状況は次の通り。

引用開始(一部抜粋)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%BE%A9%E8%BC%9D

足利義輝
(中略)
最期
しかし、傀儡としての将軍を擁立しようとする松永久秀と三好三人衆にとっては、将軍家の直接統治に固執する義輝は邪魔な存在であった。
久秀の長男・松永久通と三人衆は足利義稙の養子・足利義維(義輝の叔父)と組み、義維の嫡男・義栄(義輝の従兄弟)を新将軍にと朝廷に掛け合うが、朝廷は耳を貸さなかった。一方で義輝が頼みとする近江六角氏は永禄6年(1563年)の観音寺騒動以降、領国の近江を離れられなくなっていた。
永禄8年(1565年)5月19日、久通と三好三人衆は主君・三好義継(長慶の養嗣子)とともに清水寺参詣を名目に集めた約1万の軍勢を率い二条御所に押し寄せ、将軍に訴訟(要求)ありと偽り、取次ぎを求めて御所に侵入した(永禄の変)。義輝は自ら薙刀を振るい、その後は刀を抜いて抵抗したが、敵の槍刀で傷ついて地面に伏せられたところを一斉に襲い掛られて殺害された[注釈 5]。
(中略)
死後
義輝の死後、三好氏による主君殺害は世間を憤慨させた[41]。特に義輝と親しくしていた大名らは激しく憤り、上杉輝虎は「三好・松永の首を悉く刎ねるべし」と神仏に誓ったほどであった[41]。また、河内の畠山高政の重臣・安見宗房も「前代未聞で是非も無いこと。(略)無念の至りだ」と怒りをあらわにし、上杉氏の重臣らに弔い合戦を持ちかけている[41]。朝倉義景の重臣らも同様に、「誠に恣の行為で、前代未聞、是非なき次第で沙汰の限りだ」と怒りをあらわにしている[42]。
朝廷は義輝の死に悼惜し、6月7日に義輝に従一位・左大臣を追贈したばかりか、正親町天皇も政務を3日間停止して弔意を示した[43]。公家の山科言継は義輝の殺害を、「言葉がない。前代未聞の儀なり」と日記に記している。また、天皇に仕えていた女官も同様に、「言葉もないことだ」と嘆き悲しんでいる[43]。朝廷もまた、三好・松永の義輝殺害に強い怒りを感じていた[43]。
(中略)
天正17年(1589年)5月18日、毛利輝元が非命に斃れた義輝の25周忌に際して、鹿苑院塔主・西笑承兌にその仏事を依頼した[48]。これは、「鹿苑院塔主が導師を勤めれば、昌山(足利義昭のこと)も喜ばれるだろう」と考えた輝元の配慮でもあった[48]。

引用終了

 と言う事でやはり征夷大将軍と言う官位にある人物を討ち取ったと言うのは朝廷の威信を低下させると言う点で多くの大名らを敵に回した状況だったようです。
 そしてその後、三好三人衆は朝廷に見込まれた信長によって駆逐され、松永久秀・久通父子は一度は信長の配下になりますが、結局は信長に反抗して1578年に敗死します。
 これらの流れから考えれば、信長が当時において征夷大将軍であった足利義昭を在位のまま討取ると言う事はあまり考えられないような気もします。
 しかしどうなんでしょう。
 松永久秀・久通父子を敗死させた同年の1578年に、信長は右大臣兼右近衛大将を辞した後は特に官職には就かず、その後は本能寺の変まで散位のままだったのです。
 征夷大将軍であった足利義昭を討った三好三人衆を駆逐した信長が何と「ミイラ取りがミイラになってしまった」と言う見方ができなくもない感じもします。
 1578年以降と言えば信長が1575年の長篠の戦いで武田氏を弱体化させ、そして多くの大名を実質配下にして、残る敵対する有力大名は上杉氏と毛利氏だけ、長曾我部氏は信長に恭順する意が有り(それが信長に伝わっていたかどうかは不明ですが)、北条氏は有力ながらもほぼ中立と言う状況なのでした。
 ここまで信長の織田勢に力が付いてしまうと、信長が征夷大将軍を討ち取り、朝廷の威信を低下させたとしても信長を批判し敵対する有力な大名などの勢力がもう殆どいない状況だったのではないでしょうか。
 三島暦を主張してあたりで信長は既に朝廷の威信など考えていなかったようにも見えます。
 果たして信長はどう考えていたのでしょうか。
 いずれにしても引用資料の末尾に有る通り、「天正17年(1589年)5月18日、毛利輝元が非命に斃れた義輝の25周忌に際して、鹿苑院塔主・西笑承兌にその仏事を依頼した[48]。」と言う事からもわかる通りで、毛利氏が足利義昭を対信長との抗争で重要な駆け引きのカードにしていたとしか考えられません。
 仮に信長らの織田勢が毛利討伐に来れば、毛利氏は「織田方によって足利義昭が討たれたようにデッチ上げてしまう謀略」を実行する可能性が有った事は十分に考えられますが、信長はそれも承知で毛利殲滅を敢えて決行しようとしたのか? それとも毛利氏の画策を予想できていなかったのか? 果たしてどちらだったのでしょう。
 そしてそのような状況の中で本能寺の変が発生したのでした。
 

仕組みとアプローチ -  毛利氏の謀略リスクを信長は想定できていなかったのではないか

2021-01-10 22:43:25 | 明智光秀
 信長が毛利討伐を強行し、毛利氏に匿われていた足利義昭を「敢えて征夷大将軍に在位のまま」敗死させた場合にどうなるか、ですがこれについては多くの事象が考えられます。
 まず毛利氏は朝廷を支えると言う重要な外交カードを失う事になり、そして信長に対立する多くの勢力の殆どがその支えを失う事にもなります。
 そして忘れてはいけないのは、(旧?当時の現?)室町幕府奉公衆で信長の織田勢に入っていた明智勢の立場です。
 いくら既に形だけの室町幕府だったとは言え、名目上であっても朝廷が認めた征夷大将軍と言う官位を維持していた足利義昭を、織田方の部隊として(旧?当時の現?)室町幕府奉公衆が討つとなると、それは(朝廷に対する)逆賊であるだけでなく(足利義昭に対する)逆臣となってしまうのです。
 なので(旧?当時の現?)室町幕府奉公衆らはそれだけは出来ない、と言う状況だったのでしょうか。
 実際に信長が足利義昭を「征夷大将軍に在位のまま」敗死させようとしていたのかどうかはわかりません。
 ですが仮にそのつもりが無くても、信長が毛利討伐を決定した時点で実は足利義昭は敗死の形にされてしまう可能性は有った、と考えています。
 どうやったらそうなるのか?ですが、それは毛利氏による謀略で「足利義昭が征夷大将軍に在位のまま信長に敗死させられた」と言う事実をデッチ上げられる事ではないでしょうか。
 信長が毛利攻めを決行しようとした段階で既に(旧?当時の現?)室町幕府奉公衆らが信長を襲撃する要素は十分に確立されていた、とも言えるのでしょうか。
 本能寺の変の主力部隊が(旧?当時の現?)室町幕府奉公衆だったとなったと言うのも頷けます。
 こうした状況に気が付くのが遅れた信長は自身の権勢に溺れていたとも解釈できるわけで、やはり「高転びに転んだ」のかも知れません。
 そして信長に毛利攻め援軍を要請したのは秀吉でした。