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快気分析

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仕組みとアプローチ -  信長はグレゴリオ暦普及を潰す為もあって三島暦を主張したのか

2021-01-10 10:50:52 | 明智光秀
 本能寺の変の前、信長は三島暦の採用を朝廷に主張していたのですが、これが朝廷に対する挑戦的な意味だけだったのか、と言うもう一つ、別の意味も有ったのかとも思っています。
 それはローマ教皇のグレゴリウス13世が当時既にグレゴリオ暦を考えていたようで、それを信長が阻止する意図も有ったのではないか、と言う事です。

引用開始(一部抜粋)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%AC%E3%82%B4%E3%83%AA%E3%82%AA%E6%9A%A6

グレゴリオ暦(グレゴリオれき、羅: Calendarium Gregorianum、伊: Calendario gregoriano、英: Gregorian calendar)は、ローマ教皇グレゴリウス13世がユリウス暦の改良を命じ、1582年10月15日(グレゴリオ暦)から行用されている暦法である。
(中略)
改暦委員会と改暦案の提案
ユリウス暦による春分日のずれを、ローマ・カトリック教会としても無視できなくなり[4]、第5ラテラン公会議(1512-1517)において改暦が検討された。このときフォッソンブローネ司教のミデルブルフのパウル(en:Paul of Middelburg)(1446-1534)は、コペルニクスを含めてヨーロッパ中の学者に意見を求めた。しかし、コペルニクスは「太陽年の長さの精度は不十分であり、改暦は時期尚早である」と返答した[5][6]。コペルニクスは彼の主著「天球の回転について」の序文でこのことを明記している[7]。
次に、トリエント公会議(1545年 - 1563年)において、実際の春分日を第1ニカイア公会議の頃の3月21日(つまり修正すべきユリウス暦のずれの蓄積は公会議開催の325年からの約1240年間分にあたる約9.6日間で、これを10日のずれと見做した)に戻すため、教皇庁に暦法改正を委託した。時の教皇グレゴリウス13世は、これを受けて1579年にシルレト枢機卿を中心とする改暦委員会を発足させ、暦法の研究を始めさせた。この委員会のメンバーには、最初の改暦案を考案した天文学者のアロイシウス・リリウスの弟であるアントニウス・リリウスや数学者クリストファー・クラヴィウスらが含まれていた。委員会が1577年に刊行したCompendium novae rationis restituendi kalendarium(Compendium of the New Plan for Restoring the Calendar: 暦改正の新しい原理の大要)という24ページの冊子[注釈 6][8]によると、アロイシウスは1252年に書かれたアルフォンソ天文表における365日5時間49分16秒 = 365.242 5463日を採用し[9]、改暦案を考案した。しかし、アロイシウスは1576年に死亡しており、その年に実際に案を委員会に提出したのは弟のアントニウスである[10][11][12]。
(中略)
改暦の実施
改暦委員会の作業の末に完成した新しい暦は1582年2月24日に発布され、ユリウス暦1582年10月4日木曜日の翌日を、曜日を連続させながら、グレゴリオ暦1582年10月15日金曜日とすることを定め、その通りに実施された。

引用終了

 と言う事でグレゴリオ暦の実施は1582年10月ですが、1579年には既に改暦委員会が発足しいて、1582年2月24日に発布されていたわけです。
 信長はイエズス会経由で1579年以降、少なくとも1582年3月には既にその話を聞いていたのではないでしょか。
 信長はイエズス会と対抗する姿勢に転じると今度はこのグレゴリオ暦が邪魔になると考えたのではないでしょうか。
 そこで持ち出したのが三島暦。
 つまり三島暦採用の主張は、京暦を使っていた朝廷に対する対抗意識だけでなく、イエズス会、つまりはスペイン・ポルトガル勢に対する挑戦の意味も有ったのではなかったのか、と考えています。
 国内では1577年にキリシタンでありながら陰陽頭になった賀茂在昌はそのまま本能寺の変以降まで在位を続けます。
 これが意味する事とは「正親町天皇を頂点とする朝廷が親イエズス会の力を借りてでも信長の権力拡大に対抗しなければならなくなっていた」と言う事だったように思えてしまいます。
 1575年の長篠の戦いで武田勢を撃退して弱体化させた信長の勢力拡大に歯止めがかからなくなって来たのを、朝廷が危険視し始めていた事の一つの証拠とも解釈できるのですがどうでしょう。
 仮にその通りだったとすればですが、信長は朝廷からもイエズス会からも既に敵視されていたはずで、そんな状況の中で本能寺の変が発生します。

仕組みとアプローチ -  家康がスムーズに征夷大将軍になったワケ

2021-01-09 14:25:24 | 明智光秀
 家康がスムーズに征夷大将軍になったワケ・・・・・・・・前回の記事が仮に真相ならばその理由は簡単に説明できます。
 官位とは朝廷のある意味ブランドなのですから、それを無理に否定しない方が良いのに、無謀にも信長は自らを神とする為に朝廷の権威を失墜させようとした為、朝廷だけでなくそれ以外の多くの各勢力をも敵にして多数決で抹殺されたのではないでしょうか。
 このプロセスを観察していた家康は関ヶ原の戦いから間もなくの1603年に、後陽成天皇の勅使である勧修寺光豊の実質「勅命」に従い、征夷大将軍の官位に任命されます。
 それは何と大坂の陣の10年以上前です。
 そして関白や太政大臣の官位は豊臣家からまた公家衆に戻されたのでした。
 信長の失敗を良く観察していたどころか、「関白や太政大臣の官位を公家衆らに保障して安心させる」と言う「お土産」までつけた家康や徳川家臣団らの知恵が生きた事例ではないでしょうか。

仕組みとアプローチ -  三職推任問題 信長が狙っていたのは当時の征夷大将軍を在位のまま落命させる事だったのか

2021-01-09 12:12:09 | 明智光秀
 信長は1578年に右大臣兼右近衛大将を辞した後は特に官職には就かず、その後は散位のままだっったのですが、これに対して朝廷からは征夷大将軍・太政大臣・関白のうちどれかに任官することが朝廷側か、或いは信長側からか定かでは有りませんが、話合われたようです。
 しかし結局はこの話は進展せず、信長が本能寺で落命するまで、嫡男の信忠までもが上記の官位には任官しなかったのでした。
 これが一体どういう事なのか?と言う点については様々な見方が有るようです。
 もしかすると、と言う程度の見方に過ぎませんが、信長は1578年に右大臣兼右近衛大将を辞した後、その後は朝廷から官位を与えられたくなかったのではないでしょうか。
 仮に官位を与えられたければ自分でなくても嫡男の信忠にどれか一つの官位を与えられるように動いたはずだからです。
 そして信長のもう一つの目的とは何か?となるのですが、それは次のような事ではなかったのかと考えています。
 「朝廷の官位など意味の無いものに過ぎないと世に知らしめ、朝廷の官位とは別の新たな権威の有る役職を信長自身が創設する。その為には当時の征夷大将軍である足利義昭が在位のまま信長らの織田勢に討たれて落命しなければならない。これから始まる毛利攻めでは足利義昭を征夷大将軍に在位させたまま必ず落命させる」。
 信長はそこまで考える程の妄想家ではなかったはずでは?と言う見方も有るかも知れませんが、しかし実際にそれまでの京暦に代わり三島暦を採用させようとした信長の意図とは、明らかに朝廷の権威失墜も含んでいたと言う事は普通に推定できる事ではないでしょうか。
 いずれにしても足利義輝が武将に殺害された過去の事例も有ったわけで、当時に於いて征夷大将軍であった足利義昭にとっては(この意図を悟っていればの話ですが)明らかに窮地であり、そして旧足利幕府奉公衆らに信長殺害命令を下していたものと考えていますが真相はどうだったのでしょう。
 

仕組みとアプローチ -  秀吉が出世競争で明智光秀にせり勝つには毛利氏と連携・共謀するのが早道だったのは確か

2021-01-04 22:42:37 | 明智光秀
 前回記事の続きになります。
 単刀直入にわかりやすく言えば、「秀吉が出世競争で明智光秀にせり勝つには敵方である毛利氏と連携・共謀するのが早道」だった可能性が高い、と言う事です。
 出世競争だけではなかったかも知れませんが、気に入らない味方の武将を消しちゃおうとした例は、小西行長が加藤清正の居所などの軍事機密を敵方に敢えてリークした例(結局失敗)が有ります。
 信長が最後に残したと言われている言葉「余は自ら死を招いたな」とは「家臣同士の競争をあまりにも煽ると、それがアダとなって敵方と共謀してしまう、と言う事に信長が気が付いた」と言う事だったのかも知れません。
 

仕組みとアプローチ -  長曾我部氏が信長に恭順する姿勢だった可能性は高いと考える理由

2021-01-04 20:54:17 | 明智光秀
 本能寺の変の前、信長は毛利討伐と長曾我部討伐を同時に決行しようとしていました。
 それで長曾我部氏が信長に敵対する姿勢だったのか?、それとも信長に恭順する姿勢を見せ始めていたのか、と言う点ですが、一つの見方として後者の方の可能性は高いと思っています。
 理由は石谷家文書にある内容だけでなく、仮に長曾我部氏が信長に敵対する姿勢が強かったならば、毛利氏と連携をとって様々な事が出来たはずだからです。
 例えば、毛利氏に匿われていた足利義昭を鞆から四国経由で上洛させ、室町幕府奉公衆らを総決起させたり、或いは明智光秀をサポートしたりもできたはずだし、或いは毛利氏と組んで瀬戸内海の制海権を秀吉方から奪回する事も有る程度可能だったはずではないでしょうか。
 ところがそうした動きが全く記録に見当たりません。
 仮に毛利氏が秀吉と癒着、共謀関係に有ったなら長曾我部氏から毛利氏への連携の誘いを秀吉が介入して毛利氏が連携の話を断っていた、と言うのなら理解できる気がします。
 そして長曾我部氏は毛利氏と連携出来ない事がわかり、信長に恭順する意思を示した文書を送った(石谷家文書)その直後に本能寺の変が発生したのでした。
 信長に恭順する文書が効果を発揮してしまうと困るのは誰でしょう?
 明智光秀のライバル秀吉と信長に滅亡させられそうだった毛利氏ではないでしょうか。
 やはり秀吉と毛利氏の関係は怪しかったと考えてしまうのですが、真相はどうだったのでしょう。