本能寺の変の前、信長は三島暦の採用を朝廷に主張していたのですが、これが朝廷に対する挑戦的な意味だけだったのか、と言うもう一つ、別の意味も有ったのかとも思っています。
それはローマ教皇のグレゴリウス13世が当時既にグレゴリオ暦を考えていたようで、それを信長が阻止する意図も有ったのではないか、と言う事です。
引用開始(一部抜粋)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%AC%E3%82%B4%E3%83%AA%E3%82%AA%E6%9A%A6
グレゴリオ暦(グレゴリオれき、羅: Calendarium Gregorianum、伊: Calendario gregoriano、英: Gregorian calendar)は、ローマ教皇グレゴリウス13世がユリウス暦の改良を命じ、1582年10月15日(グレゴリオ暦)から行用されている暦法である。
(中略)
改暦委員会と改暦案の提案
ユリウス暦による春分日のずれを、ローマ・カトリック教会としても無視できなくなり[4]、第5ラテラン公会議(1512-1517)において改暦が検討された。このときフォッソンブローネ司教のミデルブルフのパウル(en:Paul of Middelburg)(1446-1534)は、コペルニクスを含めてヨーロッパ中の学者に意見を求めた。しかし、コペルニクスは「太陽年の長さの精度は不十分であり、改暦は時期尚早である」と返答した[5][6]。コペルニクスは彼の主著「天球の回転について」の序文でこのことを明記している[7]。
次に、トリエント公会議(1545年 - 1563年)において、実際の春分日を第1ニカイア公会議の頃の3月21日(つまり修正すべきユリウス暦のずれの蓄積は公会議開催の325年からの約1240年間分にあたる約9.6日間で、これを10日のずれと見做した)に戻すため、教皇庁に暦法改正を委託した。時の教皇グレゴリウス13世は、これを受けて1579年にシルレト枢機卿を中心とする改暦委員会を発足させ、暦法の研究を始めさせた。この委員会のメンバーには、最初の改暦案を考案した天文学者のアロイシウス・リリウスの弟であるアントニウス・リリウスや数学者クリストファー・クラヴィウスらが含まれていた。委員会が1577年に刊行したCompendium novae rationis restituendi kalendarium(Compendium of the New Plan for Restoring the Calendar: 暦改正の新しい原理の大要)という24ページの冊子[注釈 6][8]によると、アロイシウスは1252年に書かれたアルフォンソ天文表における365日5時間49分16秒 = 365.242 5463日を採用し[9]、改暦案を考案した。しかし、アロイシウスは1576年に死亡しており、その年に実際に案を委員会に提出したのは弟のアントニウスである[10][11][12]。
(中略)
改暦の実施
改暦委員会の作業の末に完成した新しい暦は1582年2月24日に発布され、ユリウス暦1582年10月4日木曜日の翌日を、曜日を連続させながら、グレゴリオ暦1582年10月15日金曜日とすることを定め、その通りに実施された。
引用終了
と言う事でグレゴリオ暦の実施は1582年10月ですが、1579年には既に改暦委員会が発足しいて、1582年2月24日に発布されていたわけです。
信長はイエズス会経由で1579年以降、少なくとも1582年3月には既にその話を聞いていたのではないでしょか。
信長はイエズス会と対抗する姿勢に転じると今度はこのグレゴリオ暦が邪魔になると考えたのではないでしょうか。
そこで持ち出したのが三島暦。
つまり三島暦採用の主張は、京暦を使っていた朝廷に対する対抗意識だけでなく、イエズス会、つまりはスペイン・ポルトガル勢に対する挑戦の意味も有ったのではなかったのか、と考えています。
国内では1577年にキリシタンでありながら陰陽頭になった賀茂在昌はそのまま本能寺の変以降まで在位を続けます。
これが意味する事とは「正親町天皇を頂点とする朝廷が親イエズス会の力を借りてでも信長の権力拡大に対抗しなければならなくなっていた」と言う事だったように思えてしまいます。
1575年の長篠の戦いで武田勢を撃退して弱体化させた信長の勢力拡大に歯止めがかからなくなって来たのを、朝廷が危険視し始めていた事の一つの証拠とも解釈できるのですがどうでしょう。
仮にその通りだったとすればですが、信長は朝廷からもイエズス会からも既に敵視されていたはずで、そんな状況の中で本能寺の変が発生します。
それはローマ教皇のグレゴリウス13世が当時既にグレゴリオ暦を考えていたようで、それを信長が阻止する意図も有ったのではないか、と言う事です。
引用開始(一部抜粋)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%AC%E3%82%B4%E3%83%AA%E3%82%AA%E6%9A%A6
グレゴリオ暦(グレゴリオれき、羅: Calendarium Gregorianum、伊: Calendario gregoriano、英: Gregorian calendar)は、ローマ教皇グレゴリウス13世がユリウス暦の改良を命じ、1582年10月15日(グレゴリオ暦)から行用されている暦法である。
(中略)
改暦委員会と改暦案の提案
ユリウス暦による春分日のずれを、ローマ・カトリック教会としても無視できなくなり[4]、第5ラテラン公会議(1512-1517)において改暦が検討された。このときフォッソンブローネ司教のミデルブルフのパウル(en:Paul of Middelburg)(1446-1534)は、コペルニクスを含めてヨーロッパ中の学者に意見を求めた。しかし、コペルニクスは「太陽年の長さの精度は不十分であり、改暦は時期尚早である」と返答した[5][6]。コペルニクスは彼の主著「天球の回転について」の序文でこのことを明記している[7]。
次に、トリエント公会議(1545年 - 1563年)において、実際の春分日を第1ニカイア公会議の頃の3月21日(つまり修正すべきユリウス暦のずれの蓄積は公会議開催の325年からの約1240年間分にあたる約9.6日間で、これを10日のずれと見做した)に戻すため、教皇庁に暦法改正を委託した。時の教皇グレゴリウス13世は、これを受けて1579年にシルレト枢機卿を中心とする改暦委員会を発足させ、暦法の研究を始めさせた。この委員会のメンバーには、最初の改暦案を考案した天文学者のアロイシウス・リリウスの弟であるアントニウス・リリウスや数学者クリストファー・クラヴィウスらが含まれていた。委員会が1577年に刊行したCompendium novae rationis restituendi kalendarium(Compendium of the New Plan for Restoring the Calendar: 暦改正の新しい原理の大要)という24ページの冊子[注釈 6][8]によると、アロイシウスは1252年に書かれたアルフォンソ天文表における365日5時間49分16秒 = 365.242 5463日を採用し[9]、改暦案を考案した。しかし、アロイシウスは1576年に死亡しており、その年に実際に案を委員会に提出したのは弟のアントニウスである[10][11][12]。
(中略)
改暦の実施
改暦委員会の作業の末に完成した新しい暦は1582年2月24日に発布され、ユリウス暦1582年10月4日木曜日の翌日を、曜日を連続させながら、グレゴリオ暦1582年10月15日金曜日とすることを定め、その通りに実施された。
引用終了
と言う事でグレゴリオ暦の実施は1582年10月ですが、1579年には既に改暦委員会が発足しいて、1582年2月24日に発布されていたわけです。
信長はイエズス会経由で1579年以降、少なくとも1582年3月には既にその話を聞いていたのではないでしょか。
信長はイエズス会と対抗する姿勢に転じると今度はこのグレゴリオ暦が邪魔になると考えたのではないでしょうか。
そこで持ち出したのが三島暦。
つまり三島暦採用の主張は、京暦を使っていた朝廷に対する対抗意識だけでなく、イエズス会、つまりはスペイン・ポルトガル勢に対する挑戦の意味も有ったのではなかったのか、と考えています。
国内では1577年にキリシタンでありながら陰陽頭になった賀茂在昌はそのまま本能寺の変以降まで在位を続けます。
これが意味する事とは「正親町天皇を頂点とする朝廷が親イエズス会の力を借りてでも信長の権力拡大に対抗しなければならなくなっていた」と言う事だったように思えてしまいます。
1575年の長篠の戦いで武田勢を撃退して弱体化させた信長の勢力拡大に歯止めがかからなくなって来たのを、朝廷が危険視し始めていた事の一つの証拠とも解釈できるのですがどうでしょう。
仮にその通りだったとすればですが、信長は朝廷からもイエズス会からも既に敵視されていたはずで、そんな状況の中で本能寺の変が発生します。