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快気分析

何か快適な気分になれるような記事にしたいです。

仕組みとアプローチ -  火縄銃の三段撃ちと2001年の映画「スターリングラード」の狙撃場面の類似点と相違点

2021-03-31 19:00:30 | 明智光秀
 明智光秀が火縄銃と弾薬の調達に貢献したからこそ長篠の戦いで織田、徳川勢が大勝できたと言うのはほぼ事実と見て間違いないと(個人的にはですが)考えています。
 その長篠の戦いで採用された三段撃ちですが以前の記事で書いた通り、その主な機能は「鉄砲の総数を隠すのに有効だった」と言う事かとおもっています。
 実はこれとやや似た戦闘方法が映画に有るのですが、これは狙撃が目的であって、火縄銃の総数を隠す為では無かった点が異なっています。

引用開始 2件(一部抜粋)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%89_(2001%E5%B9%B4%E3%81%AE%E6%98%A0%E7%94%BB)
『スターリングラード』(原題: Enemy at the Gates)は、2001年公開のアメリカ、ドイツ、イギリス、アイルランド合作の戦争映画。ジャン=ジャック・アノー監督。上映時間 132分。
第二次世界大戦時にソビエト連邦の狙撃兵として活躍し、英雄となった実在の人物ヴァシリ・ザイツェフを主人公に、当時のスターリングラード(現ヴォルゴグラード)における激戦(スターリングラード攻防戦)を描いたフィクション。

https://www.youtube.com/watch?v=JkNRdcbIV88
スターリングラード 伝説の始まり

引用終了

 youtubeの引用では砲撃音がおそらく進軍するドイツ軍のものなのでしょうが、この音に便乗してドイツ将兵を狙撃するシーンになっています。これは火縄銃ではないので煙が発生せず、それで何発も撃てたわけですが、しかし長篠の戦いの時代は火縄銃であり、煙が立つので狙撃を何発もするのは無理かと思えます。
 しかし煙が立ち込めている中で煙がどれだけ多いか少ないかと言うのは武田軍にはわからなかったはずで、それで「火縄銃の総数を武田勢は見誤った」と考えています。
 例えば火縄銃が300丁程度しか無いと考えて突撃した武田軍に対して実は600丁の火縄銃が三段撃ちのワン・ツー・スリーのワン・ツーは射撃を兼ねた合図と一部の銃の発砲であって、そのワン・ツーの後のタイミングであるスリーの時に一斉射撃すれば、武田軍にとっては想定外の銃撃を受ける事になったのではないでしょうか。
 当時は正確な時計など無かったのでこうしたワン・ツー・スリーと言う音で各部隊に情報伝達するしか無かったはずです。
 この戦いにはどこか武田軍を油断させる落とし穴が有ったとしか思えませんが、その1つはやはり「鉄砲の三段撃ちでのスリーによる一斉射撃の銃声で鉄砲の総数をわからなくした」と言うトリックが有ったのではないか、と思っています。

仕組みとアプローチ -  明智と言う名字の分布で思う事 歴史の真相は名字の分布である程度分かるケースも有るのか

2021-03-20 12:59:03 | 明智光秀
 光秀の名字である明智ですが、明智氏と言うのは岐阜県が発祥と言うのが通説のようです。
 「ならばきっと岐阜県あたりにこの苗字の人が多いのだろう」と調べて見ると意外な事実が有りました。

引用開始(一部抜粋)

https://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E6%98%8E%E6%99%BA

明智さん都道府県別(市区町村別)ランキング!!
詳しい情報はこちら

愛媛県 およそ190人
千葉県 およそ150人
大阪府 およそ150人
神奈川県 およそ110人
福島県 およそ100人

引用終了

 と言う事で別に岐阜県が多いわけではなく、そして四国と福島県に多いのでした。(分布図はこのサイトを直接ご覧ください。)
 四国と言えば秀吉が天下統一する前まで力が有った長曾我部氏ですが、もう一つ、福(後の春日局)が山崎の戦いの後に一時、長曾我部氏のところに身を寄せていたと言う説もあるようで、もしかしたら多くの明智一族や将兵らも四国の長曾我部氏の所に落ち延び、そして戦闘ノウハウや将兵や武器弾薬なども持って行った事も有って長曾我部氏が一時四国をほぼ制圧したのに貢献したのでしょうか。
 また福島県にも明智姓が多いと言うについては、そういえば天海の生まれが会津だったとする説にかなっているような気もします。

引用開始(一部抜粋)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%B5%B7

天海の出自
『東叡山開山慈眼大師縁起』に「陸奥国会津郡高田の郷にて給ひ。蘆名修理太夫平盛高の一族」と記されていることから、三浦氏の一族である蘆名氏の出自で、陸奥国に生まれたとされる。しかし同縁起には「俗氏の事人のとひしかど、氏姓も行年わすれていさし知ず」とあり、天海は自らの出自を弟子たちに語らなかったとある。また、「将軍義澄の末の御子といへる人も侍り」と足利将軍落胤説も同時に載せられている。果ては姿を変えて生き残った明智光秀であるという説まである(天海=明智光秀説)[1]。

須藤光暉は、諸文献の比較検討により、蘆名氏の女婿である船木兵部少輔景光の息子であると結論づけている[2]。

引用終了

 そしてもう一つ目に留るのは千葉県と茨城県にも多い、と言う事でしょうか。
 千葉県と言えば明智重五郎(光秀の嫡男である明智十五郎を暗示しているとも考えられなくもない)の名がある墓が有るのが市原市不入斗です。
 そして江戸城から増上寺にいたるエリアと上総土岐氏の居城である万木城のほぼ中間にこの墓が有る事は以前の記事で既に書きました。
 やや多い茨城県は常陸土岐氏が1590年まで続いていたエリアです。
 それから和歌山県や大阪府にもやや多く多少分布しているのすが、ここは雑賀衆、根来衆、雑賀衆、粉河寺衆(小牧長久手の戦いでは家康方として長曾我部氏と共に加勢した)が拠点としていたエリアも含まれています。
 そして和歌山県も茨城県も共通するのは「紀州徳川家と水戸徳川家が有った所」と言う点です。
 また滋賀県もやや多いのすが、ここは明智光秀の拠点で配下である近江衆のエリアでした。
 明智と言う名字(苗字)の分布からは何かやはり明智光秀の嫡男、明智光慶がやはり天海なのか、或いは明智光秀か明智光慶が身を隠しながら天海を代理人として家康の徳川幕府を動かしていたのか?とも思えてしまいます。
 一方で明智平の有る栃木県には明智と言う名字の人が殆どい無いようで、これはやはり江戸時代以前にはここには明智平と言う地名が無かった事を意味していて(地名がそれまでに有ったのなら地元で明智姓の人が少なからずいたはず)、「安土桃山時代末期か或いは江戸時代以降、つまり天海が江戸幕府を強力に体制強化した時、徳川幕府としてここを明智平と名をつけた」と解釈できてくるような気もします。
 真相は現時点においてわかりませんが、何だかやはり、と言う気もします。
 個人的な見方に過ぎませんが「歴史の真相は名字の分布である程度推定できるケースも有る」とは考えていますがどうでしょう。



仕組みとアプローチ -  秀吉と光秀の違い それは討ち取った武将と似たニセモノの首を用意していたかどか

2021-03-17 00:23:03 | 明智光秀
 明智光秀が秀吉に政権を乗っ取られた原因は何か? について考えてみたいと思います。
 無論、それは山崎の戦いで秀吉勢が大勝した事によるのですが、その前から既に光秀には敗因が有りました。
 それは「本能寺の変の時に信長の首をニセモノでも良いから予め用意していなかった事」です。
 一方の秀吉はどうやら「予めニセモノでも良いから明智光秀や斎藤利三の首を用意していた」からこそ、少なくともこの二人の首を晒し首に出来たが故に「朝廷や他の武将、武家以外の民衆にマウンティングできた」と思われるのです。
 本能寺の変、そして山崎の戦いは共に6月ですから、討ち取った武将の首など、元々損傷だらけのはずだし更にすぐに腐敗するはずで、ある程度似たニセモノの首を用意するのはそれほど困難ではなく、ニセモノの首でごまかせたはずです。
 では明智光秀は何故ニセモノの信長の首を予め用意していなかったのか?
 それは以前の記事で書いた通り、「本能寺の変が明智光秀の意図するものではなく、何者かが明智勢を装って信長を襲撃したから」、或いは「明智光秀は信長に最後まで忠実でなければいけない立場で有ったか或いはそういう立場で有ったが故に信長に似たニセモノの首を晒せなかった」と言うロジックにもなって来ます。
 秀吉は本能寺の変の後に「信長様は生きておられる」ような旨のウソを各武将に情報拡散しているのですが、これって「信長の首を既に誰かが隠したか消してしまっているからこそ言える事」か、或いは「明智光秀は信長に忠実であるか或いはそういう立場であるが故に信長に似たニセモノの首を晒す事は決してない、と言う確信が有ったからこそ言える事」のどちらかではないでしょうか。
 明智光秀は例えニセモノであろうと信長の首を晒せなかったが故にマウンティングできず、そして秀吉は用意周到に明智光秀や斎藤利三らの首を予め用意していたが故にがマウンティングできた。
 仮にに足利義昭が上洛できればニセモノであっても信長の偽物首を晒し首にしてマウンティングできたのでしょうが、それが毛利氏のサポートが得られずかなわなかった。
 その違いが秀吉による政権奪取に至るプロセスの大きな要素と思えます。
 全て毛利氏に主導権が有ったとしか思えません。
 

仕組みとアプローチ -  家康は本能寺の変を含めると明智光秀に6つの恩義が有った、と考える理由

2021-03-14 14:19:01 | 明智光秀
 明智光秀が即日大敗した山崎の戦いですが、家康はこの戦いに仮に間に合うとしたらですが、おそらく反明智側として加勢するような解釈が一般のようです。
 しかし「家康には本能寺の変も含めると実は6つの恩義が明智光秀に有った」、と解釈できなくもないのです。
 一つは長篠の戦いの勝利で家康はその後更に力をつける事が出来たわけですが、その勝利の要因となった火縄銃やその弾薬の調達に貢献したのが明智光秀だといわれている説が有力だからです。
 もう一つは水野信元が信長の命によって家康の家臣によって暗殺された原因となったのが、実は佐久間信盛による「水野信元の武田氏との内通疑惑」に関する讒言が原因とする説もまた有力なようです。
 その後に佐久間信盛が解任され追放されたのが、実は「明智光秀による讒言が原因とする説」もまた有力であり、実際に畿内方面軍軍団長であった佐久間信盛の後任は明智光秀になっていたわけで、そうすると明智光秀は家康に代わって「佐久間信盛に対する恨みを讒言によって果たした」と言う事にもなります。
 実は佐久間信盛の配下には何故か水野信元の兄弟が二人も入っているのです。

引用開始(一部抜粋)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E4%B9%85%E9%96%93%E4%BF%A1%E7%9B%9B#%E4%BF%A1%E9%95%B7%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8B19%E3%83%B6%E6%9D%A1%E3%81%AE%E6%8A%98%E6%AA%BB%E7%8A%B6%EF%BC%88%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E8%AA%9E%E8%A8%B3%EF%BC%89

佐久間信盛
(中略)
家臣・与力
(中略)
尾張衆
水野守隆
水野忠重

引用終了

 それにしても信長は変な人事政策をしますね。
 佐久間信盛に恨みを持つしか思えない2人(水野信元の兄弟)を二人も配置するなんて、まるでこの兄弟を使って「チクリ返し」させてそれをネタに佐久間信盛を追放しようとでもしたのでしょうか。
 信長ってもしかして家臣同士を争わせる言わば叩き合い、チクり合い状態にして、家臣からの反感を回避したり、或いは信長の子孫、親族らが更に力をつけるように仕向ける傾向が強かったのではないでしょうか。
 そして水野守隆(水野監物守隆)は本能寺の変の後、明智光秀に同行し、それがアダとなって山崎の戦い後は消息が良くわからない事となり、また水野忠重は織田信忠の下にいたのですが、本能寺の変の時に信忠をさっさと見捨てて無事脱出し、その後は関ヶ原の戦いの直前まで生きていました。
 水野一族にとっては信長抹殺と言う形で兄弟の仇討をしてくれた’のが、つまり本能寺の変の主力部隊になるわけですが、それが本当に明智勢なのかどうかと言うのはわかっていません。
 がしかし名目上では明智光秀や斎藤利三を中心とする明智勢であるわけで、ならば「名目上であれ水野一族にとって明智光秀や斎藤利三には御恩が有る」と言う解釈も成り立つとは思っています。
 そして家康も水野兄弟を叔父とするわけである上、また桶狭間の戦いでも家康は水野信元の手引きで三河に逃げ帰る事が出来たわけで家康にとっても水野信元には恩義があったはずです。

参考
引用開始(一部抜粋)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E9%87%8E%E4%BF%A1%E5%85%83

水野 信元
(中略)
信元殺害の原因
『松平記』が記す信元殺害の原因は、秋山信友が攻略した美濃国岩村城を天正3年(1575年)に信長が囲城した際、水野領から食料の調達に応じる者があり、これを聞いた佐久間信盛が信長に対して、信元の内通を訴えたというものである(巻6)。

信元の死後、その所領は、信盛が失脚する天正8年(1580年)までの間、佐久間領となったことが「小河かり屋跡職申し付け」との「信長公記」(巻13)の記述より推測されている[31]。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E9%87%8E%E4%BF%A1%E8%BF%91

水野信近
(中略)
天文12年(1543年)の水野忠政の死後、刈谷水野氏を継いだ。永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いの直後、今川家臣の岡部元信に城を攻められて討死した[3]。享年36[1]。ただし、城主である信近は討ち取ったものの、援軍の得られなかった岡部隊は駿河に引き上げたために落城させられなかったとする説も有力である[4][5]。

その一方、緒川城主である次兄の信元とは別行動をとっていたようであり、桶狭間の以前に水野十郎左衛門は今川義元や斎藤道三と連絡をとりあっていた形跡がある[6]。

引用終了

 信長が水野信近を今川方と織田方に両立てするように(わかっていながら)泳がせておいて利用した挙句に抹殺したのか、そしてまた水野信元を武田方と織田方に両立てするように(わかっていながら)泳がせておいて利用した挙句に抹殺したのか、どうなんでしょう。
 いずれにしろ、水野信元暗殺の件で佐久間信盛へのリベンジをした件、長篠の戦いの件で武器弾薬調達に貢献した件、そして水野信近と信元を抹殺した信長、築山殿と信康の抹殺を支持したと言う説が有力な信長、を討った主力が仮に(本当の首謀者や主犯はともかくとして冤罪であれ何であれ)明智光秀で有れば、家康は明智光秀や斎藤利三には6つの恩義が有った事にもなる、と解釈出来てしましまうのは私だけでしょうか。
 だとすると山崎の戦いで実は家康は水野守隆らの軍勢と共に明智方に加勢する予定ではなかったのか?とも考えられて来るのです。
 武人としての仇討やリベンジと言う観点で言えば家康の立場とはそうなって来る面が有ると思うのです。
 その後の天海の存在や日光東照宮の近くの明智平と言う名前、そして春日局の権勢を見るとそれはやはり、としか思えないのですが真相はどうだったのでしょう。

仕組みとアプローチ -  有力なキリシタン武将がまだ東軍にいた関ヶ原の戦い

2021-01-26 13:01:34 | 明智光秀
 関ヶ原の戦いでは高山右近が前田利長の配下で東軍側で活動、京極高次は東軍として大津城の籠城戦を戦いました。
 実はもう一人、有力なキリシタン武将が東軍として戦っていました。
 それは筒井定次。
 養父の筒井順慶が仏教徒だったのであまりイメージがわかないかも知れませんが、1592年に洗礼を受けています。
 と言う事で東軍側には関東地方では有るものの蒲生秀行、九州方面ではあるものの黒田孝高(黒田如水)、有馬晴信、大村喜前も含めて主な有力な武将が合計7名。
 一方の西軍側には小西行長、織田秀信、織田秀則の3名。
 そして織田家は信長がキリスト教を凌駕する存在を目指そうとした前例が有った事、小西行長は戦上手な加藤清正と仲が悪かった事もあり、イエズス会が西軍側に見切りをつけた可能性は高かったかと考えています。
 家康は当時、巧妙にイエズス会を味方につけて関ヶ原の戦いに勝利した事になります。