明治27年(1894年) | 6月25日 長野県諏訪郡平野村(現岡谷市)西堀に生まれる。 |
明治41年(1908年) | 平野村小井川尋常小学校 高等3年終了。 |
大正2年(1913年) | 県立諏訪中学校(現諏訪清陵高等学校)卒業。 |
大正8年(1919年) | 東京美術学校(現東京芸術大学)西洋画科を卒業。この時より童画、版画を専攻。 |
大正10年(1921年) | 「子供之友」その他に子ども向きの絵を描き始める。中村梅子と結婚。 |
大正11年(1922年) | 「コドモノクニ」「赤い鳥」「金の船(星)」「コドモアサヒ」「キンダーブック」など多くの児童雑誌が、この頃創刊され、大正の児童文学の波がおこった。 |
大正12年(1923年) | 処女童話集「お伽の卵」(目白書房)発行。 |
大正13年(1924年) | 東京銀座資生堂にて初の個展「武井武雄童画展」を開き、「童画」という言葉を創造。 |
大正15年(1926年) | 郷土玩具の収集が一万点に及び北原白秋より”蛍の塔”と名づけられる。長篇童話「ラムラム王」(叢文閣)を発行。父・慶一郎亡くなる。 |
昭和2年(1927年) | 日本童画協会を同士6人と結成。特集「花園の車」(フタバ書房)を発行。 |
昭和4年(1929年) | ”イルフ・トイズ(ILF.TOYS)”展を東京日本橋三越で開催。 |
昭和5年(1930年) | 「日本郷土玩具・東西篇」(地平社)を出版。 |
昭和10年(1935年) | 私刊本「十二支絵本」を創始し芸術の分野に造本美術を新しく加えることを提唱。これが刊本作品の第1号となる。 |
昭和13年(1938年) | 母、長男、次男を失う。エッチング(銅版、絵本の名作「地上の祭」)を発刊する。 |
昭和16年(1941年) | この年4月より3年がかりで「武井武雄愛蔵こけし図譜・全60葉」を吾八より刊行。 |
昭和20年(1945年) | 5月の空襲で池袋の家が全焼。作品および貴重な資料を失う。岡谷に疎開。文化団体「双燈社」を起こし、芸術文化の運動を行う。 |
昭和23年(1948年) | 東京の荏原に単身仮寓。 |
昭和24年(1949年) | 板橋区南常盤台に新居を構え、”一掬庵”と称す。 |
昭和34年(1959年) | 児童文化に貢献した功績により紫綬褒章を受ける。 |
昭和35年(1960年) | 授章記念と刊本作品No.40開頒を兼ね、第1回全国友の会を開催する。従来の武井武雄私刊豆本の呼称をNo.22より「武井武雄刊本作品」と改める。造本美術の随筆集「本とその周辺」(中央公論社)を出版。童画の作品は12,560点に達する。 |
昭和37年(1962年) | 旧同志とともに戦争で解散されていた日本童画協会を復活。この時より毎年秋に白木屋(現東急)にて童画展を開催。 |
昭和42年(1967年) | 勲四等旭日小綬章を受ける。 |
昭和43年(1968年) | ソ連文化団体の招請により「児童文化訪ソ団」を結成し、その団長としてソビエト各地を歴訪する。 |
昭和46年(1971年) | 11月3日~15日 市立岡谷美術考古館にて「武井武雄作品展」を開催。 |
昭和50年(1975年) | 童画の代表作をのせた本「武井武雄作品集」が東ドイツのライプチッヒにて「世界で最も美しい本」として1975年のグランプリに選ばれる。この年で著書262種。 |
昭和54年(1979年) | 紺綬褒章および賜杯を受ける。 |
昭和57年(1982年) | 7月31日~8月8日 第四書票集、書票原画を中心として、市立岡谷美術考古館で「武井武雄作品展」を開く。 |
昭和58年(1983年) | 1月15日 日本橋たいめんけんにて刊本作品NO.137「ABC夜話」開頒。2月7日 心筋梗塞のため逝去。89歳。 |
昭和59年(1984年) | 5月27日~6月10日 市立岡谷美術考古館で特別展「武井武雄の世界」を開催。展示作品700点。 |
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