武井武雄をあいする会

童画家武井武雄が妖精ミトと遊んだ創作活動の原点である生家。取り壊し方針の撤回と保育園との併存・活用を岡谷市に求めています

武井武雄略年譜

2013年03月13日 20時16分57秒 | 武井武雄の世界
武井武雄をあいする会の設立趣旨入会申込み生家の保存・活用を求める署名生家保存・活用のための募金


明治27年(1894年)6月25日 長野県諏訪郡平野村(現岡谷市)西堀に生まれる。
明治41年(1908年)平野村小井川尋常小学校 高等3年終了。
大正2年(1913年)県立諏訪中学校(現諏訪清陵高等学校)卒業。
大正8年(1919年)東京美術学校(現東京芸術大学)西洋画科を卒業。この時より童画、版画を専攻。
大正10年(1921年)「子供之友」その他に子ども向きの絵を描き始める。中村梅子と結婚。
大正11年(1922年)「コドモノクニ」「赤い鳥」「金の船(星)」「コドモアサヒ」「キンダーブック」など多くの児童雑誌が、この頃創刊され、大正の児童文学の波がおこった。
大正12年(1923年)処女童話集「お伽の卵」(目白書房)発行。
大正13年(1924年)東京銀座資生堂にて初の個展「武井武雄童画展」を開き、「童画」という言葉を創造。
大正15年(1926年)郷土玩具の収集が一万点に及び北原白秋より”蛍の塔”と名づけられる。長篇童話「ラムラム王」(叢文閣)を発行。父・慶一郎亡くなる。
昭和2年(1927年)日本童画協会を同士6人と結成。特集「花園の車」(フタバ書房)を発行。
昭和4年(1929年)”イルフ・トイズ(ILF.TOYS)”展を東京日本橋三越で開催。
昭和5年(1930年)「日本郷土玩具・東西篇」(地平社)を出版。
昭和10年(1935年)私刊本「十二支絵本」を創始し芸術の分野に造本美術を新しく加えることを提唱。これが刊本作品の第1号となる。
昭和13年(1938年)母、長男、次男を失う。エッチング(銅版、絵本の名作「地上の祭」)を発刊する。
昭和16年(1941年)この年4月より3年がかりで「武井武雄愛蔵こけし図譜・全60葉」を吾八より刊行。
昭和20年(1945年)5月の空襲で池袋の家が全焼。作品および貴重な資料を失う。岡谷に疎開。文化団体「双燈社」を起こし、芸術文化の運動を行う。
昭和23年(1948年)東京の荏原に単身仮寓。
昭和24年(1949年)板橋区南常盤台に新居を構え、”一掬庵”と称す。
昭和34年(1959年)児童文化に貢献した功績により紫綬褒章を受ける。
昭和35年(1960年)授章記念と刊本作品No.40開頒を兼ね、第1回全国友の会を開催する。従来の武井武雄私刊豆本の呼称をNo.22より「武井武雄刊本作品」と改める。造本美術の随筆集「本とその周辺」(中央公論社)を出版。童画の作品は12,560点に達する。
昭和37年(1962年)旧同志とともに戦争で解散されていた日本童画協会を復活。この時より毎年秋に白木屋(現東急)にて童画展を開催。
昭和42年(1967年)勲四等旭日小綬章を受ける。
昭和43年(1968年)ソ連文化団体の招請により「児童文化訪ソ団」を結成し、その団長としてソビエト各地を歴訪する。
昭和46年(1971年)11月3日~15日 市立岡谷美術考古館にて「武井武雄作品展」を開催。
昭和50年(1975年)童画の代表作をのせた本「武井武雄作品集」が東ドイツのライプチッヒにて「世界で最も美しい本」として1975年のグランプリに選ばれる。この年で著書262種。
昭和54年(1979年)紺綬褒章および賜杯を受ける。
昭和57年(1982年)7月31日~8月8日 第四書票集、書票原画を中心として、市立岡谷美術考古館で「武井武雄作品展」を開く。
昭和58年(1983年)1月15日 日本橋たいめんけんにて刊本作品NO.137「ABC夜話」開頒。2月7日 心筋梗塞のため逝去。89歳。
昭和59年(1984年)5月27日~6月10日 市立岡谷美術考古館で特別展「武井武雄の世界」を開催。展示作品700点。
西堀区編「にしぼり 区誌文集」(平成9年)より


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