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伊藤正和・三沢弥太郎著『おかや歴史散歩』(昭和59年)に、岡谷の文化財として生家が紹介されています。
武井武雄とその生家
武井武雄は、大正から昭和にかけ幼年雑誌の童画をとおして全国の子供たちに、限りない夢と希望の灯をともし続けてきた童画家である。武雄は明治27年6月、岡谷市西堀に生まれ、旧制諏訪中学校を経て東京美術学校(現東京芸大)に進み画家を志した。当時、我が国大衆文化は新しい黎明期を迎え、児童文学も開花されようとしていた。この時、新鮮な画風をもって登場したのが美校卒業間もない武井武雄であり、彼の作品は、当時の代表的な幼年雑誌「日本幼年」「コドモノクニ」などに次々に発表された。以来、一線の画家として活躍する一方、武雄の主宰する児童文化運動が多彩に展開された。大正13年には武井武雄童画展を開いたが、この時初めて使われた”童画”は武雄の造語であった。また戦時中、郷里西堀に疎開し、終戦後、地元の同志とともに「双燈社(そうとうしゃ)」を結成し、地域の文化活動を繰り広げた。
武井芸術は、童画・版画・刊本作品に大別される。とりわけ刊本作品の製作は昭和10年から他界する直前(昭和58年2月・88歳)まで続けられ137号を数えた。その多彩な技法と豊かな創造性は他に類例がなく、わが国造本美術の金字塔ともいわれている。
武雄の祖先は江戸時代を通じて西堀村に住し、御中小姓として高島藩に仕えた藩士である。幕末に至り、曽祖父三十郎は私塾を開き無事庵と称した。祖父武成(改め一三)は、明治二年、士令士嚮導(しれいしきょうどう)となり、また、手習師匠として子弟を教育するとともに、戸長も勤めている。父慶一郎は平野村初代村長でもあった。
生家は間口9間半、奥行き6間ほどの切り妻造りで、正面右手に武家としての玄関がある。ひさしの下には家紋の入った水籠が吊されている。入口正面の切抜門は、はじめ茅葺きであったが最近瓦葺きに改められた。この家は元禄年間に火災で一部を焼き補修されたというが、昔の姿をよく残している。
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素晴しいブログですね・・・。
如何に全国レベルに展開を計るかが今後の課題かと・・・
知恵をお貸し下さい。
四月に一度お会いしましょう。
ブログの更新を楽しみにしています。
作品は作品として楽しむことができますが、やはり生身の人間と切り離してしまっては、魅力が半減します。生家は、武井武雄の原点だと思います。
将来、やっぱり残しておいて良かったと言われることを信じています。
西堀にて錦鯉、さつき盆栽を生活の糧としております西堀区民です。
武井武雄の作品には身近に接する機会も多く、子供達も小さいころから、よく目にしておりますので、なんだかとても親近感をおぼえます。
また双鐙社においては、亡義父も仲間になって活動させていただいており、いまでも手元に一冊の版画本が残されております。
なんとか、先の世まで皆に親しまれる存在であり続けて欲しいなと思います。