武井武雄をあいする会

童画家武井武雄が妖精ミトと遊んだ創作活動の原点である生家。取り壊し方針の撤回と保育園との併存・活用を岡谷市に求めています

初代片倉兼太郎生家

2014年04月30日 06時02分26秒 | 生家の価値
武井武雄をあいする会の設立趣旨入会申込み生家の保存・活用を求める署名生家保存・活用のための募金


 平成26年4月29日(火)、「2014シルクフェア in おかや」にあわせ、初代片倉兼太郎生家(岡谷市川岸上1-21-6)が特別公開されました。
 生家は、平成11年(1999年)7月に文化庁の登録有形文化財に登録。現在、片倉工業株式会社が管理しています。




 建築後200年以上経過していますが、内部は管理が行き届いていました。初代片倉兼太郎は、生涯この家を住居としたそうです。(嘉永2年~大正6年)
 明治6年に、この生家の庭で「10人繰り座繰製糸」を行ったのが、片倉工業株式会社の創業とされています。
 片倉工業株式会社は、世界遺産に登録されることが決定した「富岡製糸場」のオーナーでもありました。






 武井武雄生家についても、しっかりと維持・管理できる体制をつくり、保存をしていきたいと思いました。



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松本 猛氏による特別講演会の概要(4完)

2014年04月07日 06時33分53秒 | あいする会
武井武雄をあいする会の設立趣旨入会申込み生家の保存・活用を求める署名生家保存・活用のための募金


   講演録は4つに分かれています。前の部分を見る→    


 いわさきちひろの絵の話をしたいと思います。いわさきちひろの絵は、例えば横山大観と同じように朦朧(もうろう)体という描き方をします。線がなくて、おぼろげなぼかしの中に形が浮かび上がってくる。いわさきちひろの後期の絵には、線がほとんどありません。線のように見える部分も、絵の具がにじんでいって、そこに溜まったものが線のように見えるのです。
 これができるのはなぜかといえば、技術の進歩にほかなりません。大正から昭和初期にかけては、こうしたことはできませんでした。ものすごく制約があったわけです。でも、制約が厳しいからこそ、すぐれたものが生まれるということも実はたくさんあります。小口基實さんは造園家ですから、狭い場所だからこそ名庭園ができるというケースがあるのではないですか。同じように、色はこれしか使えないというときに生まれてくるものもあります。浮世絵も版画ということで、色の制約がある中で、あのような素晴らしいものが生まれてきた。ですから、制約があるということは悪いことばかりではありません。
 絵というものは、それを見て素晴らしいと感じる人がいるから価値があります。誰もが認める名画であるモナ・リザだって、地球上から人が一人もいなくなれば、物質にすぎなくなるんじゃないかと私は思います。ですから、絵というものは、それを見る人のイメージの中で自由につくることができます。どんなふうに解釈しても自由なんです。絵を読むということの楽しさは、その自由さを謳歌することでもあります。

海辺の時間

遠くには
空に続く
水平線が一本
浜辺では波が寄せては引く
その波の動きは
おじいさんの残した
振り子のある古時計みたい

渚にたつ小鳥の
柔らかな趾の裏を
引いていく波が
そっと洗う
浜辺に打ち寄せる波は
海の時計の秒の刻み


 これは、今年102歳になった日野原重明さんが、97歳の時に「いのちのバトン」という本を出された。いわさきちひろの絵を見て、つけてくださった詩です。絵から波の動きを感じて、さらに振り子の動きを感じたことが伝わってきます。また、波が引いていくときに、足の裏を流れていく砂の感じも何となくわかります。

亡き母や 海見る度に 見る度に


 これは、小林一茶の句です。数年前に「ちひろと一茶」という本を出したときに、私が勝手にくっつけました。一茶の俳句とちひろの絵を組み合わせていくと、とても面白いということを発見してつくった本です。実は「余白」が多い絵ほど解釈が自由なんですが、俳句というのも「余白」だらけなんですね。

 いわさきちひろは、三人姉妹の長女です。父親の岩崎正勝は梓川村出身で建築技師です。実は、若山牧水の奥さんになった人は、長野出身の太田喜志子という人なのですが、私の祖父と若山牧水は、この太田喜志子を争って、私の祖父は負けたそうです。もし勝っていれば、私はこの世にいなかったので、負けて良かったなあと思うんですが、祖父はそういう人で、文学をやり、小説なども書き、晩年は俳句をやって句会などを催していたそうです。母親の文江という人は、松本の新橋出身で、蟻ヶ崎を出て、奈良の女子高等師範学校の一回生です。女学校の植物の先生をしていました。白馬岳に初めて登った女性だといわれています。植物の採取をしていたら、女性が山に登ると山が荒れるというので、たいへん文句を言われたそうです。長生きしたので、私もよく憶えているのですが、たいへん合理的な精神の持ち主で、一緒に散歩をすると、「これは食べられる。これは食べられない」と教えてくれました。そして、おばあちゃんがわが家に来ると、いつも雑草をたくさん食べさせられることになっていました。いわさきちひろは、そんな家庭で育ったわけですが、家の中はとても自由で、女学校の友達から「ちいちゃん(ちひろのこと)のおうちは、花畑に花が咲いているようだ」と言われていたそうです。もっとも文江先生は学校では、足音を聞いただけで生徒が姿勢を正すような厳しい先生だったようです。
 文江おばあさんは、やがて女学校の先生から大日本青少年団の主事へと出世するんですが、最終的に満州にかなり関係する仕事をするようになりました。そのような仕事をする中で、自分の娘たちだけ地元に残すことはできないということで、娘たちを開拓団に参加させます。この開拓団で目の当たりにした生活というのが、とんでもなくすさまじい生活で、一時は命も危ぶまれるという状況になります。これを救ってくれたのが、部隊長の森岡という人でした。森岡部隊長の姪が、ちひろの教え子だったためです。ちひろは部隊長の官舎に引き取られます。そこでは、江戸前の寿司職人が和食をつくり、神戸のシェフが洋食をつくっていて、軍隊と開拓団との生活にあまりのギャップがあることを知ります。ちひろを日本に帰すことに反対する人が多かったのですが、森岡部隊長は刀の柄に手をかけて、「俺に逆らうのか」と言って強引に帰してくれたそうです。このような経験をして、世の中というものをものすごく考えるようになるんですね。
 東京に戻ると空襲に遭います。3月10日の空襲では、一晩で10万人以上が死んでいます。母は、その後の山の手の空襲で家を焼け出されて、命からがら川へ行って、水をかぶって生き延びたということです。そして、終戦を迎えます。
 これは、「戦火のなかの子どもたち」という本の一場面なんですけれども、自分自身が見た光景がたくさん描かれています。この本はベトナム戦争が激しく行われている頃描かれました。私はその頃学生で、一緒に本をつくりました。おそらく、母は自分の戦争体験を私に伝えるために、私に手伝えと言ったのではないかと思っています。これがきっかけとなって、母がこの後すぐに他界したこともあって、私は、母がやろうとしたことを自分がやろうと思って、絵本の世界に入っていくこととなりました。そして、私は、日本にはすごい絵描きが大勢いるんだということを知っていましたので、母が亡くなって美術館をつくるときに、「いわさきちひろ絵本美術館」としました。今は「ちひろ美術館」といっていますが、「絵本美術館」にしたのはなぜかというと、絵本画家の仕事を世の中にきちんと認めてもらうための美術館をつくりたかったからなんです。
 実は、私は母が亡くなったときに、全国のいろいろな美術館に展覧会をさせてくれないかとお願いしました。ところが全部門前払いです。要するに絵本の絵描きの絵なんていうのは、美術館で展示するものではありませんよということなんです。武井武雄先生が資生堂のギャラリーを借りて展覧会をやった時と同じレベルが戦後になっても続いていたんです。ですから、私は、自分の家を半分壊して、180平米の小さな美術館を始めました。幸い、武井先生、初山先生、母も頑張ったおかげで著作権が認められていました。それで、最初の10年間にちひろの本を100冊ぐらいつくったんですね。カレンダーもつくりました。それで基金をつくりました。ある程度の基金ができたところで、私は、世界中の絵本画家のコレクションを始めました。今では、2万点に及ぶコレクションとなっています。そのうち、いわさきちひろの作品は約9千点です。武井武雄先生の作品は、イルフ童画館があるので、うちはそれほどもっていませんが、それでも何点かあります。初山滋先生の作品は、ご遺族から寄託を受けて、残っているものはほとんどすべての作品を東京のちひろ美術館においています。

 絵を見ながら子ども達と話をすると、子ども達は本当に想像力が豊かです。季節はいつなんだろう。何時頃なんだろうね。どんな音が聞こえてくるのかなあ。絵の中の子ども達は何を見てるんだろうね。どんな会話をしているんだろう。子ども達と絵を見る機会があったら、ぜひ子ども達に声を掛けてほしいんです。子ども達のための絵、絵本の絵というのは子ども達が想像力を広げていくものすごく大きな力になる。子ども達を美術館に連れて行って、ギャラリートークをする。そうすることによって、子ども達の想像力というのは大きく広がっていくのです。

 安曇野ちひろ美術館は、岡谷からちょうど1時間ぐらいです。現在は冬期休館中ですが、ぜひ子ども達と一緒においでください。
 もっとお話ししたいことがあるのですが、終了の時間になってしまいました。
 どうもありがとうございました。

(完)
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