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武井家聞書控
武 井 武 雄
<押込襲来>
母や村の古老から聞いた話。
これは年代が明らかでないが、幕末に近い頃のことだったと思われる。
私の家に親戚の血気盛んな若者たちが二三名泊まり込んで、夜おそくまで刀の手入れなどしながら話し込んでいた。
「今夜あたり押込みでもやって来てくれると一寸面白いがなァ」とおだやかでないことを言ったその時、どうしてこんなにタイミングのいい事が起きるものか、抜き身をぶらさげた盗賊が二人押し入ってきた。
待ってましたとばかり斬り合いが始まった。なにぶん屋内でのチャンバラなのでそう長くは続かなかった。泥ちゃんの方はだんびらを振り上げてはいても、これはおどしのためで、ヤットウの方は素人の悲しさ、やばいと悟って逃げ出した。広円寺の木戸口まで追いかけたが、深追いするなと声がかかって止めたということだ。
やれやれと一件落着してから、こちらにも軽い怪我人が発見された。上の諏訪へ片ついていたおばさまという方が、寝たまま流れ刃でももに傷を受けていたが、そこは武士の妻、落着までは全く声を出さなかったというので、みんなに感心されたということだ。
傷を受けたのは人間だけではない。鴨居に刀痕が残っていたそうだ。この方は今でも残っているというわけ。京都で観光バスに乗ったとき、島原の角屋というその昔の妓楼に立ち寄ったが、幕末のチャンバラで方々に残された刀痕をいかにも目玉名跡のように宣伝して見せてくれた、そういうものなら我が家にもある。といっても、島原の方は青史に残るようなものだが、我が家の方は名もなき小泥棒の一件だから、洒落ではないがこれは太刀打ちできない。
さて、これには後日譚があって、この方が一寸面白い。西堀の人がガケの湯(別に鹿毛の湯というのもあるようだ)へ湯治にいったら、浴槽につかっている男二人が傷の治療に来ていて、
「あれはまったく失敗だったなァ。まさか武家だとは思わなかった。神社の傍らの門構えは神主の家と決まっているから勘違いしたよ。」
と話し合っていた。
この男二人が間違いなくお屋敷へ押込んだ泥棒だとわかりやしたと土産話をしてくれたそうだ。してみると先方様はご両名共結構手負いになっていたようだ。
<シャケカァ>
祖父一三の若い頃のことだったと思うが、水戸浪士天狗党が武田耕雲斎を頭目として、和田峠を越えて諏訪へなだれ込んできた。諏訪藩はこれと一戦を交えて阻止しなくてはならない立場だが、どうもあまりかかわりたくないらしく、樋橋のあたりで形だけ一寸小ぜり合いの真似事をしただけで、お通りを願ってしまった。
ある夕暮れ、一三が門前に佇んでいると、一騎の騎馬武者が現れて、割鐘のような大声で「シャケカァ」と怒鳴った。
これはどうも西堀あたりの常用語には無い言葉なので、何の事かわからず耳に手を当てて「はあッ」と聞き返したら、気の早い水戸浪士はイエスの意味に解して引き返して行ってしまった。
これは、神社の隣の門構えなので、前述の押込みと同じで「社家かァ」と聞いたわけであって、もしも武家だとわかったらただじゃ済まなかった。火くらいはかけられたに決まっている。一寸したことが運命の岐路になるものである。
西堀に利三郎という老人が居たが、若い頃水戸浪士の道案内をしてやった話をしてくれた。川岸のあたりまで案内したら二十文くれて、とても丁寧に礼を言って去ったということで、その二十文も当時としては相当過分なものに当たり、また丁寧に礼を言ったということも天狗党は単なる暴徒の群ではなかった事を意味している。利三郎は浪士に好意をもった話し方だった。
天狗党はその末路は悲劇的であって、全員捕らえられて入獄、最後は一人残らず刑死したのがその終焉で、武田耕雲斎の刑死したのが慶応元年二月ということだから、シャケカァのあったのは、元治か文久の終わり頃の事かと思われる。
武井秀夫編著「武井家三百年史」(昭和59年)より
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