武井武雄をあいする会

童画家武井武雄が妖精ミトと遊んだ創作活動の原点である生家。取り壊し方針の撤回と保育園との併存・活用を岡谷市に求めています

生家は長野県内最古級の民家

2013年03月27日 05時49分10秒 | 生家の価値
武井武雄をあいする会の設立趣旨入会申込み生家の保存・活用を求める署名生家保存・活用のための募金

 長野県内に現存する民家のうち、建築された年がわかっている最も古いものは、大町市美麻にある旧中村家住宅で、主屋は元禄11年(1698年)3月に棟上げされた記録があります。
 武井武雄の生家は、確かな記録こそないものの、元禄11年もしくは12年に建築されたと考えられることから、県内最古級の民家です。武家住宅としては、県内最古といって間違いありません。




長野県立歴史館「信濃の風土と歴史17『大地に刻まれた信濃の歴史』」(平成23年)より

おかや歴史散歩

2013年03月24日 22時15分22秒 | 生家の価値
武井武雄をあいする会の設立趣旨入会申込み生家の保存・活用を求める署名生家保存・活用のための募金

 伊藤正和・三沢弥太郎著『おかや歴史散歩』(昭和59年)に、岡谷の文化財として生家が紹介されています。

   武井武雄とその生家

 武井武雄は、大正から昭和にかけ幼年雑誌の童画をとおして全国の子供たちに、限りない夢と希望の灯をともし続けてきた童画家である。武雄は明治27年6月、岡谷市西堀に生まれ、旧制諏訪中学校を経て東京美術学校(現東京芸大)に進み画家を志した。当時、我が国大衆文化は新しい黎明期を迎え、児童文学も開花されようとしていた。この時、新鮮な画風をもって登場したのが美校卒業間もない武井武雄であり、彼の作品は、当時の代表的な幼年雑誌「日本幼年」「コドモノクニ」などに次々に発表された。以来、一線の画家として活躍する一方、武雄の主宰する児童文化運動が多彩に展開された。大正13年には武井武雄童画展を開いたが、この時初めて使われた”童画”は武雄の造語であった。また戦時中、郷里西堀に疎開し、終戦後、地元の同志とともに「双燈社(そうとうしゃ)」を結成し、地域の文化活動を繰り広げた。

 武井芸術は、童画・版画・刊本作品に大別される。とりわけ刊本作品の製作は昭和10年から他界する直前(昭和58年2月・88歳)まで続けられ137号を数えた。その多彩な技法と豊かな創造性は他に類例がなく、わが国造本美術の金字塔ともいわれている。

 武雄の祖先は江戸時代を通じて西堀村に住し、御中小姓として高島藩に仕えた藩士である。幕末に至り、曽祖父三十郎は私塾を開き無事庵と称した。祖父武成(改め一三)は、明治二年、士令士嚮導(しれいしきょうどう)となり、また、手習師匠として子弟を教育するとともに、戸長も勤めている。父慶一郎は平野村初代村長でもあった。

 生家は間口9間半、奥行き6間ほどの切り妻造りで、正面右手に武家としての玄関がある。ひさしの下には家紋の入った水籠が吊されている。入口正面の切抜門は、はじめ茅葺きであったが最近瓦葺きに改められた。この家は元禄年間に火災で一部を焼き補修されたというが、昔の姿をよく残している。



武井武雄インタビュー(1)

2013年03月23日 19時04分29秒 | 武井武雄インタビュー
武井武雄をあいする会の設立趣旨入会申込み生家の保存・活用を求める署名生家保存・活用のための募金
「武井武雄・メルヘンの世界」(昭和59年)諏訪文化社から抜粋
(昭和56年2月に収録、オール諏訪1、2号に連載されたもの)


- 武井先生は明治27年に岡谷市(当時平野村)西堀に生まれ、幼少期をすごされたわけですが、この頃の追憶の中から特に「絵」との関わり部分を中心にお話を。

写真1:明治31年2月18日撮影。武雄5歳

明治31年2月18日撮影
武雄5歳

 武井 僕には記憶はありませんが、一番最初に絵を描いたというのは三つの時、昔の数え年でですね。この時、桜の花を描いたということです。僕の祖父は一三といって、平野村の戸長をやっており、当時は病気で寝ていたんですが、祖父にその絵を見せたら大変ほめて、「偉くなれよ」ちゅって頭をなでたという。これは母から聞いた話です。それから間もなく祖父は亡くなりました。
 これは余談ですけれど、僕は岡谷市の生まれということになっていますが、非常に厳密にいうと中洲村(現諏訪市)の神宮寺です。つまり昔は、今でもそうかも知れませんが、嫁さんは里方へ行ってお産をする習慣があったんですね。僕の母の里は、神宮寺にある諏訪神社の神官の家なんですが、そこへ行って僕を生んだんです。だから僕が本当に生まれたところは母の里であり、中洲村神宮寺であるわけです。しかし岡谷市に生まれたと言ってもかまわないでしょう。

写真2:折井房之胸像(岡谷市立小井川小学校)

折井房之胸像
岡谷市立小井川小学校

 それから僕は小井川小学校に入学したわけですが、この一年生の時、つづり方「私は絵描きになります」って書いたんです。本当にその気があったんじゃなく、絵が好きだったんで、書いちゃったんですね。そしたら折井房之っていう先生がビックリしちゃってね。いま、小井川小学校の庭に武井直也君の彫刻で折井先生の胸像が建っていますが、その折井先生は、ずっと一年生を担任する先生でね、上諏訪の大和からゲタをはいて歩いて通ってきた先生です。僕の家の遠い親戚にもなる方です。
 僕の父は名を慶一郎といって、平野村の村長を30年もやっており、それに今でも村の人が「お屋敷」と言っているほど、いわゆる古々しい封建的な元藩士で旧家なんですね、僕の生家は。その地主の一人息子が絵描きになったら大変だ。やっぱり親父の跡を継いで村長になるか、何かそういう事をやってなくちゃいけないのに、事もあろうに”絵描きになります”っていうつづり方を書いたというわけ。折井先生が、その日のうちに僕の家に来たんです。そして親父に、「武雄はこういう事を書いたんでケシカランけれど、どうすりゃいいか」って。どうするもこうするもないんでね。一年生の書いたつづり方ですから。まあ絵描きなんて夢にも想像もできない商売で、びっくりさせられたということですね。

写真3:八幡郊処

八幡郊処

 それから、僕は病弱でしてね。どうも一人息子で過保護だったんじゃないかと思うんです。いつもノドをはらしたり、ロクマクになったり、疑似セキリになったり…。それで食べ物も制限され、お菓子もダメ、カキやスモモといった果物もダメ、トウモロコシも消化が悪いからといった始末。それでもう、方々の家の子供の食っているものを食いたくてしょうがなかったんですね。
 そういう風に虚弱児童だったんですが、この頃、親父と同年の八幡郊処が来ては僕を相手に、お子守して遊んでくれたんです。後に篆刻家となり、総理大臣の原敬が郷里盛岡に建立した寺の篆刻を彫ったほどの人ですが、郊処はその頃、まだ篆刻家じゃなく百姓で仙太郎さんといっていたんです。百姓だけど非常に教養があって学問も修めている人でした。
 その遊びというのが、どういう遊びかというと、紙に「ヤッ」と点を書いてよこすと、こっちはその点を元に何かの絵にして、今度は「ヤッ」と棒を引いて向こうへ渡すと、その棒を元に絵にして、また何かくっつけてこっちへよこすという遊びをしていたんです。郊処という人は芸術家風の人でして、そういう事がやはり僕に何か潜在的な影響があったと思うんですね。

- 武井先生の幼い日の”妖精ミト”との特異な話は、武井作品の芸術、メルヘンの原点ともいわれていますが、このミトについて

 武井 学校へ行かない年、つまり小学校二年生の時なんか、僕は病弱で2か月しか学校へ出ていないんです。それでも昔だから単位が足りないなんて言わず進級させてくれました。とにかく小学生の頃だいたい弱かったんです。それが”ミト”につながるんです。
 その頃、僕は戦争ごっこやいろいろやって外でも遊んだんですが、大部分は家で寝ていたものですから、友達が比較的ないわけですね。ですから自分で友達をつくったんです。それは空想的な人物でして、どういう顔や格好をしていて男か女かということも全然わかりませんが、ただ抽象的な人物を自分の中でつくっちゃったんです。これがいわゆる”妖精ミト”なんですね。
 それがあらゆる場合に呼べば出てくる。庭にリンゴの木なんかがあって登っていると、叔母が「ミトが来ているよー」って呼ぶとだれと遊んでいてもとんでいっちゃう。時にはコンペイトウの芯からポイッとミトが出てきたり、そういう空想的なものをつくって、それと毎日遊んでいたということですね。多分、夢の中でそいつが出てきて「俺がミトだ」と言い、それでメルヘン的なものを自分で創造しちゃったわけなんですね。  当時は、今ほど雑誌もないし、親戚の人が夏帰省してくる時、金港堂でお土産に子供の本を買ってきてくれる程度で、あまり文化財に恵まれていなかったんです。だからミトは自分が勝手につくった僕の心の中の友達だったわけです。このミトは、小学校三年になると、なぜか出てこなくなりました。

小井川小学校100周年記念碑のレリーフ(武井武雄作)



- 小学校までは虚弱体質だった武井先生は諏訪中学(現諏訪清陵高校)へ行くようになってから見違えるほど丈夫に。これは往復16キロの道を登下校で毎日歩いたためとのことですね。そこで、絵描きになる志望を固めた頃の模様を、島木赤彦の話も交えて。

写真5:旧制中学時代の武雄(明治45年1月)左から二人目

旧制中学時代の武雄
(明治45年1月)
左から二人目

 武井 中学生(旧制)になると、内向性だった小学生時代の反動で、いたずら少年になりました。先生の声色をマネたり、悪いことは何でも先頭になってやったり、いい中学生じゃなかったですね。
 それから本当に”俺は絵描きになるより他はない”と決心したのは中学三年の時です。しかし決定的に自分だけで決めて親父には黙っていたんです。そんなことを言うと、また、うるせーもんですから。ところが卒業するときになって、いよいよ黙っているわけにゆかず、「僕は美術学校(現東京芸術大学美術学部)を受けたいんだ」と言ったんです。そしたら親父は、「絵描きを志望するなんてとんでもない」と反対なんですね。  親父やお袋の考えでは、西堀の家に足止めしてくっつけておきたいんで、”眼医者だったら家にいて往診がないからいいだろう”ちゅって、眼医者が第一候補。もう一つは農科、農学部で、”そこへやって地主の旦那になってりゃいい”と思ったんですね。それと親父の反対の理由は他にもあったんです。
 当時、諏訪に美校を出た人が二人いたんですが、その前例が親父にとっては余り良い見本じゃなかったわけですね。ところがそんな事、僕の方はチンプンカンプン。「俺は違うんだよ」と言ってみても中学生の言うことには権威がない。しかし結局、親父も困っちゃって自分の思案にいかないもんだから、当時いちばん親父が信頼していた教育者に意見を聞きに行ったわけです。
写真6:島木赤彦

島木赤彦

 そのうちの一人が、スパルタ教育で有名な諏訪高女(現諏訪二葉高校)の初代校長の岩垂今朝吉という先生。もう一人は、当時の郡視学の久保田俊彦先生で後の島木赤彦、この二人に相談したんです。
 そしたら岩垂先生は、「いま、美術学校の三年生くらいの実力があったら受けさせてもいいでしょう」という返事。三年生くらいの実力がある奴が、いま改めて一年生に入っていく必要はないんですね。ところが、これはもののたとえで、とにかくそのくらいの天分があったらという意味なんですね。
 久保田先生の方は、「本人がやりたいというものをやらせれば一番将来性があって安全なものだ。自分がやりたくないものを無理矢理、親の意見でつっこんでやても、それはロクな者にならない。やりたいことは当人に責任を持たせてやらせろ」という返事なんですね。そこで親父もやっと折れ、美校を受けることを許可してくれたんです。だから島木赤彦は、そういう助言をしたことで恩人といえば恩人なんですね。
 ぼくが中学を卒えて東京に出てきた(大正二年)ちょうどその頃、久保田先生も東京に移られ淑徳女学校の国文(国語)の嘱託教師をしながら「アララギ」の編集を始め、名前も改め島木赤彦と名乗ったわけなんです。

岡谷の武井武雄生家、保存しよう 有志の会が寄付・署名検討

2013年03月23日 16時56分12秒 | 新聞記事
武井武雄をあいする会の設立趣旨入会申込み生家の保存・活用を求める署名生家保存・活用のための募金

(2013年3月22日信濃毎日新聞)


 岡谷市堀ノ内に残る同市出身の童画家武井武雄(1894~1983年)の生家の保存を求める有志たちの「武井武雄をあいする会」は20日夜、建築家・建築史家の藤森照信さん(茅野市出身)ら建築の専門家3人を招き、生家の価値について意見を交わすシンポジウムを岡谷市カノラホールで開いた。続きを読む(信州LiveOnの記事にリンクします)

武井武雄生家「岡谷の誇り」 あいする会が専門家招きシンポ

2013年03月23日 08時45分47秒 | 新聞記事
武井武雄をあいする会の設立趣旨入会申込み生家の保存・活用を求める署名生家保存・活用のための募金

 岡谷市出身の童画家、武井武雄の生家(同市堀ノ内)の保存を目指す「武井武雄をあいする会」(小口基実代表)は20日夜、建築の専門家を招いたシンポジウムを同市のカノラホールで開いた。主催者側の「予想を上回る」約130人が参加。閉会後、小口代表(65)は「皆さんから大きな力をいただいた」と喜び、今後については保存に向けた寄付の募集や署名活動を含め、賛同者から意見を募りながら検討していく方針を明らかにした。

 シンポジウムのテーマは「武井武雄とその生家について」。建築家で東大名誉教授・工学院大学教授の藤森照信さん(茅野市出身)、古民家再生を手掛ける建築家の降幡広信さん、元県文化財保護審議委員で信濃建築史研究室工学博士の吉沢政己さんが講師となり、造園史研究家で庭作家の小口代表が司会を務めた。生家の価値、残す意義をそれぞれの分野から語った。

 藤森さんは人間だけが感じることができる「しみじみ」や「懐かしさ」という感情について話した上で「武井武雄の作品はどこでも見られるが、生家という物的証拠は岡谷にしかない。生家は大人にとっては『しみじみ』や『懐かしさ』、子どもにとっては『誇り』を保証するもの。生家の存在は、武井武雄が岡谷の誇りであることを示している」と述べた。

 降幡さんは市が生家解体後の跡地を保育園の整備用地とする計画を踏まえ「保育園と生家を共存させることは可能。武井武雄記念児童図書館を保育園に併設してはどうか」と主張。「手を入れれば力強い生命力を持って蘇る」と持論を展開した。

 吉沢さんは県宝の旧渡辺家住宅(同市長地柴宮)と武井武雄の生家を市内に残る2軒の武家屋敷として対比させながら紹介。「武井家は板ぶき、渡辺家はかやぶき。屋根のつくりが違う武家屋敷が同じ市の中にあるというのは珍しい」と説明した。

 参加者からは「武井武雄の生家の価値は正しく評価されているのか」、「保存のための寄付を集めるというのであれば協力する」といった声が上がった。会場では1口1000円で会員を募り、37人が登録。会員数は約60人に膨らんだ。

 シンポジウムは生家の貴重さを多くの人に知ってもらい、保存の実現につなげようと初めて開いた。

平成25年(2013年)3月22日付け長野日報

武井武雄の墓

2013年03月22日 06時16分06秒 | 生家の価値
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 武井武雄の生家から程近い堂庵墓地内に武井武雄の墓があります。
 


 堂庵墓地には、武井家先祖代々の墓があり、武井家系図に記載されている者のうち、墓石に刻まれた文字から確認できる最も古いものは、武井武由(正保4年(1647年)~享保21年(1736年)。方暁院便譽即翁居士)の墓です。

武井武由(方暁院便譽即翁居士)の墓

現存する高島藩の武家住宅

2013年03月22日 05時12分04秒 | 生家の価値
武井武雄をあいする会の設立趣旨入会申込み生家の保存・活用を求める署名生家保存・活用のための募金

 高島藩の武家住宅で現存しているものは、3軒だけです。
 そのうち2軒が岡谷市内にあります。
 武井家住宅のほかは次の2軒です。
 武井家住宅にも、武家住宅の様式である長屋門、主屋、土蔵がセットで残されていましたが、土蔵については、平成24年秋に老朽化して危険であることを理由に取り壊されてしまいました。


【志賀家住宅】(諏訪市指定有形文化財 平成16年12月1日指定)


 志賀家住宅は安政2年(1855年)に建てられ、諏訪市内に唯一残された高島藩の武家住宅です。長年の経過により、外観は手が加えられましたが、内部はほとんど改造がなく、高島藩の武士の生活を物語る貴重な建物です。
 主屋は本棟造りともいえる切妻造妻入り(きりつまづくりつまいり)の主屋とその後ろに入母屋造(いりもやづくり)の梁間(はりま)を主屋の3分の1にした奥の間を二間付加した造りで、諏訪の武家住宅の特徴が現れています。また、道路に面して建つ長屋門、主屋、そして奥の土蔵と三棟が揃って残されている例は県内でも少なく、この点でも大変貴重な建築物です。
諏訪市教育委員会






【渡辺家住宅】(長野県宝 平成5年8月12日指定)

 渡辺家は代々諏訪高島藩に仕えた散居武士(城下町でなく在郷の村々に住んだ藩士)の家でした。安政年中(1854年~)の「家中分限帳」(武士の身分や禄高を記録したもの)によると、「郡方下役外様御徒士(こおりがたしたやくとざまおかち)18俵2人扶持」であったことがわかります。
 住宅の規模は、間口7間半(約13.5メートル)、奥行5間(約9メートル)で、外観は茅葺き・寄棟造りで内部には土間と炉の間があり、また居間に中床(ちゅうどこ)があります。
 この住宅の創築年代については、記録や墨書などは残されていませんが、南側の居間と台所の戸口が袖壁をつけた閉鎖的なものであること、柱の風蝕程度などから18世紀中ごろに建てられたと考えられます。その後、天保12年(1841年)から嘉永年間(1848年~1854年)のころまでにかけて改築工事をして、現状のような間取りになりました。現存する武士の家が全国的に少なくなった現在、この渡辺家はたいへん貴重なものです。
 この一家からは、3人の大臣が出ており、渡辺千秋(1843~1921年)宮内大臣と、渡辺国武(1846~1919年)大蔵大臣の兄弟はこの住宅で育ち、渡辺千冬(1876~1940年。千秋の三男で、国武の養嗣子)は、司法大臣になりました。
岡谷市教育委員会

武井武雄をあいする会シンポジウム(1)

2013年03月20日 23時52分06秒 | シンポジウム
武井武雄をあいする会の設立趣旨入会申込み生家の保存・活用を求める署名生家保存・活用のための募金

 3月20日(水・祝)岡谷市カノラホールで武井武雄をあいする会シンポジウム「武井武雄とその生家」を開催したところ、140名を超える市民の皆様にご参加いただきました。



 藤森照信氏(東京大学名誉教授・工学院大学教授)、降幡廣信氏(古民家再生建築家・元信大講師)、吉澤政己氏(工学博士・信濃建築史研究室・元長野県文化財保護審議会委員)を講師・パネラーに、小口基實代表の司会により、武井武雄生家の価値について、専門的見地から意見交換を行いました。

 シンポジウムの詳細については、後日あらためて掲載しますが、出席した市民の皆様からは、「これほど価値のある物が、なぜ今まで野ざらし同然に放って置かれたのか。」「市民の側でも全国から寄付を募るなどして、積極的に動いていく必要がある。」などの意見が出されました。

 シンポジウムを閉会するに当たり、参考までに、取り壊しに対する賛否を拍手により確認したところ、取り壊しに賛成する出席者は皆無でした。

 これを機に、生家を残し活用していくことに対する賛同者の輪を広げ、童画家 武井武雄の生誕地にふさわしいまちづくりについて、みんなで考えてまいります。


シンポジウムが開催されます

2013年03月16日 16時42分17秒 | シンポジウム
武井武雄をあいする会の設立趣旨入会申込み生家の保存・活用を求める署名生家保存・活用のための募金

 武井武雄をあいする会シンポジウム
「武井武雄とその生家について」が平成25年3月20日(水)岡谷市カノラホールで開催されます。

 岡谷市が生んだ童画家 武井武雄の生家が取り壊されようとしています。
 生家は、病弱だった武井武雄が幼い日に「妖精ミト」と遊んだ創作活動の原点となる場所です。
 武井武雄がいつまでも純粋な子どもの心を失わずに、大人も子どもも楽しめる作品を創り続けることができたのは、この生家が育んだ空想(メルヘン)の世界があったからなのです。

 私たちは、古いものを時代遅れのものとして捨て去ってきました。しかし、その結果、長い年月をかけて形成されてきた個性的な歴史・文化・景観は次第に忘れ去られ、ふるさとの特色は失われていきます。
 ふるさとに誇りをもち、ふるさとを愛する未来の子どもたちのために、残していかなければならないものがあるはずです。武井武雄の生家は、ふるさとの歴史・文化・景観を象徴する貴重な遺産であると考えます。

 何を未来に残すべきなのか、それをみんなで真剣に考えていきましょう。

 事前申込不要です。



長野日報記事

 平成25年(2013年)1月16日付け
 
 平成25年(2013年)3月6日付け