武井武雄をあいする会

童画家武井武雄が妖精ミトと遊んだ創作活動の原点である生家。取り壊し方針の撤回と保育園との併存・活用を岡谷市に求めています

あいする会の発足会を開催しました

2013年05月26日 21時10分42秒 | あいする会
武井武雄をあいする会の設立趣旨入会申込み生家の保存・活用を求める署名生家保存・活用のための募金

 「武井武雄をあいする会」は、平成25年5月25日(土)、岡谷パークホテルで発足会を開催し、活動を正式にスタートしました。

 発足会では、まず、基本方針として、この活動が文化活動であることと、武井武雄の生家を保存・活用し、岡谷市の未来を担う子どもたちの育成につなげていくことを目的とするものであることを確認しました。

 会の代表に小口基實氏、幹事長に小口博正氏、事務長に花岡智明氏の各氏を選出し、顧問として藤森照信氏、降幡廣信氏、吉澤政己氏、相談役として原田泰治氏にそれぞれお願いすることとしました。また、会の内部組織として、寄付委員会、署名委員会、運営委員会、広報委員会を設け、活動を推進していくこととしました。

 当面の目標として、武井武雄生家を保存、活用するための費用に当てるため寄付金1,000万円、賛同者からの署名10,000人分、会員数500人とすることが了承されました。

 会では、今後、上記の活動のほか、生家を保存・活用するための費用の見積、童画と生家のコラボレーションによる日本一ユニークな保育園の建設、八幡社や堂庵墓地等を含めた一帯の整備・活用などについての検討を行い、必要に応じて先進地の視察を行うなどして、岡谷市へ具体的な提言ができるよう準備を進めてまいります。


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徹子の部屋

2013年05月26日 19時18分58秒 | 武井武雄の世界
武井武雄をあいする会の設立趣旨入会申込み生家の保存・活用を求める署名生家保存・活用のための募金

徹子の部屋にゲスト出演したときの映像(冒頭部分のみ)

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増沢荘一郎氏による生家でのインタビュー映像

2013年05月26日 18時29分05秒 | 武井武雄インタビュー
武井武雄をあいする会の設立趣旨入会申込み生家の保存・活用を求める署名生家保存・活用のための募金

岡谷市の版画家 増沢荘一郎氏による武井武雄生家でのインタビュー

16分くらいから、武井武雄の芸術作品と生家との関わりに触れる部分が出てきます。封建的な旧家に生まれたが故に新しいものへのあこがれが人一倍強かったのだと…。武井の業績は、生家抜きには語ることができないのです。

(冒頭12秒間、音声がない時間があります。)

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コドモノクニのせんせいがたのかかれたじぶんのおかほ

2013年05月25日 22時54分38秒 | 資料
武井武雄をあいする会の設立趣旨入会申込み生家の保存・活用を求める署名生家保存・活用のための募金

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5月25日(土)「武井武雄をあいする会」の発足会を開催します

2013年05月21日 06時31分58秒 | お知らせ
武井武雄をあいする会の設立趣旨入会申込み生家の保存・活用を求める署名生家保存・活用のための募金

 先日開催された”武井武雄とその生家について”のシンポジウムには、多数の皆様にご参加いただき誠にありがとうございました。また、その後も、文化継承の重要性、保存活動の事例等、貴重なご意見や激励の言葉をいただき重ねてお礼申し上げます。

 さて、今後の活動について、皆様からいただいた数多くのご意見を参考に継続して活動したく、「武井武雄をあいする会」の正式な発足会を下記のとおり開催いたします。

 シンポジウムに参加できなかった方も、お誘い合わせの上、多数の皆様が参加されますようご案内申し上げます。



1 日 時 平成25年5月25日(土) 午前11時から午後1時まで

2 場 所 岡谷パークホテル
        岡谷市中央町1-7-13
         電話:0266-24-0100

3 会 費 1,000円(軽食代含む。)

4 その他 ご参加いただける場合には、準備の都合上、5月20日までにご連絡をお願いします。
        連絡先:小口基實(電話:0266-27-3069)






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武井武雄インタビュー(3)

2013年05月20日 22時25分31秒 | 武井武雄インタビュー
武井武雄をあいする会の設立趣旨入会申込み生家の保存・活用を求める署名生家保存・活用のための募金
「武井武雄・メルヘンの世界」(昭和59年)諏訪文化社から抜粋
(昭和56年2月に収録、オール諏訪1、2号に連載されたもの)


- 大正11年、当時きわめて質の高い絵雑誌「コドモノクニ」が和田古江氏によって創刊されましたが、これに武井先生が大きな助言者になっていたということですね。この「コドモノクニ」執筆者たちを見ると、大正ロマンと称せられる当時のそうそうたる面々であり、武井さんの文化人たちとのかかわりの深さを垣間見ることができます。これらの人々との思い出などを聞かせてください。

写真11:大正ロマンティシズムの旗手たち

大正ロマンティシズムの旗手たち

 武井 この写真は、和田さんが子どもをなくして悲しんでおられたので、慰める会をしようと「コドモノクニ」の執筆者を僕と岡本帰一とが集めたときのものです。やはり、「コドモノクニ」に執筆していたという関係で知り合った人、親しかった人が多いですね。-「コドモノクニ」の会合が年2回くらいあったものですから。
 ちょうど、僕の刊本作品の「親類通信」という小冊子に「思い出の人々」と称し、その思い出を書いていますが、ほとんど故人になっています。
写真12:武雄が記した写真の顔ぶれの名前

武雄が記した写真の顔ぶれの名前

 野口雨情は、その作風のとおり、とても素朴な風体で、もちろん靴を履いていたのだと思うが、どうしても板草履を履いていたような気がして困ります。それほど、村役場の小使いさんといった感じでした。会合の席で自作の詩に節をつけてよく朗唱するのが癖でして、それは朗読でもなく作曲でもなく独自の芸で、これは雨情節と呼ばれたもんです。
 中山晋平は信州中野の人でね、情報局の命令で一緒に東北地方へ講演に行ったこともあり、僕の童謡を四つ作曲しています。
 小川未明も同行して、いつもなぜか泊まりは同室で、大イビキに悩まされたものです。
 北原白秋については、-僕は、童画を初めて描きだすときに、どうせ童画を描くなら白秋のものに描くような身分になりたいと言っていたんです。そしたら、その数か月後に、白秋の”花咲爺さん”という童謡集の装幀から絵をたのまれて、わりに早く白秋のものを描くようになったわけです。
 もう一つは、僕は郷土玩具を蒐集していて、その陳列館(自宅の庭に-当時池袋)を作ったんです。それで白秋の家に行って名前を付けてもらったわけですが、当時、白秋は”鴎(かもめ)の塔”という童謡集をつくっていた時だったから、「塔という字が好きだから、じゃあ”蛍の塔”にしよう」と名前を付けてもらったんです。そして、人形のような形に作った看板に書いてもらって、それを蛍の塔の入り口にずっと掛けておいたんですが、結局、戦火でみんな焼いちゃったんですけどね。
 僕は、その時、感激しちゃったんですよ。当時、白秋といえば有名で大家なんですが、こんな偉い人が”蛍の塔”という字を書くのに、半紙十何枚もに下書きをして、それからやっと本物の板に書いたんですよ。僕なんか頼まれると、ぶっつけに書いちゃうんですがね。白秋のそれには感激、なるほど偉いもんだと思ったものです。

  思い出の人々─────────────武井武雄

▶西條八十 大正期児童文化に貢献した著名な作家の中で一番あとまで延命していた人である。一時期池袋の自分の家の近くに住んでたことがある。ちょうど唄を忘れたカナリアが流行していた頃で、童謡作家として急に名を知られたのもこの頃である。しかし、自分は全く面識もなく遠い雲の上の人に過ぎなかった。
 後年知り合いになってからいろいろとこの人のドンファンぶりを聞かされた。まず、校歌は絶対に作らないこと。その理由は、自分はいつ心中するかわからないので、その時せっかく歌いなれた校歌を廃止するというのも気の毒だから初めから作らないのだという。それから、自分が死んだら棺の内側に今までたまっているラヴレターを貼りつめてもらうのだという。さて、これは故人の遺志どおりに実現されたかどうか、ついぞ聞いたこともない。
 小学館の文学賞と絵画賞の審査は、毎年湯本へ行って行われていたが、この往復の小田急の車中で、ちょうど刊本作品を2、3冊持っていたので、「この中の詞文は全くのトウシロウの出鱈目だから笑っちゃ駄目ですよ」と言って見せたところ、「いや出鱈目どころじゃない。これは立派な詩ですよ」という。「あんたが詩だという折り紙をつけてくれるなら、少し自信をつけることにするかな」と言って笑ったことがある。

▶竹久夢二 中学生の自分にまず開眼の端緒を与えてくれたのが夢二画集の春の巻だったという事、夢二という名の存在はそれ以来の事である。自分が中学校を終わって美校の受験生として東京へ出てきた頃、夢二は東京駅の近くのあたりに、「みなとや」という小さな店を出していた。夢二とは一体どんな男なのか、探訪のために紺絣(こんかすり)に袴をはいた自分はわざわざ見に行ったものだ。
 それは夢二の自作になる木版刷りの紙製品で、便箋、栞、封筒、千代紙等、店頭にはたまきさんとおぼしき女性が番をしているだけで、肝心の夢二は影も形もなかった。これは少しねばってみようと思って待っていると、二階からバーバリコートの上から革ベルトをしめたむくつけき大男がのっしのっしと降りてきた。夢二とはその画のような優男ではなくて荒削りのむしろむくつけき男だったのだ。
 中沢臨川という評論家の説によると作家は自分の性格や体質にないものを希求するもので、その欲求が芸となって現れる。これを二元性の神秘という、となっている。東西の著名な作品について、いちいちその例をあげているのである。なるほど、夢二もその二元性の神秘かとその時感じたのであった。
 後年、ある会合の席で紹介されて初めて直接に会ったのだが、この時彼はすぐに息子を呼んで紹介した。自分はコドモノクニなどで既に知られていたので、むしろその読者である子供に紹介したのだろう。
 考えてみると、画と詞文とを併合して一つの作品を作る刊本作品の構成法と全く同じような事を夢二は既にやっていたわけで、その形式に関する限り彼は先輩といっていいのだが、しかし、本の美術を追求するという根本の考え方は彼にはなかったようである。池袋に”なるとや”という婦人服の生地店があって、そこのかみさんが夢二の命日には必ず花を持って墓参に来ていた。一面識もないただのファンである。
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武井武雄インタビュー(2)

2013年05月19日 18時45分13秒 | 武井武雄インタビュー
武井武雄をあいする会の設立趣旨入会申込み生家の保存・活用を求める署名生家保存・活用のための募金
「武井武雄・メルヘンの世界」(昭和59年)諏訪文化社から抜粋
(昭和56年2月に収録、オール諏訪1、2号に連載されたもの)


- 美術学校卒業(大正8年)後、間もなく武井先生の非凡な才能が認められ、当時の代表的な幼年雑誌「日本幼年」改題「コドモノクニ」などに執筆、次々に世に出されたわけですが、大正ロマンといわれる当時の模様、油絵専攻の武井先生が童画へと移行したいきさつなどを。

写真7:美校時代の武雄(大正5年2月20日撮影)後ろ側

美校時代の武雄
(大正5年2月20日撮影)後ろ側

 武井 僕は、美術学校を出て洋画家になるつもりでいたんです。ところが実際、卒業しても食っていけないんですね。でも、親父の反対を無理矢理押し切って美校へやってもらってたもんで、”卒業したら親父のスネは絶対にかじらん”という堅い決心で、僕は意地を張っちゃってね。美術学校は5年やって、その上に希望者だけの研究科ってのがあって、1年間置いてもらえるんです。だから親父からせびる目的で研究科に入り1年間延ばしたけれど、もうそれ以上はダメなんで、何かしなくちゃならなくなったわけです。
 当時、「赤い鳥」という雑誌を出した鈴木三重吉が先鞭をつけたんですが、大正の中期から児童文化の運動が起こってきたわけです。僕らはこれを「大正の児童文化ルネッサンス」と言ってるんですが-。それから文士はみな童話か童謡を書く時代になり、いろんなものが同時に澎湃(ほうはい)として起こってきたわけです。おとぎ話が童話という形になり、児童文学になったということの初期なんですね。そうすると、それにつれて絵画も映画も音楽も全て同程度のもの、いままでよりは一ケタ上のものが要求されてくるわけなんです。それで、方々で児童文学とともに、美術方面でもいままでになかったような絵描きが、みな専業でやるようになってきたんですね。
 僕は、ちょうどそのルネッサンスが起こってくる気運のある時代に遭遇したわけです。だから、どうせ何かアルバイトをするんだったら、一番好きなことをやろうってんで童画を描いて、しばらく食いつなげようと思ったわけです。この頃はまだ”童画”という言葉はなかったんですが-。ですから、最初はアルバイト根性であり、半年ほどそういうことを続けました。
写真8:コドモノクニ創刊号(大正11年1月)

コドモノクニ創刊号
(大正11年1月)

 そして、ある時、僕ら子どもの頃の出版物の絵ってものを、よく思い出してみたんです。そしたら、うまいことはうまい。技術的にはうまい絵があったんですがね。しかし、魂に触れるようなものがない。つまり、精神的感動を起こすものがないんです。いつまでも忘れないで、そのものを思い出せるようなもの-、つまりエスプリがないんですね。
 これは何故だろうと考えたんです。これは後に、川端龍子も書いていたんですがね。それは本当の腰掛けで、第二次的な考えで仕事をしていたということです。後に、軸物や屏風が高い値段で売れるようになったら、もう子どもの雑誌の絵なんか全然やらない、ほったらかしちゃう。やっぱり、大人のための純正美術をやりたい人が、アルバイトに、ちょっと子どもの雑誌に描いているという態度、これはケシカラン。これでは子どもを感動させるものができるわけがないんだ、と僕は考えたんです。
 それともう一つは、仮に美校を出て油絵を描いていくとしてもね、油絵で食っていくとしたら、金持ちにへつらって何とかして絵を買ってもらうのがおち。そういう人は、たくさん収集しているから買った絵も、どこかへ積んじゃって見もしない。それよりも多くの人、大衆が見て楽しむことの方がいい。今の単位と部数は違いますがね。今は40万、50万ですが、当時は多い雑誌で5万位だったんじゃないかな。つまり、その雑誌を5人で見るとすると25万人になり、それで何か感動を受けるものがあったら、この方がやりがいがあるのではないかと考えたわけです。
写真8:武雄の著書・ラムラム王(大正15年叢文閣)表紙
 当時は血の気の多い二十代でしたから、これは若気の至りですね。僕は左翼の運動は全然やらなかったけれど、そういう大衆のための美術を打ち立てようという考えが、すでにその時にあったんです。
 それともう一つは、自分の一番好きなことで稼ごうということ。それらのことで、今までアルバイト根性だったやつを180度転換をしたんです。男子一生をかけて子どものために自分の能力をささげても、これは男子として恥ずかしくないことだという風に切り換えたわけです。そうすると、これはもうアルバイト根性じゃなく自分の第一義的な仕事ということになるんですね。そういうことを半年くらいたってから、やっと悟ったわけです。それからはもっぱら専門家みたいな顔をして、それをずーっと墨守してきたということでしてね。
写真9:武雄の著書・ラムラム王(大正15年叢文閣)挿し絵の一部

武雄の著書・ラムラム王
(大正15年叢文閣)
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 大正13年というと、関東大震災の翌年ですが、当時、執筆の順序として挿し絵が多かったんです。つまり文士が童話とか童謡だとかを書くと、それに絵、挿し絵をつけるという形式が多かったんです。そのために皆、錯覚を起こしてるんですね。子どもの絵本や雑誌の絵は、文学の隷属物だと思っている。あたかも、そこに主従関係があるみたいに。これはイカンと僕は思ったわけです。これは子どもに与える、対象を子どもとした絵本であって、決して文学にくっついているものじゃないんだと。絵画は絵画として独立して子どもに見せられるものであって、児童に対する美術の独立性ちゅうものがないことを非常に残念に思ったわけです。

 そこで、銀座の資生堂で個展を開いたんです。その時に、これは文学の隷属物じゃないんだから何とか呼び名をつけなくちゃいけないということで「童画」という言葉を初めて使ったんですね。これは、童謡があり、童話があるんだから、童画でいいんじゃないかとつけたわけです。
 ところが、非常に珍しい言葉だったらしくて、どこかの県会議員みたいなオッサンが来て、「表に童画って書いてあるけど、中に入ったら大人が描いた絵じゃないか」ってイチャモンつけたんです。だから僕は「ちょっと待ってくれ、大人が書いても童話だし、童謡もそうだ。これと”同様”だろう」と言ったんです。そしたら「そう言われてみればそうだ。誰が描いても童画でいいんだ」と、納得して帰った。そのくらい珍しかったんですね。
 ところが、何年か後までも動画という言葉がなかなか理解されなくて、子どもの描いた絵と間違われて困った。子どもの描く絵は”児童画”といって区別し、童画は大人が描いて子どもに見せるための絵というわけです。後に展覧会をやった時なんかも、「これはうまく描けてる。実にうまいものだ。惜しいことに年齢が書いてない」なんて、やっぱり子どもの絵だと思ってるんですね。
 これが、昭和34年に僕が紫綬褒章をもらったときに、童画をもって児童文化に貢献したと、ちゃんと書いてあるんですね。ですから、そのとき国で「童画」という言葉を認めたことになるわけです。昭和42年に勲四等の旭日をもらったときにも童画と書いてある。小学館の辞典にも童画という項目が載っている-もっとも、これは僕が書いたものですが。このように童画は、国の公認の言葉にもなり、やっとのことで定着してきたという感じですね。
 それで、僕は童画家といわれているんだけれども、実際は三足のワラジをはいているんです。「童画」と「版画」それに「刊本作品」と称する本作りですね。日本では、マスコミ的に子どもの本が出ていったから、これがいちばん浸透し、童画家といわれているんです。ところが、アメリカでは、版画家といっている。そして、刊本作品の会員からすると造本美術-つまり本作りだと言っているんですね。ですから、どれが一体、僕の本当の顔だかよくわかりません。
 現在の立場だと、1年中の自分の時間をいちばんたくさん使っているのが刊本作品、本作りです。子どもの絵本は、年にせいぜい2冊くらい描く程度ですね。
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シンポジウムの模様がLCV-TV121で放映されます

2013年05月06日 16時31分22秒 | シンポジウム
武井武雄をあいする会の設立趣旨入会申込み生家の保存・活用を求める署名生家保存・活用のための募金
武井武雄を愛する会が開催した生家シンポジウム

テーマ:武井武雄とその生家について

講師:藤森照信氏(東大名誉教授、工学院大学教授)
   降旗廣信氏(古民家再生建築家)
   吉澤政巳氏(信濃建築史研究室工学博士)

司会:小口基實氏(庭園史研究家)

収録:2013年3月20日(水・祝)カノラホール

放送日放送時間
2013年 5月 6日(月) 10:00~、14:00~、20:00~、21:30~ 
2013年 5月 7日(火)  8:00~、12:00~、18:30~、21:00~、23:30~ 
2013年 5月11日(土)18:30~
2013年 5月12日(日)15:00~


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生家をめぐる経過

2013年05月06日 15時58分23秒 | 生家の価値
武井武雄をあいする会の設立趣旨入会申込み生家の保存・活用を求める署名生家保存・活用のための募金
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