霊界の門 ・見えないものの力

霊界や因縁から、現在の自分をみつめ、「見えないものの力」を味方にしましょう。

それぞれの「原点」

2014年12月09日 | 心霊現象
「人」にも「職業」にも「生き方」にも、『原点』がきっとあることでしょうね。
先般TVの対談で話しておられたノートルダム清心学園理事長の「渡辺和子氏」がこう言っておられました。
『看護の原点は、「看」の字が示すように温かい手とまなざしであることを、忘れてはいけません』と。
なるほど、手と目がそれも「温かい」ことが施しの原点であるという。
どこかで聞いたような内容だった。それは「無財の七施」の中にあった。
看護は、日本から遠い異国の国から始まった。
ナイチンゲールが「神の声」を聞いて始まったと言われているが・・・。

国を越え、民族を越え、宗教を越えて始まった「人の尊厳」の証が、神からきた技だと思えば、それもまた地球規模で広がる「グローバルスタンダード」の最前線かもしれない。
その精神をもって、あの「マザー・テレサ」もインドの地方で戦った一人だ。
看護は医療を施しながら、身も心も癒すところである。
ならば「介護」は何か?・・・。
何を原点としてその職に携わっているのだろうか・・・。
時々私は「その現状」をみるにつけ、「人の尊厳」が失われ代わりに技量や知識が幅を利かす場所のように錯覚する。
「介護」につきものの「認知症」こそ、人の尊厳を遠くはなれたところへと押しやろうとする。
その人の未来は見えてこない。過去だけがついて廻り、今も追ってくる。
介護には、「治る」などという意識を持つには程遠い部分があることを知る。
そこはもう「墓場」の一歩手前、葬式の一歩手前、遺体安置の一歩手前という暗黙の了解がある。

しかし、中には「卒業する人」がいる。
つまり、車いすから一人で歩ける状態を取り戻す場合がある。機能の回復である。
家族と生活出来るというレベルが、その人をまた「元の場所」へと復活させる。
トイレへ一人で行って用を足す。夜はリハビリパンツやポータブルトイレがあればいい。
さらに紙おむつから布のパンツへと目に見えて生活が元へと戻っていく様は、家族よりも当の本人が驚きでいっぱいになる。
卒業式ならぬ「退所」の日がくる。
しかし、長くはない将来、必ずいつかは体力の機能は完全に失われて「あの世」へと渡っていく。
あたりまえの「人の生」の宿命である。


介護の「みとり」は、どんな字をあてたらいいのかと、私は聞いてみた。
「看取り」か「見取り」か・・・?
二つある。そしていずれも成り立つ。
今一人の人が「死」に向かい合っている。
そう永くはない。一週間以内か?そこらだ、と医師が告げて去った。
家族は介護施設での「みとり」を希望した。
その婦人は、腹水で臨月のようにふくらんだ腹部の苦しさから、時々目をうつろに開き、呼吸が荒くなる。
私はすでに「見取り」の経験があるから、その「気持ちの準備」は出来ている(つもりだ)。
が、初めての経験をこれからしょうという者は、「その日」が自分の泊り(夜勤)に当たらないようにと祈りながら、日々戦々恐々としている。
「みとり」って、どうすればいいんでしょう?。何をすればいいんでしょう?・・・。
と、私に聞く「若者」を前に、私は逆に聞く。
「何」も教えてもらってないの?・・・、と。
施設で「看取り・見取り」をやると公言している以上、その「ノウハウ」は教えておくべきであろう。
その原点はどこにあるのか・・・。
心構えの一つや二つは、しっかりと身に付けさせておくべきである。
「死体」を見ることにさえ慣れていない若い者は、今から腰が引けている。
いや、年を重ねた者でさえ、他人の最期を見取るという行為は、そうめったにあるものではない。
生まれるのも「神秘的」であり人の尊厳を感じるという瞬間であるならば、一生を閉じるその時も、その神秘と尊厳は同じくらい敬虔なものである。
怖くて腰が引けるのではなく、その死を送るにふさわしい看取るあたたかい眼差しと、暖かい手がその遺体となった人に施されるならば、「死にゆく人」も満足であろうかと思われる。
いまわの際に、呼び戻す声や非情に泣き叫ぶ声よりも、静かで厳粛な「想い」を捧げてお見送り出来れば、この上ない一瞬の儀式であろうかと思われる。
金もかけず、医師も居ず、家族さえも立ち会えない「その一瞬」に立ち会う。
最後の「みとりびと」でもあり、最初の「おくりびと」になる「自分」は、この世に「このわたし」たった一人である。
この「奇跡」を、どう解釈するかによって道は見えてくる。

人は生まれた以上死ぬのだ。
その最初と最後が、結びつかない人生はない。
この世は「生まれたら」お宮参りをし、死んだら「葬儀屋」に頼み寺の墓で眠る。
「あなたはどこから来て、どこへ行くのか・・・」・・・、答えられないわけである。
一環していない人の「生」は、結局分からないじまいで終わる。

さあ、あなたの「原点」って、何?・・・。
この世のどこをどう切り取ってみても、答えは無いのではなく、「隠し絵」のように視点をかえれば見えてくるようになっている。
それをいつ、どこで発見し、読み取るかは「あなた」次第である。
近道もあるし、回り道もある。
急がば廻れとは、私は言わない。決して言わない。
私は「もう時間をかけないで」、私の二の舞はやめて、一足飛びに目的地に向かって走れ!と、叫びたい。
そのためにも書いている私ですから・・・。




今年もあとわずかになりました。
12月17日が来ると、思い出します。
「氷川丸の先生」がいなくなった日を。
そして「私」が雪崩に遭って、死に損なった日12月24日を。
誰かが私に言いました。

12月はね、一年間の総決算。つまり「禊払いの月」。
1年で払わないといけないマイナスの事情をなんとかして支払っておいて、新しい年へと向かわせる方法が「これ」。
かぜをひいたり火事にあったり、災難に遭遇したり、運悪く死んだり・・・?。
来年に向かって今年を「禊(みそぐ)」、という日本式の「新年の迎え方」といえば、納得されるだろうか?・・・。

そんなこんなで人生いろいろ、みそぎもいろいろ。
今年の「流行り言葉」も決まったとか。
あとは「清水寺」の住職が書く「漢字」は、何と書かれるのでしょうねぇ。

ちなみに、去年住職が書いた「輪」という字。
今私がいる職場では「輪」が、つまり「人の輪」が全く消えました。
今私は守りに入り、次の闘いに備えているといったところでしょうか・・・。
表向きは満願の笑みを浮かべておうように構えて、心は獲物をねらう鷹のように「さあ、どこからでもかかって来い!って・・・?。
おお、やだやだ。

今年もなぜかきな臭い雰囲気を漂わせて、暮れていくようです。
いえね、私の場合は、ということですから。(はい)
皆様のよき年の瀬を祈りながら・・・。
(心から合掌)