霊界の門 ・見えないものの力

霊界や因縁から、現在の自分をみつめ、「見えないものの力」を味方にしましょう。

わたしを裁きそこねるな!

2012年12月11日 | 心霊現象
過去に「冤罪」となった人達が、無罪となっていくニュースを見るにつけ、時の流れを
しみじみ思い知るのは、私だけではないでしょう。
現代科学の推移をうけた「科学捜査」は、犯人とされた人以外の「別人の存在」さえ明らかにして
間違った裁きの一歩手前で、待ったをかける。
一般市民が、市井(しせい)の代表としてその裁きに加わる「裁判員制度」は、何を私達に求め、何を教えようとしているのか、私にはよく分からないのですが・・・。

「それでも僕は、やっていない・・・」
最後にこうつぶやく一人の青年の「言葉」が、私達の胸深く余韻を残す「映画」がありました。
冤罪、それはいつでも自分の身に降りかかる可能性を、不気味にも持ち合わせている。
一歩間違えば、「わたし」も法廷に引きずり出されるハメになりかねない昨今でもある。


『最後に言う事はないか』、と聞く満場の人を見据えて彼女が言った言葉。
『最後に言う、わたしを裁きそこなわぬよう。神の前に』、そう言ってジャンヌ・ダルクは口を閉じた。
神に仕えるという祭司や法律家達。満場の「位を持つ者」を相手にして、「彼女」は長い時間罪に問われていた。
言葉を発すれば発するほど、彼女を罪に陥れようとする彼らの「意図」はあからさまになっていった。
結果、彼女は「火あぶりの刑」と決まった。
一時は「神の導き手」と呼ばれ、「救い主」となった彼女は「罪人」として裁かれ、燃え盛る炎の中で死んで行った。

その後、その場に居合わせ、ジャンヌ・ダルクを火あぶりにした当事者が、どのようになっていったかは、私は知らない。
「裁く」ということが、どういうことであるか・・・。
その人の背後に「神」がおられたら・・・。人が神を裁くことになる。
そして、これ以上の罪はない。


歴史上、人が神を裁いた「蛮行」が一つだけある。
「イエス・キリスト」の十字架である。が、そう思う人にとっては、ということになる。
彼(イエス)は決して言い訳はしなかった。
ただ、あなたがたが見た通りのことを、行動に移せとだけ言った。
しかしその前には、激しい言葉で神に仕えた、あるいは神に携わっていた者たちを一括している。
その者達とは、世の律法学者やパリサイびと達のことである。

 『偽善な律法学者、パリサイ人たちよ、あなたがたは、わざわいである。あなたがたは、天国を
  閉ざして人々をはいらせない。自分も入らないし、はいろうとする人をはいらせもしない。
  偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。杯と皿との外側はきよめ
  るが、内側は貪欲と放縦とで満ちている。
  盲目なパリサイ人よ。まず、杯の内側をきよめるがよい。そうすれば、外側も清くなるであろう
  う。
  偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは白く塗った
  墓に似ている。外側は美しく見えるが、内側は死人の骨や、あらゆる不潔なものでいっぱいであ  る。(略)  』(聖書)

その後、弟子たちにはこう言っている。
『人に惑わされないように気をつけなさい』と。
その「惑わし」とは何であるかを一つ一つ述べている。
最後にポンテオ・ピラト総督の前にひき出され、何か言うことがあるかと聞かれる。
妻が見た夢が気になる総督は、なんとか彼(イエス)を無罪にしたかった。
が、何も言わず、口を開こうとしないイエスを、とうとう暴動寸前のユダヤ民族に渡した。
最後に何を言ってもはじまらない。
イエスはどんなにか叫びたかったであろう。
『わたしを、裁きそこなうな!(神の前に)』と。

結果、33年の人生(肉体)で終わりをつげた。最も過酷という、つまり極刑である「十字架に
磔(はりつけ)」となって。
さらに時が流れ、その撒いた種を民族的に刈り取る時がきた。
それが、第二次大戦に起きた「ホロコースト」、民族大虐殺である。
ユダヤ人600万人の死をもって償った歴史的事実の意味を、以前申し上げた通りである。



たとえそれが、「神がかり的」なものでなくても、人を裁くということは怖れて(畏れて)いい。
その背後に目に見えない「霊界」がある、ということを忘れてはならない。
実行にはおよんだが、果たし得ずして終わった「私の復讐」は、今思えば天の助けであった。
まさか「その強姦事件」が、血統的、霊的因縁からきているものであり、ある意味ではそれは
あらがえきれないものであったと知れば、なおさらのことである。
聖書に書いてある。
復讐はしてはならない、と。神にまかせろとも。
犯罪被害者の心は、そんな「まだるっこしい事」で納得は出来ないと私も知っている。
しかし、神の領域が確かにある。霊界の領域といってもいい。
天法の領域といってもいい。
手を出してはいけない領域は、耐えて偲んで待つしかない。
その忍従の中に、歴史が静かに清まり、治まっていくのを学ぶのだ。



年の瀬、雪が積もり、人の心さえも凍りつくこの時期に、想い出す言葉がある。
若い一人の青年に、神が語った言葉である。(前にブログで書いた)

『厳冬の中にある自分が、人になぐさめや温かさを求めたら、どうして主体といえるだろうか。
 自分の心が凍りつくときにこそ、他の心を温めてやれるそんな人が主体である』

難儀なことだが、こんな人(心の持ち主)になれたら・・・喝采!!
自分で自分を褒めてやりましょう!
・・・、と過去「復讐の鬼」だった私は、今前を向いて歩いています・・・。





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