司馬遼太郎は好きな作家です。今はこの本を手元においています。ご存知のように司馬遼太郎は膨大な作品を残した作家ですから、タカ長など司馬遼太郎を読んだとも言えないファンだと思います。
司馬遼太郎は難しいことも簡単なたとえで説明してくれるので、タカ長には「虎の巻」を読んでいるような快感があるのです。今日はその「虎の巻」を借用しての更新です。
タカ長の母校にもあった二宮尊徳の銅像です。この本には、二宮尊徳は泥棒であると言う論文を投稿した学者がいると紹介されています。貧乏な二宮尊徳がどこかの山から薪を取って来るのは盗んだに違いない、と言う論法です。
この学者は「入会山」をご存知ないようです。プロパンガスが普及するまでは山で燃料を取って来るのは普通のことでした。タカ長も子どものころ近くの山で燃料を取っていました。でも、警察に追われることはありませんでした。
それより面白く思ったのは次のようなことです。
カトリック教会は貴族から人民までの精神と習慣の面倒をみていて、すみずみまで拘束していました。「よらしむべし、知らしむべからず」と言う体質を持っていました。「信徒は羊であり、司祭は牧者」であると言うこと、つまり信徒は考えなくて良かった。
プロテスタントはだれもが「聖書」をもち、だれもがそれを読み、極端に言えばそれでいい、というものでした。
プロテスタントの国であった、当時は小国だったイギリスがスペインの無敵艦隊を壊滅させる(1588年)という奇跡をおこしました。スペイン側は物量で圧倒しようとする単純な頭だけ。対して、イギリス側の各船長は、「自分はいま何をすべきか」と考え、判断し、実行する能力をもっていたと言うことです。
その差が運命を分けました。
そのことに興味を持ったのは、今の日本人の多くが、メディアという名前のカトリックに心を奪われているように思えるからです。その一例はコロナ対策としてのマスクです。
太平洋上で釣りをする人や登山をする人など、あらゆるところでマスクをしている人をテレビで見せられた人は、マスク着用は善と考え、人もいない所でもマスク着用する人が急増しました。その流れは今も続いている感じです。
でも、それで良いのでしょう?何も考えないでいたら、チコちゃんに叱られる、、、、、、くらいならいいのですが、スペインの無敵艦隊の二の舞を踏むことになるのではないかと危惧しているのです。