『予告犯』を観てきた。
ホモ・サピエンスとホモ・ネアンデルターレンシス(ネアンデルタール人)の違いを知っているだろうか?
ネアンデルタール人とわれわれホモサピエンスは別々の種だ。
わずかな期間だが、この2つの種は共存していたと言われる。
体格はほぼ同じ。
脳の容積から知能も同じと見られ、手の器用さもほぼ同じと言われている。
だが、ネアンデルタール人は滅び、我々、ホモサピエンスは大繁栄を遂げた。
原因は些細な骨格の差。
ネアンデルタール人は言葉を発声できなかった。
たったそれだけでホモサピエンスはアドバンテージを得た。
僅かな、本当に僅差で後の世界は全く変わってしまうのだ。
「頑張れるだけ、幸せだったんですよ」
社会が悪い、は真理だ。
自己責任という不思議な名の下で繰り広げられる責任の希釈。
必要とする者に展開されないセーフティー・ネット。
自分が生活困窮者になったことも、ニートになったことも無いくせに彼らの存在を批判する者達。
そして彼らを救うと甘言を高らかに叫びながら群がる人気取り目的の政治家たち。
「自業自得だよ」「自分のことでしょ」「自己責任だよね」
排他的な狂気。自分を守るための他者との壁。
シンブンシはそんな本能の狂気の下で産まれた、理性の狂気だと思う。
社会が悪い、は甘ったれた言い訳だ。
そんなことで社会を引っ掻き回して良い訳がない。
皆、その社会の中で必死で生きているのだから。
シンブンシを追う警察は社会の必然かつ必要悪として産まれた、秩序の理性だと思う。
この物語の恐ろしいところは、シンブンシを狂気に追いやるのは社会に存在する本能で、シンブンシは常に理性で動いているというところだ。
本能は排他的。
理性は利他的。
本能と理性は、脳内で並列に常在するフェーズだと僕は思う。
どちらも産まれたときからヒトが持つ脳の低次機能。呼吸や体温、脈拍等と同じ、ヒトが生きるために脳に刷り込まれた機能なのだ。
「人は、誰かのためならば、小さなことでも動くんです」
利他的な狂気。人を動かすのに、これほど恐ろしい感情は無いだろう。
どこまでも強か。
どこまでも狡猾。
誰かのために、出来ないことなどない。
そして、シンブンシたちは彼らの要求を全てかなえる。
全てが終わる。
生きているいうことは、それだけで価値があるのだ。
僕はそう思う。生きている価値とは、未来に対する可能性を残すことだからだ。
世界は素晴らしいものなのだ。
僕はそう思わない。何に対して世界は素晴らしいと言えるのだ?住めば都といった理屈では、世界を素晴らしいものとして認めるわけにはいかない。
では、生きていく価値の無い世界が自分の眼前にあったとして、全てを理性の狂気に覆われてしまった人に対して、その世界で「生きろ」と言えるだろうか。
僕の本能も理性も「生きろ」と言えない。
民主主義の皮を被った、創発的政治を行っている不思議なこの国。
民主主義を責任の希釈としか感じられなくなったこの国。
親の所得、家庭環境だけで未来が決まってしまい、明文化されていないだけに性質が悪いカースト制度を形成してしまったこの国。
新卒至上主義で職歴の空白を論うどころか、笑い者にしあまつさえバカにまでする就労環境を持つこの国。
僕は、生きていく価値のある世界に生きているのだろうか。
ホモ・サピエンスとホモ・ネアンデルターレンシス(ネアンデルタール人)の違いを知っているだろうか?
ネアンデルタール人とわれわれホモサピエンスは別々の種だ。
わずかな期間だが、この2つの種は共存していたと言われる。
体格はほぼ同じ。
脳の容積から知能も同じと見られ、手の器用さもほぼ同じと言われている。
だが、ネアンデルタール人は滅び、我々、ホモサピエンスは大繁栄を遂げた。
原因は些細な骨格の差。
ネアンデルタール人は言葉を発声できなかった。
たったそれだけでホモサピエンスはアドバンテージを得た。
僅かな、本当に僅差で後の世界は全く変わってしまうのだ。
「頑張れるだけ、幸せだったんですよ」
社会が悪い、は真理だ。
自己責任という不思議な名の下で繰り広げられる責任の希釈。
必要とする者に展開されないセーフティー・ネット。
自分が生活困窮者になったことも、ニートになったことも無いくせに彼らの存在を批判する者達。
そして彼らを救うと甘言を高らかに叫びながら群がる人気取り目的の政治家たち。
「自業自得だよ」「自分のことでしょ」「自己責任だよね」
排他的な狂気。自分を守るための他者との壁。
シンブンシはそんな本能の狂気の下で産まれた、理性の狂気だと思う。
社会が悪い、は甘ったれた言い訳だ。
そんなことで社会を引っ掻き回して良い訳がない。
皆、その社会の中で必死で生きているのだから。
シンブンシを追う警察は社会の必然かつ必要悪として産まれた、秩序の理性だと思う。
この物語の恐ろしいところは、シンブンシを狂気に追いやるのは社会に存在する本能で、シンブンシは常に理性で動いているというところだ。
本能は排他的。
理性は利他的。
本能と理性は、脳内で並列に常在するフェーズだと僕は思う。
どちらも産まれたときからヒトが持つ脳の低次機能。呼吸や体温、脈拍等と同じ、ヒトが生きるために脳に刷り込まれた機能なのだ。
「人は、誰かのためならば、小さなことでも動くんです」
利他的な狂気。人を動かすのに、これほど恐ろしい感情は無いだろう。
どこまでも強か。
どこまでも狡猾。
誰かのために、出来ないことなどない。
そして、シンブンシたちは彼らの要求を全てかなえる。
全てが終わる。
生きているいうことは、それだけで価値があるのだ。
僕はそう思う。生きている価値とは、未来に対する可能性を残すことだからだ。
世界は素晴らしいものなのだ。
僕はそう思わない。何に対して世界は素晴らしいと言えるのだ?住めば都といった理屈では、世界を素晴らしいものとして認めるわけにはいかない。
では、生きていく価値の無い世界が自分の眼前にあったとして、全てを理性の狂気に覆われてしまった人に対して、その世界で「生きろ」と言えるだろうか。
僕の本能も理性も「生きろ」と言えない。
民主主義の皮を被った、創発的政治を行っている不思議なこの国。
民主主義を責任の希釈としか感じられなくなったこの国。
親の所得、家庭環境だけで未来が決まってしまい、明文化されていないだけに性質が悪いカースト制度を形成してしまったこの国。
新卒至上主義で職歴の空白を論うどころか、笑い者にしあまつさえバカにまでする就労環境を持つこの国。
僕は、生きていく価値のある世界に生きているのだろうか。