MARUMUSHI

映画とかTwitterとかとか。

『劇場版 アナウンサーたちの戦争』

2024-08-25 04:34:00 | 映画日記
『劇場版 アナウンサーたちの戦争』を観てきた。

太平洋戦争に敗北し、日本はその責任を軍部に求めた。次に政治家に求めた。
その間、マスコミはそれを報道し続けた。
マスコミが自分自身の責任に向き合い、それを発信し始めたのはそのあとだった。
アナウンサーたちは、世の中の情報と視聴者たちの直接的なインターフェースに立つ。マイクやカメラの向こうには何千、何万という人たちがそれを見て聞いて世の動向を知り、自分たちの生活に反映させていく。
明日の天気、傘はいるだろうか?洗濯はできるだろうか?
株の動きはどうだろうか?景気はどうだろうか?

そのアナウンサーが積極的にウソの情報を流せ、あるいは情報を隠せといわれたとき、現在のアナウンサーたちはどう思うだろうか?
アナウンサーはいまでも人気の職業だ。それはいい。でも、単なるスピーカーになってはいないだろうか?
「虫眼鏡で調べて、望遠鏡でしゃべる」
和田信賢という人物は、これに拘ったアナウンサーだった。
戦争がなければ、”実況アナウンサー”として人気者で終われる人生だったんじゃないだろうか。スポーツ実況などでは膨大な情報量を使いこなし、巧みな話術で音声だけでその熱を伝える。本当にやりたかったのは、そういうことだったんじゃないだろうか。
そんな彼が太平洋戦争の開戦ニュース放送のその時の放送に立ち合い、最後の玉音放送の要旨を放送することになった。
学徒出陣実況を任されていたのに、死地に向かう学生の本音と建前をの狭間ですりつぶされ、放送から逃げ出してしまった。
「壮士ひとたび去りて、復び帰らず」
その言葉以外に、彼が学徒出陣実況で何を読みたかったのか、その原稿すら残っていない。
主演の森田剛がそれを埋めるように、フィクションの原稿を叫ぶ。
その姿は、おそらく和田信賢の心情と同じだったんじゃないだろうか。
勝った勝った、被害は軽微とウソをつき、国威発揚の名のもとに言葉を空虚にしていく。惨め、そんな気持ちで毎日を過ごしていたんだろう。

この作品に出てくる多くのアナウンサーたちは、戦後その職を辞している。
辞めたかったわけじゃない。ただ、ウソを市井の人たちに流し続けたという過去に耐えられなかったんじゃないだろう。

和田信賢アナウンサーは、一度は職を辞したものの、その能力を買われて嘱託職員としてアナウンサーの仕事を続ける。
そして、彼が本当にやりたかったスポーツ実況の最高峰である、オリンピックの実況を担当し、すべてをやり終えたようにヘルシンキで客死した。

情報の発信は、今や誰でもできるようになった。
「新しい戦前になるんじゃないか」とタモリは言った。それが予言だったかのように、あちこちで(本格的な)戦争がはじまった。
情報の信憑性が薄いままでも、マスコミはそれを流しているときがあるんじゃないだろうかと思うことがある。

今、マスコミたちは虫眼鏡で見ているのだろうか。

『ゴジラ -1.0』。

2023-12-10 22:28:14 | 映画日記
『ゴジラ -1.0』を観てきた。

ゴジラがなぜ日本で受け入れられているか。
70年前から時代に合わせるように変化しながらゴジラシリーズは脈々と作り続けられている。

”科学の進歩は良い面と悪い面がある。映像として出来ることはその二つを忘れさせないために、ゴジラのような作品は作り続けられなければならない”
『大仏廻国』の中で宝田明が語った言葉。

科学の進歩の尖峰に位置する原子力の功罪をゴジラは象徴し続けている存在で、『ゴジラ』から『シン・ゴジラ』までそれは続いている。
最強の生物であるゴジラに対して人は科学を持って挑む。
オキシジェンデストロイヤー、スーパーX、ガルーダ、モゲラ、抗核バクテリア、メカゴジラ、血液凝固剤…。
数々の科学技術でゴジラを封じてきた。しかし、街が復興するとともにゴジラは帰ってきた。何度も襲い、何度も壊し、何度も奪う。ゴジラは天災なのだ。
台風や地震、火山と同じように不幸をもたらす。人は天災を受け入れるしかない。そして、天災が終われば復興を行い、また天災で壊される。日本人は自然災害に対して”しかたがない”と受け入れる柔軟さ(実直さ?)を持っている。
だからだろうか。第二次大戦の終戦も国民はあっさりと受け入れた。しかし忘れたわけでは無い。恨み辛みに我慢を重ねて抑え込んでいただろう。戦争は終わっても、心の中で終わらない戦争がある。
戦争という災厄をやっと乗り越えた先で生まれてしまった今作の『ゴジラ』は、終わらない戦争の中にある者たちがその戦争を終わらせる物語でもある。
だが、天災として、科学の功罪としてのゴジラは、まだ終わっていない。
悲しいことに彼女たちは楽にはシねない。「あのときシんでおけば」と思うぐらいの過酷な生が待っているだろう。
そして、また天災が帰ってくるのだ。
ゴジラという姿形で。
-1.0。
ゴジラは先に突き進む人類を、また後ろに押し戻す。

『歩けない僕らは』。

2023-08-20 02:30:03 | 映画日記
『歩けない僕らは』を観た。

人生は侭ならない。
事故で片足が動かなくなった青年と、新人理学療法士の物語。
健常者でさえ、そうなのだから、障害者はもっとそうだ。

正論と詭弁を使い分ければ、大抵の物事は綺麗に片付けられる。
でも、正論と詭弁は、軽い。
「一緒に頑張りましょう」
「必ず良くなるよ」
「応援するから」
「あなたのためにやっていることです」
「みんなそうなんです」
「あなたより大変な人が、たくさんいるんです」
一度は言われたことがあるし、言ったこともあると思う。そのとき、どんな気持ちだったか。
本気で受け止めたか?本気で言ったか?
言い切ってもいい。NOだ。
もし、YESだと感じた人は、自分を詭弁で武装することはやめた方がいい。

今日、電車で隣の席に、知的障害の子どもが座った。
なんで分かるか?分かるでしょ。普通じゃない。
その子は、普通の人生を送ることは出来ない。社会の歯車になれない。使い物にならない。結婚どころか恋人が出来るかどうかさえ怪しい。
決めつけだ、というかもしれない。酷いことを言うな、というかもしれない。でも、それは暗に僕の言葉を肯定していることになる。

先の言葉は言われなくても全部分かっている。
だから、病気や障害などの問題を抱えた人たちに言わないでほしい。
言うなら、あなたが障害者になるほど殴られるぐらいの覚悟を持って言ってほしい。
障害を抱えた人は、あなたを感動させたり喜ばせたりするために頑張っているわけではない。
英語で障害を抱えた人たちのことをCharengedと言うらしいが馬鹿馬鹿しい。blindをsightlessと言い換えたところで盲はメクラだ。現実は変わらない。

自分が健常者で定型発達であることをラッキーだと思って欲しい。

そして、それは明日すぐに失うかもしれないという恐怖を知ってほしい。


 

『遠いところ(A Far Shore)』。

2023-07-15 21:59:21 | 映画日記
『遠いところ(A Far Shore)』を観てきた。

貧困は連鎖する。貧しい環境に生まれた子どもは、そこから立ち直ることが極めて難しい。「親ガチャ」という言葉が世に出てきて久しい。実際にそうなっている。
沖縄は17才以下の相対的貧困率が28.6%母子家庭、父子家庭の貧困率は50%。沖縄県知事がのんきに歌って踊っている間に、首里城再建のためにせっせとお金を貯めている間にも、子どもは苦しみ続けている。
少女たちは中学生から夜を売る。そして身体を売る。それでも上前をはねられる。少年たちは労働力を売る。安定した収入は得られない。
沖縄には沖縄の歴史的背景があるので、かなり酷いことになっているし、だからこそ舞台として選ばれるべき場所だったんだろうが、日本中どこでも似たようなものなんだと思う。

最高に物事が悪くなってから、ようやく行政が動き出す。
公務員経験者として、公務員の仕事はたいていの場合、手遅れになってから動き出す。
そして、粛々と正しいことを勧めていく。
今までほうったらかしにして、いきなり正論をぶつけてくる。
それが”公務”のやり方だ。

舞台挨拶があった回で、児童保護施設の職員を演じた、早織さんとお話しできた。
”職員としてあれは正しいことだったと思いますか”と聞いてみた。
「年間300件、こんなことが起こっているそうです。冷たい対応と見えたかもしれませんが、そうでもしないと職員さんの心が持たないそうです」
つづけて「困っている子どもたちがどこに行けばいいかわからない場合もあるそうです」と。
”自分が困っていると気付かない人もいるでしょうね”というと「そうですね」と返ってきた。
工藤監督ともお話しできた。
”どうしたらいいんでしょうね”と少し雑な聞き方になったと思う。
「難しいですね。こういう事実がある、ということを考えるきっかけになって欲しいです」
「お金の問題も大きいですよね」
「親類に、と思うかもしれないけれど、親類だからこそお金の話ってしにくいですよね」
”わかります(人は簡単に親から借りれば?というのだ)”
「お金だけでは無く、自立というのは『助けて』と言えることなんだ、と沖縄の人から聞きました。『私は困っているんだ』と言えることも自立なんだ、と」
”孤立していく、ということが問題にもなるんでしょうね”
もう少し話したかったけれど、他のお客さんもいるのだ。
ここで時間切れ。仕方ない。

その通りだと思った。監督も演者さんたちも本当に、この現実を観てきたんだなと。そして観て欲しいんだなと感じた。

18才の子どもが2才の子どもを抱えて生きていくのは、日本ではとてもとても難しい。「人に迷惑をかけるな」という道徳を植えつけられているし、「人に頼ることは良くない」とも思っているから、真面目で素直な子どもほど、それに従ってしまう。だから、自暴自棄とも取れる選択をしてしまうのかもしれない。
『助けて』と言わなくてはいけない。
『助けて』と言われたら、『どうしたの?』と言えなくてはいけない。
行政が共助を求めるのなら、それぐらいは教育しなくてはいけない。

映画のラストシーン。
シルミチューという、神聖な場所でのシーン。
絶望の底にいる少女は、2才の子どもを抱いて沖へ沖へと進んでいく。「遠いところ」へ行くように。
曇天の切れ間から日が差し込む、彼女は子どもを抱き上げて泣く。
物語はそこで終わる。

僕は思う。彼女はきっと苦しい道を選ぶ。不幸なことに、彼女はそう運命づけられた人のような気がする。希望無き世界で生きることを選ぶはずだ。だから、彼女の子どもも、同じ世界で生きることになる。
だからこそ、大人はもっと優しくならなくてはいけない。彼女たちの生きる世界を作ってしまった責任は大人にある。
米軍基地問題は現を抜かす言い訳になっていないだろうか。
本当はオスプレイなんて大した問題じゃないんじゃないだろうか。
座り込みを「すわってないじゃないか」と笑って、「あなたたちは沖縄の人じゃないでしょう」なんてどうでもいいんじゃないだろうか。
今の日本が、親の経済力が子どもの学力、そして将来に響くというカースト制になっている事実を目の端に追いやって、少子化だ高齢化だと議論しているんじゃないだろうか。

僕は、こんなことをエラそうに語れる人間ではないのではないか?
上映中、涙は出なかった。涙で自分を慰めていいような大人じゃないような気がした。
でも、今の生業なら、僕に出来ることがあるかもしれない。
曇天の切れ間の陽射しを、少し感じた気がする。


『メイヘムガールズ』

2023-05-10 00:39:15 | 映画日記
『メイヘムガールズ』を観た。

時はコロナ災禍。
先の見えない閉塞した生活。
その閉塞してやりきれない力が方向を変えて、超能力に変わってしまった女子高校生4人。
その能力を使って、遊びはエスカレートしていき、ついに犯罪にまで手を染める…。
閉塞した生活、それを打ち破る能力、そして新しい友だちたち。そして恋心。
暴れ出した1人のテレキネシスを相手に3人がそれを止めるために立ち塞がる。

久しぶりに、満足できた映画。
やっぱり、サイキックな能力を使えるのは女の子が似合うと思うんよ。エスパー魔美的な。
男が使うと「痛いよ兄さん」「淀んでるよ、兄さん」になってしまうから、暗いねん。あとは、基本的にエロでしょ?金でしょ?映画にも出てくるけどさ。

撮影中は頃の真っ最中で、そこで見える世界はやっぱり異常だ。
登校したら、まずは手指の消毒。学校ではマスク。鼻まであげないと怒られる。生徒指導もアクリル板越し。
仕事はリモート。上はビシッとスーツで決めているのに、下はパジャマ姿で会議を行う。対面の営業は「マジかよ」と言われる。
今見ると、滑稽な世の姿だ。

でも、それはいつかは終わる。
異常な日常は終わる。そして、彼女たちも。普通に戻る。
でも、普通だった頃の想いが普通に戻ると、それは少し哀しい想いに変わる。
彼女たちが大人になる頃には、たぶんコロナは一般的な風邪として扱われるようになるだろう。そして、この異常な日常を懐かしむ頃が来るのだ。
少しだけ、寂しい気持ちを含んで。