MARUMUSHI

映画とかTwitterとかとか。

『神様のカルテ』。

2011-09-23 04:49:10 | 映画日記
『神様のカルテ』を観てきた。

予告編を観て分かるとおり、いや、泣く泣く。
つД`)・゚・。・゚゚・*:.。..。.:*・゚

医者は患者を治すのが本来の仕事だ。だから、腕の良い医師の下に患者は集まっていく。
でも、助からない命もあるのは事実。そういった患者とどう向き合っていくのか?という問いかけに対する姿勢で医師の本当の価値が決まるように思う。
助からないと投げ出してしまうのか?
助からないと分かっていながらも助けようと、患者とともにもがいてくれるのか?




ホスピスと呼ばれる病棟がある。
死を目前にした人たちが、病気を癒すのではなく、病気の苦しみを和らげつつ残りの生を楽しんで生きるための場所だ。
ここに働く医師、スタッフは精神的には最も辛い場所に立っている医療従事者ではないかと思う。
彼らの目の前の患者は遅かれ早かれ死ぬのだ。
もう、治療法が無く助からない。そんな患者ばかりがそこにはいる。

俺の母親もそこで最期を迎えた。たった数日だったけれど。
そこだったから、母は生きている間に、湯船でくつろぐ事が出来た。
その医師だったから、俺は母の最期に立ち会う事が出来た。
そして、最期の時はスタッフも一緒に泣いてくれた。

”朝には紅顔ありて 夕には白骨となれる身なり”
人は皆、死に向かっている。産まれた瞬間から死に向かって落ちていく。それは分かりきったことで、でも実感としては湧かない。だから、俺は時々、上の御文を思い返す。そして、改めて事実を認めて生きていく。
今ある生をどのように生きていくかは、死ぬことから逃れるよりも大事なことなのだと思う。



人は働くために食べるのではない。

2011-09-14 23:39:20 | インポート
東電ツラの皮厚すぎ~!国会、報道、原発作業員に噴飯対応

働いて、その労働の対価として賃金を貰い、それで日々の生活を行う。
遊興費、嗜好品なんて物を買う。もちろん、衣食住もそのお金でまかなう。
これ当然。
だから、食費を会社持ちにしろ!という要求は、普通はおかしい感覚やと思う。

でもね、それは絶対的なことではなくて、労働環境によって適宜考える必要がある。
福島原発の事故対応をしている人たちが、じゃぁ、近くのスーパーに行って自炊を、とか、レストランでランチでも、とか出来る環境じゃないのは、震災直後も今も、さして変わってないと思う。
労働環境が何も変わっていない、それどころか事故収束が済んでも無いのに、なぜ労働待遇が変わるのか?
ただでさえ、過酷な環境下で仕事をしてくれているんだから、サービスしてあげなさいよ。

日本の労使の関係はなんだかちょっと変だ。
使用者側と労働者側が互いに話し合い、そして総合的に少しでも良い状態にするのが労使交渉などの働きのはずなのに、どちらも自分たちが言いたいことをいい、要求したいことを要求し、すれ違いで多くの場合労働者が不利益をこうむる結果になる。交渉になっていない。ガキの喧嘩だ。
使用者は、労働者の数を減らせといい、さらに残業時間を減らしてワーク・アンド・ライフバランスの充実を図れという。
労働者は、労働者の数を増やせといい、さらに賃金アップを要求する。
どっちもバカな要求だ。"(  ゚,_ゝ゚)バカジャネーノ"
でも、ちょっと考えたら分かるけれど、両者とも一方の要求を取り下げれば、もう一方の要求は互いに呑む事が出来るのだ。それが交渉なんじゃないのかね?



東電では使用者と労働者の意見をどうやりくりしているのか知らないけれど、大人な対応を双方とって貰いたいと思うのね、俺は。




『ヒバクシャ―世界の終わりに』、 『六ヶ所村ラプソディー』。

2011-09-11 23:24:34 | 映画日記
もう、数ヶ月ぐらい前の話し何やけれども、『ヒバクシャ―世界の終わりに』、『六ヶ所村ラプソディー』という映画を観てきた。
ライブハウスでの上映で、監督の鎌仲ひとみ氏の講演も聞けた。
失礼な質問をしてちょっと怒らせてしまったりして、スミマセンでした。監督。。。

鎌仲監督は核の問題に中立は存在しないと言った。
中立は容認であり、容認は肯定なのだ、と。


3月11日に東日本大震災が発生。福島第一原発が制御不能になり、メルトダウンを起こした。
放射性物質に空気が、土壌が、水が染まった。
地震の被害以上にそちらのほうにマスコミも世間もベクトルが向いていた。それは今もそうだけれど。

俺は原発推進派ではない。
でも、ドラスティックに脱原発を推進することも否定的だ。
エネルギー的な問題だけでなく、経済的にも、社会的にも脱原発を急速に進めることは危険なことだと思う。
代替エネルギーは?産業への影響は?原発関連施設で働く人たちの雇用は?
未来の子供たちのことを考えることも大事だけれど、今を生きる人たちのことだって考えないわけにいかない。
数々の問題を一気に噴出させて、それを解決するだけの余力が日本にあるようには思えない。
だから、推進ではなく抑制。これが俺のスタンス。依存度を減らす努力。

今夏は比較的涼しい夏だったということもあるけど、電力需要は何とかなったみたいだ。
節電節電と、かしましく言われていたし、実際実行もされていた。それでもどうしようもなく不便だと感じたことは無かった。少なくとも関西では。
店は多少照明が消えていたし、冷房も抑えられていた。
夜のネオンは少なくなった。エレベーターが一部止まったりしていた。
でも、それだけのことだった。今までいかにエネルギーをそれこそ湯水がごとく使っていたことか。。。


原発から核兵器へ。
そんなラインがあるなんて、知らなかった。『ヒバクシャ―世界の終わりに』、 『六ヶ所村ラプソディー』を見て初めて知った。
平和は戦争の影だ。
俺たちの平和な日常は、誰かが苦しみという代価を支払うことで成り立っているのかもしれない。

でも、だからと言って、しかしながら、と前置きをいっぱいした上で。
核は悪なのか?という疑問が払拭できない。
戦争は悪だ。でも、原発は間違った発電設備なのだろうか?
電気があることで、生きていける人たちが沢山いる。でも、その発電の結果死んでしまう人たちもいる。
肯定か否定か。どっちを採る?この二面性を持つ核という存在をこれからどうしていく?

答えはナカナカでない。難しい。
色んな利権や権力抗争、色々な駆け引き、問題があり、それらが複雑奇怪なまでにコンガラガリ、縺れている。

この国の原子力発電はそんな状態だ。

なかなか解けないだろうな、この縺れは。



『上海』。

2011-09-05 21:06:36 | 映画日記
『上海』を観てきた。

時代は、第二次大戦勃発直前。
日本は上海以外の概ねの中国大陸を治め、アメリカはその大戦に参戦する意思が無かった頃。
それでも日本は確実に上海を治めようと動いていた。。。

一見、歴史物のようだけど(もちろんそうでもあるけど)、どちらかというとかなり血なまぐさいラブロマンスといったところか?
時代が時代だと、人を好きになるのも、真の意味で命がけだ。
誰が本物のパートナーか?そして、誰が偽りのパートナーか?
微かな兆候を見逃せば、愛しているが故に盲目になっていれば、その先にあるのは地獄なのだ。


今も世界のどこかでは戦争が行われていて、そして、その背後にはこの作品に描かれるような悲しい結末を迎える恋がいくつもあるんだろう。

ささやかな幸せさえ叶わない。
そんな世界は本当にクソッタレだと思う。