MARUMUSHI

映画とかTwitterとかとか。

『ヴィヴィアン・マイヤーを探して』。

2015-10-31 17:34:50 | twitter
『ヴィヴィアン・マイヤーを探して(原題 ; FINDING VIVIAN MAIER )』を観てきた。

例えば、織田信長というとどういうイメージがあるだろう?
東條英樹は?
田中角栄は?
なんらかのイメージがあると思う。でも、それは本当に正しいんだろうか?

ヴィヴィアン・マイヤーの写真やネガは、ある倉庫から処分のためのオークションで発掘された。発掘した青年は”VIVIAN MAIER”でググった。
ヒット数はゼロ。
彼の部屋でそのネガは数ヶ月眠ることになった。
数ヶ月後もう一度ググると、一件ヒットした。
死亡通知。
彼はそのネガを引っ張り出しスキャンし、ネットのブログに投稿した。あっという間にVIVIAN MAIERの名は広まった。
VIVIAN MAIERの撮った写真は天才が切り取ったストリートフォトだった。

その写真のネガはおよそ15万枚。これがどれだけのことか、フィルム写真歴が10年の僕でもわかる。
本当に毎日撮らなければ撮れない枚数なのだ。
なぜこれほど数の写真を撮れる天才写真家が、生前写真を公表してこなかったのか?彼は当然ともいえる疑問を抱く。
FINDING VIVIAN MAIER.
彼女を追う旅が始まる。

彼女は1926年にニューヨークで産まれた。
幼少期はアメリカとフランスの間を行き来することになった。
アメリカで家政婦をかねた乳母として働きだした。
変わり者だった。
背が高かった。
ファッションも野暮ったくて体のラインを出さない服を着ていた。
ずっとカメラを提げていた。
収集家だった。
心を閉ざし、名前さえ隠したがった。
時に冷酷な一面を見せた。
歳を取るにつれてクレイジーと呼ばれる行動が増えていった。
そして、2009年に孤独のうちに亡くなった。

彼女に対する証言が時折真逆になるシーンがあった。
あえてそうしたんだろうけれど。
人のイメージは見る人によって全然違う。
何も語らなかった彼女は、モザイク状にその姿を現す。
写真。手紙。莫大なチラシや新聞の切り抜き、そして証言。
でも、VIVIAN MAIERは何者か?本当はどんな人物なのか?何を考えていたのか?もう分からないのだ。

写真を見つけた彼は、フランス語で書かれた写真屋への手紙を見つけて喜んでいる。
「これまで、彼女が公表していなかったことを公表してしまったことに罪の意識があった。でも、あの手紙は自分の写真を公開したいという彼女の意志なんだ」と。
そうかもしれない。
でも、僕は違うと思う。
写真は見せるために撮るのだと思う人が多いようだけれど、僕は撮るために撮っていることが多い。
彼女の目的は写真を撮ることだったんじゃないだろうか?

彼女自身が自分を撮ったポートレートがある。
どの写真も表情は硬い。怒っているように見えるし、無表情なようにも見える。
ほかのストリートフォトには被写体の表情がある。撮りたいものの心が伝わる。でも、自身のポートレートには無いのだ。お見合い写真なんかに使ったら最悪だ。

彼女は孤独の内に死んだ。看取る家族はいなかった。
人は人の死を知った後で後悔する。
「あのとき、ああしていれば」と平気で悲しむ。それは、自己憐憫でしかないのに。
彼女は収集癖があった。それはそれは自分の物をこれっぽっちも逃すものかと言わんばかりだ。自分の声のテープすら残している。
「それらは、全て私の物。誰にも渡すつもりはないわ」
と彼女は言っているようだ。

フィルムを現像し、写真にしたことは、僕は避けるべきだったと思う。おそらくだけど、VIVIAN MAIERは誰にも知られるべきではなかったのだ。
彼女は寂しかったんだろうと思う。孤独だったんだろうな、とも思う。
でもその寂しさも孤独すらも「私の物」と思っていたんじゃないだろうか?それは良くないことなのかもしれない。でも、それは所謂、曖昧な常識という奴に照らせば、だ。

だが、彼女は死んだ。VIVIAN MAIERはもういない。
遺体もなくなり、彼女自身の魂も散逸した。何もない。
死者は何も語らない。感じない。
でも、15万枚にも及ぶ写真が残った。そこに魂は宿っている。
写真から観る僕らの姿をVIVIAN MAIERはどう感じているんだろう?

この作品はとてもおもしろい。
でも、同時に罪悪感がずっとつきまとう。
彼女のベールを剥ぐことは、良いのだろうか?と。

まだ、彼女を巡る調査が続いているらしい。
VIVIAN MAIERは、どこかの時点で男性からの暴力を受けていたようだ。
でも、僕は思う。もう、彼女の過去に立ち入らないであげてほしい。VIVIAN MAIERはもう故人なのだ。そんなことに意味はない。
VIVIAN MAIERが撮った15万枚の写真達。そこに宿る魂。そこに目を向けてそれを感じることが、僕らの、本質的な、望みなのだから。



『俺物語!!』。

2015-10-31 11:52:51 | 映画日記
『俺物語!!』を観てきた。

高校生のイケメン、クールと。
高校生のオッサン顔、暑苦しいとが一緒に歩いていたら、女子の目がどっちに向くかなんて考えなくても分かる。
人は見た目で人を判断する。
人を助けても、自分が善行を行っても、人は見た目で判断する。
でも、彼は言うのだ。
「良かった」と。

主人公の彼は、誰よりも強く、誰よりも熱く、そして誰よりも優しい。だが、誰よりも察しが悪い。
まぁ、友人がイケメンなら、彼女の気持ちが友人に向いている、そう思いこむのも無理はない。
「2人が幸せなら、良かった」と彼は思う。
ただ、それは何よりも相手を傷つけ、自分に嘘をつく行為だ。
だから、スランプに陥る。ボールは取れない、バットに当たらない、足下に落ちる。

彼女は主人公に恋をした。
彼は彼女に恋をした。
そして、たぶんだけれど、友人はもっと昔から、彼に恋をしているんだろう。
互いが互いの良いところだけを思い出せる親友などなかなかいない。恋でもしていなければ。

「お前は、カッコいいよ」
「ありがとぉぉー!」

彼は、誰よりもカッコいい。ただ、底抜けに不器用で察しが良くないだけで。その点に関しては彼女も似たようなものだ。
だから、親友は2人を見てゲラゲラと笑う。良かったと思って。

自分の恋した彼女と、彼とが思った以上に似合いで幸せそうだったから。


でも、ラップ越しのキスの練習は勘弁願いたいようだ。



2015年10月30日のつぶやき

2015-10-31 00:00:00 | twitter



  • 歯医者の定期検診に行った。わざわざある歯科衛生士さんが話しかけてくれた。iPhone6買ったそうだ。
    受付の人によると、僕に会うのを楽しみにしてたらしい。そんな人もおるんやな。

    「お近付きになりたいですね」と言っておいた。

    Posted at 11:23 PM




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    Posted at 12:11 PM



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『顔のないヒトラーたち』。

2015-10-29 21:30:45 | 映画日記
『顔のないヒトラーたち(原題;Im Labyrinth des Schweigens)』を観てきた。

ドイツは第二次大戦後にニュルンベルク裁判で国際裁判で裁かれ、加えて西ドイツでは再度自分たちを自分たちで裁くというフランクフルト裁判を行っているのは知っていた。
日本もそうすべきなんじゃないかな?と思っている。

この作品はその二回目の裁判を起こすまでのある検事の物語。
「ヒトラーは死んだ」
「ナチスなど過去のものだ」
戦後十数年間もそんな時代が存在していたのは驚き。アウシュビッツすら知らないのだ。
臭い物には蓋。
触らぬ神に祟りなし。
つまり、そういうことだったんだろう。
国民全体が薄々感づいていながら、それでも平穏に暮らしているところを、つつくのだから大変だ。
周りは一人とて味方はいない。ラドマン検事はそれでも「正義」を振りかざす。
「僕がやっていることは正義なんだ」と。


翻って同じ敗戦国の日本を見てみる。
日本は党にという単位で見ることは出来ない。だって、当時は大政翼賛政権状態。極端な話、国民全員が党員状態だった。
極東裁判もサラッと受け入れた。悪い奴は戦犯として裁いて全て終わりにした。
分かりやすいのだ。
そして戦後、一切の疑念はない。もちろん一部の有識者たちは問題があると思っていただろうけど、世論は無反応。
まして、検事が戦争犯罪に関する裁判を起こすなんて、考えることすらなかったんだろう。
極東裁判で何が悪かったの?悪い奴を絞首刑で殺したんだから良いじゃない。
天皇陛下万歳!と言っていたのが、あっという間にギブミーチョコレートになった。
そして、今の現状。右翼だ左翼だ中道だ、とまだ揉めている。
他国への戦争責任に対して、どうするのかさえ時の政権で右往左往する。臭いものの蓋が時々あいたりする状態だ。

極東裁判は一体何だったんだろうか?
ニュルンベルク裁判と極東裁判はどちらも戦勝国が敗戦国を裁くという、いわば見せしめの裁判の色が強い。
だが、フランクフルト裁判は違う。西ドイツが自身で自身の戦争を整理し、判断し、裁いた。
元はSS達を裁くことが主眼だったのかもしれない。政府要職からナチスを排除する。それが目的だったのだろう。
だが、それでことが解決するわけではないとラドマン検事達は気付く。
何があったのか。
アウシュビッツで何があり、どうしてそうなったのか。どこで間違ったのか。
ナチス党は世界一民主的であると言われたワイマール憲法下で正式な手続きを経て政権を握った。間違ったのはヒトラーじゃない。
顔のない、薄ぼんやりとした国民一人一人だったのだろう。
彼らは個人としては善良で、優しい人間だった。
そんな人たちが、集団となり創発として極悪になった。
チクロンを購入する。
ユダヤ人達を部屋に押し込む。
チクロンを発煙させる。
分業化されることで大量虐殺はただの作業になる。言わば悪の希釈。
しかし、全てを一人でやれば殺人だ。

ラドマン検事は間違え、悩み苦しみ、その上で言う。
「僕は僕の正義に従うまでです」
彼は、気付いたのだと思う。
絶対の正義などどこにもない、と。
自分の正義を信じるしかない。一人一人に正義があり、それを大量に重ね合わせることで見かけの正義が産まれる。

フランクフルト裁判は、アウシュビッツで何が行われたのかを引きずり出した。国民が知らない、隠された真実。そのつなぎ合わせで浮かび上がる事実。
裁判の中で、裁かれた人々。法が生きていたとは言え、戦時下の心理状態で正常な判断を求めることが正しかったんだろうか?
裁いたラドマン検事は、正義を代表できたのだろうか?
そして、何が正義だったのだろうか?

僕たちは今、正義の中で生きているんだろうか?

「目と、耳と、心を大きく開いて世界を見なさい」(『聯合艦隊司令長官 山本五十六』より)
見たいものを見て、聞きたいものを聞く。ネット社会になってからより情報は氾濫し、取捨選択をせねばならないようになった。片寄った情報でものを見る、聞くのは、心が閉じているのではないか。
僕はそれを正義だとは思えない。

「間違いは誰にでもある。完璧な人間なんていないさ。私を除いてはね」と同僚は茶化しながら失敗し荒れ、職を放棄すらしたラドマン検事を慰める。彼は椅子に座り、大量の資料に向かう。そうやって間違いを修正する。
間違いは修正すればいい。
僕は思う。大抵の失敗や間違いは修正できる。面倒くさいだけで。
ただ、殺人だけは修正不可能だが。
それでも、失敗し痛い目を見て、それでも真実を見ようとするのなら、それは正義に一歩近づくことなのではないだろうか?

日本は戦争を忘れようとしている。
戦後レジームの脱却。戦後である今をどうやって脱却するのだ?
レッドパージが目的で設立された自衛隊の前身の警察予備隊の存在はどうするのだ。赤が弱体化している今、バランスは右よりだろう。今、戦後レジームを抜けてしまっていいのか?
戦争はやってはいけないものだ。
人を殺し、己も殺す行為だ。
僕もそう思う。戦争は忌むべき行為だ。殺人は死者に赦しを請えないから最も忌むべき行為なのだ。
分かっている。
でも、本当の戦争の姿を知らないのだ。
空襲や被爆者達が良く口にするのは「臭い」だ。僕は戦争の臭いを知らない。その情報だけでもかなりの要素が欠けている。

1945年8月6日のことを知らない子供達が増えていると聞く。当然9日のことも知らないだろう。
僕らは知らず知らずのうちに、フランクフルト裁判から遠のく方向に進んでいるのかもしれない。

ヒトラーは死んでいない。その陰はそこかしこにある。
ドイツだけじゃない。日本だけじゃない。世界中のどこかにいる、顔のないヒトラーたち。
僕はその中に入らず、「心を開いて」生きていけるだろうか。