MARUMUSHI

映画とかTwitterとかとか。

『100,000年後の安全』。

2011-05-31 22:37:28 | 映画日記
『100,000年後の安全』を観てきた。

デンマーク・フィンランド・スウェーデン・イタリア合作のドキュメンタリー映画。
タイトルセンスがいいね。

原発から産まれる放射性廃棄物。
現在その量は25万トンあるとされている。
フィンランドではこれらを”オンカロ”地下500メートルに掘った空間に収めることを計画している。
その地下施設の岩盤は過去何億年間も安定して存在している事が分かっている。
そこを掘りぬき、廃棄物を入れ、コンクリートで完全に封印する。二度とその空間を開けることはない。
放射性廃棄物は徐々にその放射能を弱めていき、100,000年後には人体にとって無害なレベルにまで減衰していくと考えられている。

過去数億年も安定な地下空間。
そこに、ずっと置いておくだけ。つまり、人の制御を必要としない。
確かに安全だ。

今、『最悪の事故が起こるまで人は何をしていたのか, ジェームズ・R・チャイルズ』という本を読んでいる。
大規模な事故はなぜ発生するのか?その瞬間まで人はいったい何をしていたのか?という沢山の事例が載っている(それが目的の本ではないけれど)。
この本で分かるのは、それらの事故は、大抵の場合あらかじめ考えられていた事故であり、それらを防ぐ手段や予防措置があったということだ。しかし、なんらかの原因でそれらの手段でコントロールできる範囲を超えてしまった時、事故は起きている。”システムの暴走”が必ず起こっている。

大規模システムの多くはフェイルセーフという考え方で設計されている。
原発といった巨大かつ危険な施設ではそれが絶対条件だ。
―のはずだった。
でも、福島原発はどうだろう?誰も彼もが「想定外」を口にする。
地震・津波は想定されていなかったのか?
そんなことはない。
地震は当然、津波だって想定していたはずだ。
でも、事故は起きた。
次から次に原発建屋が吹き飛んだ。
原発から半径30kmは立ち入りが禁止された。放射性物質が各地から検出された。
水素爆発といっていたはずが、2ヶ月たって地震直後にメルトダウンが起きていた分かったと発表され、水蒸気爆発、ひょっとしたら再臨界だって起きているかもしれない。
今でも冷温停止には至っていない。つまり、システムの暴走はまだ続いている。
どの時点から、アンコントローラブルになってしまったのかは、今後、十余年もかけてだろうけれど明らかになっていくだろう(そう願いたい)。でも、原発という複雑巨大なシステムが暴走してしまったのは事実で、その暴走の引き金になった地震と津波に関しては想定されうる現象だったはずだ。

”オンカロ”に話を戻そう。
過去数億年も安定な地下空間。
そこに、放射性廃棄物を置いて封印。二度と空間は開けずに安全になるまで待つ。
待つだけだ。人の制御を必要とせず、安全な状態に向かっていくシステム。
絶対安全じゃないか。

でも、どこか安心し切れないのはなぜだろうか?

映画の中でもこんな事が語られている。
100,000年には少しだけ足りない時間の経った世界。
その世界では人類はすでにいない。しかし、高度な知能を持ったなんらかの存在がいたとして、彼らはその放射性廃棄物に接触してしまうことは無いだろうか?と。
彼らが、その強固な岩盤をなんらかの形で利用したいと無防備に掘り返してしまうことは無いだろうか?
DNAを持ち繁殖していくタイプの生物である限り、放射能は絶対に害になる。
掘り返してしまえば最後だ。彼らは前世代の知的生物の遺産によって滅亡することになる。

地球や宇宙の時間軸では100,000年はそれほど長いスケールではない。でも、生物にとってはとてつもない長さだ。どんな生物もその期間を生き続ける事は難しいだろう。

100,000年後。
放射性廃棄物が安全になった日が、そこには本当に存在するのだろうか?


『GONZO-ならず者ジャーナリスト、ハンター・S・トンプソンのすべて-』。

2011-05-31 20:07:19 | 映画日記
GONZO-ならず者ジャーナリスト、ハンター・S・トンプソンのすべて-』を観てきた。

アメリカ合衆国大統領が恐れ、ヘルズ・エンジェルズに憎まれ、アメリカ国民に愛された男。
掛け値なしにイカレていて、イケてるジャーナリストだ。
生き様もメチャクチャだけど、死に様もメチャクチャだ。

ゴンゾ・ジャーナリズム。
ジャーナリズムに一人称を持ち込むことで、客観的であるよりリアルに対象に肉薄する。
取材対象を観察し、自分の意見を持ち、それを自分の言葉で書く。
当たり前のようでいて、それをクールだと感じさせるのはそうできることじゃない。

「真実は、いつも1つ!」と名探偵コナンは言うけれど、そうじゃない。
正しくは、”事象は、いつも1つ”だ。そして、そこから生じる真実は観察者によって変化する。
見る者が真実を創るのだ。
ゴンゾ・ジャーナリズムは、これを体現した物だと思う。

俺は雑誌は読まないし、新聞も読まない。テレビの報道番組もあんまり見ない。
ニュースはインターネットの記事をチョコチョコと見る程度だ。それで十分だ。チョロチョロと出来事を書いてくれればそれで良い。
どの雑誌もどの新聞もどの報道番組も、大体同じことをいう。客観的であることを重視しているせいかステレオタイプもいいところだ。
最近、報道番組に特に顕著だけれど、ちょっとした言い間違いの訂正を信じられないぐらい丁寧に謝罪する。
そのこと自体は特に悪いことじゃない。でも、これはクレームが怖い、というプレッシャーが現れている姿だと思う。

自分たちが考え、取材し、思ったことをハッキリと伝える。
それが、報道だと思うし、ジャーナリズムだと思う。
間違っていたらしっかりと謝ればいい。
いや、間違っていない。この事象にはこういう見方もあるんだ。と思うならハッキリそれを示せばいい。
日本の報道関係者はそれが出来ていないと思う。

東京電力の記者会見で、日本向けの会見は会場が記者でいっぱいだ。
でも、海外プレス向けの会見会場は、数日目で誰も来なくなったらしい。海外の記者から見れば、東京電力の会見はそんな程度の表面的なものでしかないということなのだ。
「いいよもう。自分で取材するよ」てなモンなのかな?
でも、その会見を見るために今日も日本人記者は席の取合いをしてるんだろう。
発表されたことをそのまま記事にする。それが日本のジャーナリストのスタイルだ。
彼らは東京電力の広報担当のアンプでしかない。

ハンター・S・トンプソンが今の日本ジャーナリストを取材して、記事を書いたらどうなるのか?
たぶん、クールにぶった切ってくれるんだろうな、と思う。



『MY BACK PAGE(マイ・バック・ページ)』。

2011-05-31 12:17:46 | 映画日記
『MY BACK PAGE(マイ・バック・ページ)』を観てきた。

1969~1972年を描いた作品。
学生運動が下火になりはじめた時代。
ジャーナリストの玉子と日本の革命を目指す男の出会い。
違う立場にいながら、彼らは1つの時代のスクリーンだ。
何かを成したいはずなのに、何も成せなかった世代。
学生運動って、あれだけ派手なことをやっておきながら、なんの成果もでなかった。

革命という言葉に酔った若者と彼等を利用しようとした大人たち。
体制への抵抗のつもりだったかもしれないが、今、そんなことを言ったり、続けている人なんてごく少数であることからも、単なるお遊びだったと言わざるをえない。最悪の場合、運動に参加していた人が会社を継いだり、公職についたりなんて冗談も大概にして欲しい。
そして、もっと馬鹿馬鹿しいのはそんな彼らの作った社会が今の社会で、その社会に放り出され、彼らの後始末をし、老後の面倒までしろと言われているのが俺たちの世代になりそうだ、という事実だ。

映画の最後。
ジャーナリストとしての道を絶たれた男が、小さな居酒屋で昔の友人と再会する。
友人がいう。
「まぁ、いいか。生きてりゃな」
それを聞いて男は泣く。笑いながら涙を流す。
自虐であり、達観であり、慙愧でもある涙だ。

あの時代の終わりに、彼と同質の涙を流せた人がどれだけいたんだろうか?と俺は今の世情の中で、疑問に思う。



『手塚治虫のブッダ-赤い砂漠よ!美しく-』。

2011-05-31 06:19:05 | 映画日記
『手塚治虫のブッダ-赤い砂漠よ!美しく-』を観てきた。

シャカ国の王子が世の中の苦しみに絶望し、全てを捨てて修行に身を投じるまでの物語。

正直、難しい映画。。。

現世は苦しみに満ちている。
生老病死。
生きることも、死ぬことも。
誰かを愛することも、苦しみに繋がる。
それでも、人は現世で生きていこうとする。
なぜか?
この答えを求めること。
それさえも苦しみであるというのに、人は考え続ける。

明確な答えは無い。
きっと、人によっても違う。

でも、1つだけ分かるのは、この問いを考え続けることこそが、人が人たる所以なのだ。


PLARAIL。

2011-05-30 05:18:59 | インポート
PLARAIL Advance

( ゚д゚)ホスィ…
だってだー。
既存のレールを使って複線にできるわけでしょー!
しかも、すれ違ったりもできるわけでしょー!
ワーイ\(゜▽゜=))/

プラレールって子どもの頃よく遊んだなー。
ここに来て、進化するとは。。。
捨てずにもっときゃよかったなー。