『ふきげんな過去』を観てきた。
日常生活という空間には、思った以上のことは起きない。
起きたとしても、大抵それはネガティブな方向。
例えば、爆弾で指が吹っ飛んだり、エレベーターに挟まれて足を失ったり、子供が誘拐されたり、ワニに食い殺されたり。
残念ながらそれらの出来事だって大体は想像の範疇で、関係者以外にはさして問題にならないこと。
そんな日常では、学校に行かなかったり、豆を剥いたり、夏の暑いべとつく中、ガシャガシャとビニル傘の先端をコンクリートの地面で削るなんていうちゃっちいことばかりが続く。
恐ろしいのは、日常生活は非日常が起きても、それをそれと感じないということだ。日常生活は思ったよりも自分の中に染込んで、麻痺させる。
自分が非日常にいると感じたときには、非日常な物たちが陳腐になり、崩壊してしまっている。
先に書いたことは、全て“カコ”の話。
人は過去からしか学ぶことは出来ない。だから、ミライにはカコしかないと僕たちは錯覚してしまう。ミライに失望するのは大抵この思考なんだろう。
カコは例に過ぎない。ミライは例に満ちていながら全く違うカコになっている。それに気付くかどうかで、非日常が起こっているかどうかが決まる。
ミライでは思った異常のことは起きない。
でも、失望するほどのミライではない。
そう思っていればふきげんなカコはミライへ進むんじゃないカナ。
日常生活という空間には、思った以上のことは起きない。
起きたとしても、大抵それはネガティブな方向。
例えば、爆弾で指が吹っ飛んだり、エレベーターに挟まれて足を失ったり、子供が誘拐されたり、ワニに食い殺されたり。
残念ながらそれらの出来事だって大体は想像の範疇で、関係者以外にはさして問題にならないこと。
そんな日常では、学校に行かなかったり、豆を剥いたり、夏の暑いべとつく中、ガシャガシャとビニル傘の先端をコンクリートの地面で削るなんていうちゃっちいことばかりが続く。
恐ろしいのは、日常生活は非日常が起きても、それをそれと感じないということだ。日常生活は思ったよりも自分の中に染込んで、麻痺させる。
自分が非日常にいると感じたときには、非日常な物たちが陳腐になり、崩壊してしまっている。
先に書いたことは、全て“カコ”の話。
人は過去からしか学ぶことは出来ない。だから、ミライにはカコしかないと僕たちは錯覚してしまう。ミライに失望するのは大抵この思考なんだろう。
カコは例に過ぎない。ミライは例に満ちていながら全く違うカコになっている。それに気付くかどうかで、非日常が起こっているかどうかが決まる。
ミライでは思った異常のことは起きない。
でも、失望するほどのミライではない。
そう思っていればふきげんなカコはミライへ進むんじゃないカナ。