逝きし世の面影

政治、経済、社会、宗教などを脈絡無く語る

建国記念制定から150年目

2023年02月14日 | 文化・歴史

負け戦で始まった神武東征(日本書紀)神武天皇聖蹟孔舎衛坂顕彰碑

「2月11日」は、昭和41年(1966年)に法律(祝日法)ではなく自民党佐藤栄作内閣の政令で制定された「建国記念の日」で、もともとは戦前の「紀元節」である。明治政府が150年前の1873年に「日本書紀」に書かれた建国神話をもとに神武天皇が橿原宮(かしはらのみや)で即位した日です。(制定から150年目の大きな節目だったが政府自民党や神社本庁など関係者さえ何も言わない)

「2月11日」神武建国の英雄譚の(法的に曖昧な)祝日化からなら57年目。ところが、元になった日本書紀の記述では神武の本拠地だった「高千穂」(佐賀県吉野ケ里遺跡など北九州地域か、九州南西部の宮崎県?)からすんなりと大和(明日香)には入っていない日本の古代史の事実が何故か歴史学者たちは話題にしたくないらしい。

熊野本宮大社のマスコット「神の使い」ヤタガラス(八咫烏)

神武東征で、最初に難波(大阪)から生駒山の日下之直越道を越えて大和に攻め入ろうとしたとき、神武天皇の長兄の五瀬命が流れ矢を受けて肘を負傷しその後死亡する負け戦の記念碑(東大阪市日下町の東方山腹、標高240m)その後、大きく迂回して紀州和歌山から紀伊半島南端の潮岬を超え熊野に上陸。その後サッカー日本チームのエンブレム3本足のヤタガラスに導かれ 険しい山越えルートで大和に入ったと日本書紀に記されています。(一番最初の大和入りのルート生駒山は標高600mの丘陵を超える古代から親しまれた通行道。対して熊野のルートは2千メートル近い大峰山脈や大台ヶ原山など紀伊半島の屋根に当たる最も困難な地域を踏破していたことになる)

大和橿原で神武の即位の後の話

NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の後鳥羽上皇などの歴代の高級皇族が遠く熊野三山を京都から1カ月もかけて徒歩で詣でていた。皇室の先祖神の伊勢神宮は、何故か明治天皇以前の歴代天皇は誰も参拝していないし京都御所にもアマテラスを祀っていない。天皇家は伊勢神宮ではなくて、熊野詣を行っていたのである。2019年02月26日 | 宗教 うろんな「二・二六事件」日本的クーデター

『伊勢神宮(天照大御神)よりも天皇家の信仰心が篤かった神仏融合の熊野権現』

『日本書紀』によると日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の子供の仲哀天皇(第14代天皇)は九州の熊襲征伐の途中に妻(神功皇后)が神がかって『朝鮮征伐の神託』を受けるが、仲哀天皇が神託に従わなかったため神(アマテラス)に殺されたとの恐ろしい記述がある。2019年05月08日 | 政治・外交と天皇制 「お健やかな天皇を願っていません」デンデン安倍晋三

神功皇后は、臨月であったにもかかわらず朝鮮半島に渡り新羅を討ち、帰国してから筑紫の宇美で第15代応神天皇を生んだとある。妊娠期間が15カ月以上での二年越し出産なので母親が神功皇后だったとしても、父親は仲哀ではない(父親が不明の)「不義密通」の子供が第15代の応神天皇(武士の守り神の八幡神)だったことになる。知らんけど。 (^_^;)

大日本帝国憲法発布は「建国記念」制定から16年後。84年前の1889年の2月11日

日本最初の憲法制定の記念日が2月11日。国家の崩壊で終わった対米戦争(第二次世界大戦)とそっくり同じで、日本軍の奇襲攻撃で始まった日露戦争の宣戦布告も1904年2月10日だったが、新聞に発表された日付がやはり2月11日だったのである。

日本陸軍「英領シンガポール攻略」も建国記念の日(神武神話)の2月11日に関連していた

「リメンバー・パールハーバー」トラ・トラ・トラの日本海軍山本五十六連合艦隊のアメリカの植民地真珠湾奇襲攻撃1941年12月8日に開始されたと宣伝されているが、日露戦争と同じように「シ港要塞完全に死命を制す」「紀元の佳節 精鋭士気高揚 敵最高拠点を奪取」(80年前の1941年2月11日の朝日新聞第1面の見出し)大本営発表記事と、やはり「2月11日」の日付が大きな意味を持っていたらしい。
なんと、日本軍は最重要の戦略拠点イギリス領だったシンガポール島の攻略作戦を2月11日の日本建国記念日の「紀元節」にあわせて実施していたらしいのですから、当時の日本軍にとって神武東征や大和橿原即位の神武天皇神話が特別に大切だったのである。



『日本軍の捕虜収容所があった、「背後から忍び寄る死の島」、セントーサ島』 

米朝会談の開催地のセントーサ島は、ビーチやホテル、カジノやユニバーサル・スタジオがあることで知られるが、昔の名称は、『死の島』だった。
歴史的な米朝首脳会談が開催される会場シンガポールのリゾート地は現在、平和と平穏を意味するセントーサと呼ばれているが、第2次世界大戦中に日本軍の捕虜収容所があり、『背後から忍び寄る死の島』と呼ばれたのである。
首脳会談が行われるカペラ・ホテルは、英王立砲兵連隊の施設跡を改修して造られており、ホテルのウェブサイトによると、イギリス軍将校らは、日本軍の侵攻を前に食堂に面した場所に銀を埋めたという。その後、一部はマレーシアによって回収されたが、「残りの行方はいまだ不明であり、芝生の下に眠っている可能性がある」と記されている。
シンガポールではこれまでも、主要なサミットが行われてきたが、セントーサ島では一度もない。
2018年06月12日 | 東アジア共同体「死の島」の米朝会談、もう一つの「南京大虐殺」

★注、米英同盟のアメリカ大統領ドナルド・トランプが、歴史的な初めての2018年6月12日米朝首脳開催地に、わざわざシンガポールの捕虜収容所跡の『背後から忍び寄る死の島』セントーサ島を選んだのは偶然ではない。たぶん、アメリカ人的な意趣返しとして意識的に選んだと思われるのですから恐ろしい。

 
約7000年前、縄文前期   4500年前、縄文中期   古事記・出雲国風土記の時代
1200年前、奈良・平安時代

古事記や日本書紀の書かれた1200年前の出雲地方の宍道湖は内海(縄文期の島根半島は本州から切り離された島)だったように、海水面が今より大幅に高かったのである。(★注、海水面から分かることは地球環境が今より温暖だったことが明らかで、温暖化云々どころか、現在は縄文期や古墳時代、古事記日本書紀の奈良・平安時代の昔から比べ遥かに寒冷化していたのである)

蘇我入鹿暗殺の乙巳の変(大化の改新)飛鳥時代645年後に遷都した「難波の宮」のある上町台地(現在の大阪城)は海に突き出した半島だったし世界最大の大仙古墳(仁徳天皇陵)は海岸線に造られていた。

大船団を率いた神武東征は生駒山麓の日下(くさか 孔舎衛)に上陸するが、最強の敵の長髄彦が生駒山の坂の上から矢を雨のように降らせて大敗する。当時の河内湖は淡水ではなくて有明海のような干潟?だったらしくて干満の潮流が激しくて悪戦苦闘し「難波」と名付けられたと日本書紀に書いてある。(一旦退却して上町台地の難波の宮あたりに再上陸して体制を立て直し、大きく紀伊半島を迂回して熊野に上陸、遠路はるばる大和に入った)

今より温暖(海水面が高く大阪平野は海の底)

同じ敗戦国でも意識高い系「緑の党」が与党入りしたキリスト教文化圏ドイツとは大違いで、我が日本国では建前としては人為的CO2温暖化対策には賛成でも本音は真っ赤な噓だと知識人の全員が知っているのである。

ただし、自分が叩かれないように「見ざる聞かざる言わざる」「知らぬ。存ぜぬ」で胡麻化しているだけ。もちろん日本国内でも28人が犠牲になった熱海市土砂崩れのように太陽光発電のソーラーパネル(環境マフィア)は180度正反対に環境破壊の張本人だったのである。2022年07月07日 | 社会(続)登記のA 犠牲者28人の大惨事は「人災」

日本書紀「神武東征」神話にピッタリとシンクロ。ほぼ一致する司馬遷「史記」徐福神話

全国各地に多数ある徐福が日本に初めて上陸したとの伝説と徐福像(写真は和歌山県新宮市 徐福公園)

秦の始皇帝の求めた『不老不死』は不可能だが、人類にとっての永遠の夢(理想社会)とは、『年をとっても健康で長生きする』ことなので、今の日本の少子高齢化社会こそが我々が求めていた理想的な社会だったのである。
日本の歴史家では魏志倭人伝(動乱の3世紀末)の卑弥呼は大好きで史実だと思っているが、なぜか前漢時代の歴史家司馬遷(紀元前145~紀元前87)の『史記』の徐福は大嫌いで『史実ではない』と長いあいだ完全無視している。ところが日本以外では女王卑弥呼よりも、史記の徐福が蓬莱で国王になった話の方が有名であり関心も高い。(★注、そもそも日本国内でも卑弥呼神社など卑弥呼の民間伝承はゼロだった。ところが、対照的に徐福の伝承は日本中に多数存在している)
何故日本では史記の徐福を歴史家が排除するかの謎ですが、日本の高度な禁忌(タブー)に抵触するからでしょう。
記紀に出てくる天皇は百歳以上の長命だが、普通に在位期間20年程度で換算すると徐福が東方へ出帆して蓬莱島で王となった時期と初代天皇の神武が即位したのが同じ時期となる。
何故、日本だけは徐福伝説を歴史家が取り上げないかの謎ですが、司馬遷の史記の徐福伝説の話と、日本の記紀の記述(紀伊半島の熊野に上陸して大和で即位)とが妙に一致するのですね。徐福の話は、やはり不味かったのでしょう。
神武即位と徐福渡来が同時期であることは、日本の歴史学者は戦前から気づいていたらしいが、命が惜しいので間違っても口には出せない。
大陸から日本列島に渡来した弥生人の 骨のDNA鑑定では近い朝鮮半島ではなく遠い中国の山東半島(春秋戦国時代の斉国)にルーツがあるので司馬遷の史記の徐福伝説とやはり一致している。2019年03月18日 | 地球温暖化 せっかく「目標」を達成したのに、

和歌山県新宮市「徐福公園」内にある徳川家康の10男で御三家紀州藩の初代藩主の徳川頼宜が儒臣の李梅溪に命じて書かせた徐福の墓碑銘(顕彰碑)だ言われているもの

蓬莱山と阿須賀神社

熊野川河口の神秘的な山容の蓬莱山に抱かれる阿須賀(あすか)神社

平成28年(2016年)に追加登録された新たな世界遺産

熊野川河口付近の南岸、蓬莱山の麓に鎮座する古社。歴史は古く、社伝によれば紀元前423年の(第5代)孝昭天皇の代(初代神武から10代目ぐらいの天皇は実在が不明の神話時代)に創建されたそうです。秦の始皇帝の命を受け渡来した徐福にもゆかりが深く、徐福一行が上陸したのが阿須賀神社の建立地と伝えられています。悠久の歴史を折り続けるように、境内から弥生時代の竪穴式住居が出土しています。平成28年(2016年)に世界遺産に追加登録されました。(★注、歴史的に本宮大社、那智大社、速玉大社の「熊野三山」より古く、その元になったとされるのが熊野川河口部の蓬莱山をご神体とする「あすか神社」だったと伝承されている)

徐福の宮

徐福は、農耕や捕鯨、造船 、製紙などの技術を伝えたといわれます。阿須賀神社の境内には徐福の宮が祀られています。(新宮市観光協会)

『東方の蓬莱島に向かった紀元前3世紀の徐福の伝承』

秦の始皇帝の時代に、現在の江蘇省連雲港市徐福村出身の方士・徐福が紀元前210年に不老不死の霊薬を求めて中国の東方海上にある蓬莱島に渡ったとされる記述が、有名な中国前漢時代の歴史家司馬遷(紀元前145~紀元前87)の『史記』にあり、日本国内にも徐福上陸地とされる伝承地が(主なものだけでも)20ヶ所もある。(★注、対照的に有名な卑弥呼の方は「八紘一宇の塔」で有名な宮崎県に昭和の終わりごろに新しく卑弥呼神社が創られた程度で古い伝承は一切無い)
司馬遷の『史記』は当時の歴史書として高く評価されているのだが、残念ながら徐福の項目だけは何故か日本の考古学では頭ごなしに『史実ではなく伝説である』として無視され続けてきた。
確かに『不老不死の霊薬』の話は、間違いなく伝説だろう。
しかし何度も反復引用されている歴史書『史記』の記述にある徐福の『東方への大航海』の方は事実である可能性が高い。
胡椒を求めてスペインアンダルシアの港から西周りの大航海でインドに行こうとしてアメリカ大陸に到達したコロンブスの例もある。
司馬遷の史書などの記述では、『秦の始皇帝の時代の紀元前210年、童男女3000人、五穀の種や食料、百工(多くの技術者)を載せた船団が、東方蓬莱の島へ向けて出港した。不老不死の霊薬を求める皇帝の意を受けた徐福が指揮をとる。
しかし、彼の船団は再び戻ることなく平原広沢(広い立派な土地)を得て永住し、徐福は王となった。』とある。

『日本で王になった徐福の伝説』

紀元前3世紀の徐福の東方の蓬莱島へ出帆した時期は、史記を書いた司馬遷が生まれる65年前であり、単なる伝説ではなく実在の徐福が人々に記憶されていた可能性が高い。
それなら史記の『徐福の蓬莱島』は根拠が全くない伝説では無くて、史実に近い『伝承』の類であろう。
当時の日本は弥生中期の吉野ケ里遺跡の時代で、すでに西日本は徐福らと同じような中国大陸から渡来した弥生人が稲作など農耕技術と村落(小規模な国家)を作っていたのであるから各種の技術者を擁した3000人規模の集団移住なら、グループのリーダーが『王』を名乗る資格が十分ある。
3000人もの大きな船団の規模から推定すれば、潮流や風向きに頼る当時の航海術では大船団は途中でバラバラになり徐福たちの到来地が20ヶ所に分散したとしても何の不思議もない。

『秦の始皇帝の全土統一』

春秋戦国時代に遊牧民と接触する位置の中国西方にあって強力な騎馬軍団を擁した秦が紀元前221年に中国全土を制服して初めて統一国家を樹立するが、中国東海岸長江の河口域にある徐福の江蘇省は秦帝国に敗北して国土を奪われた側である。
秦の始皇帝は焚書坑儒など過酷な統治を行った暴君であり、非征服者である徐福らは『不老不死の薬を探す』との都合の良い名目で秦の始皇帝から渡航費用を騙しとって、上手く中国大陸からの脱出に成功した、敗戦国の政治難民だったのかも知れない。
危険が確実に予想される不死の霊薬の探検旅行なら『史記』の記述のように子供や女性を伴うのは不自然であるし、人数も3000人では多すぎる。
家族ぐるみの徐福たち共同体の集団移住(亡命)であった可能性の方が高いでしょう。
秦の始皇帝の時代の紀元前3世紀の徐福ですが、江蘇省から東方の蓬莱国に向かったのですから無事何処かに辿りついたとしたら、その場所は間違いなく琉球列島や九州など日本列島のどこかです。2012年08月22日 | 東アジア共同体 
尖閣、竹島、北方領土 67年経っても戦後処理が出来ない日本の不幸

日本を代表する近現代史の泰斗?毎日新聞の伊藤智永の「建国記念の日」の不思議な不思議な意味不明の弁明???

何か大事なことを必死で「どうか。分かってくれ」と訴えているらしい。(1945年8月9日のソ連赤軍の対日参戦で即座に御前会議開催でポツダム宣言受諾。「無条件降伏」の決定を即座に連合国側に打電したが国民向けには8月15日の「玉音放送」までパニックにならなよう隠していた87年前のソックリさん。腹立たしい「二番煎じ」である)2018年11月18日 | 社会・歴史 日本降伏から5日後の玉音放送

ところが曖昧模糊過ぎて誰も彼も何も絶対に中身が分からない残念な仕組み \(^o^)/

通に読めば1年続くロシア軍ウクライナ侵攻の不思議な騒動に見える

ところが事実そのものでは無くて小さな真実の欠片を真実全体と偽装する手口なので、もっと不思議な3年続く新コロ(SARS-CoV-2)騒動の人為的遺伝子改変かもしれない。もっともっと比較できないほど恐ろしいmRNAワクチン接種の恐怖かも知れません (^_^;) 

平成の日本政・官界を取材してきた伊藤智永専門編集委員が担当するコラム。

土記

2人のジョージ・ケナン=伊藤智永

 <do-ki>

 冷戦期に対ソ連「封じ込め」政策を提唱した米外交官、ジョージ・ケナン(1904~2005)には、同姓同名で誕生日も同じ大叔父がいた。こちらは19世紀末、帝政ロシアの奥地を幾度も探検し、著書や講演が全米で大評判となった著名なジャーナリスト(1845~1924)だ。

 中でも「シベリアと流刑制度」は、広漠たる酷寒の地に監獄を訪ね歩き、反体制政治犯たちの悲惨な境遇と不屈の信条を鮮烈に紹介した不朽のルポである。

 独裁政治を告発し、革命の正当性を訴えた反響は甚大で、探検家はロシア国外へ追放される。

残り764文字(全文1017文字)

ジョージ・ケナンに代わって1950年1月就任直後から、それまでのアメリカの基本戦略の対ソ「封じ込め」政策の大転換を行ったポール・H・ニッツィ

2月11日「建国記念の日」の、奇妙な伊藤智永専門編集委員コラム「土記」

確かにジョージ・ケナンは、対ソ連「封じ込め」政策を提唱した米外交官で間違いではない。コラム「土記」に書いてあることは全てが事実だったが「真実の全て」ではない。ほぼ詐欺か悪質な手品である。

有識者でなくとも日本人なら対ソ「封じ込め」政策は誰でも知っている。ところが、アメリカの対ソ基本戦略は「封じ込め」ではなくて、もっと恐ろしいし過激な「抑止力」である程度は、少しでもアメリカや冷戦時代を知っている知識人なら間違えない。2021年12月18日 | 政治 人類滅亡の核戦争直前 加藤陽子の近代史の扉

1950年までアメリカの基本戦略を担ったジョージ・フロスト・ケナン( George Frost Kennan  1904年 2月16日生まれ)

ジョージ・ケナンは朝鮮戦争前夜の日本で米軍諜報機関が関与したと思われる松川事件や三鷹事件、下山事件など国鉄の三大疑獄事件が連発していた1950年1月で退任している。そして「封じ込め」のケナンの後釜に座ったのが「抑止力」のポール・H・ニッツィで、それなら半年後に勃発して今も終わらない「朝鮮戦争』の開戦前後の顛末に一番関与している(裏を知っている)のがケナンではなく、ポール・ニッツイ(★注、安部晋三首相など与野党の日本の政治家は現在を1945年から続く「敗戦レジーム」だと思っているが、事実は1950年から続く「永遠に終わらない」朝鮮戦争レジームだった。横田や横須賀の駐留米軍は「国連軍」だったのである)

必ず勝つはずの思わぬ「朝鮮戦争」長期化(ソ連の安保理欠席で、国連軍を名のるアメリカ軍の敗走)で最高司令官マッカーサー元帥解任から大統領トルーマンの事実上に引責辞任後、連合国軍欧州総司令官と言う華々しい現職軍人(事実上の制服組トップ)のままで、アメリカ大統領(アメリカ軍最高司令官)に転身したアイゼンハワーの「封じ込め政策」の転換を行った(中国北朝鮮への露骨な核兵器による恫喝による停戦合意)の「影の主役」が抑止論のポール・ニッツイである。

何かと話題になる初代天皇神武(ジョージ・ケナン)伝説。対照的な、誰も知らないふりで胡麻化す徐福(ポール・H・ニッツィの恐怖の伝記)

「封じ込め」とは言葉の通りで、政治経済や文化などソ連との一切の関係を遮断して「封じ込める」(十分に弱体化した時点で攻め込んで滅ぼす)との戦国時代の秀吉が得意とした兵糧攻め政策だった。ところが、それに対して抑止力とは以前の「封じ込め」よりもっと過激でアクティブで、例えるなら自分に敵対する浅井朝倉に味方した比叡山や伊勢長嶋の一向一揆勢を皆殺しにした織田信長の戦略である。ソ連が水爆実験に成功した1955年から後は名称を「抑止力」から「相互確証破壊」と呼び名を変えたが中身は同じだった。(★注、アメリカの抑止力に対抗して北朝鮮が全てを犠牲にして必死でミサイル開発や核武装をするのは今も朝鮮戦争が継続中だから。少しも不思議ではない)

「原因」さえ分かれば「結果」は当然。少しも不思議では無かった

敵対する相手国の都市や産業基盤を全て核兵器で根こそぎ破壊して、世界帝国アメリカに抵抗する意思を全て排除するとの「恐怖の戦略」だったのである。(★注、「封じこめ」やジョージ・ケナンは有名でマスコミが取り上げる。ところが、抑止論もポール・ニッツイも誰も彼も同じでマスコミ有識者は一人の例外も無く「語らない」のは当然だった。あまりにも「怖すぎる」のである)2009年07月12日 | 軍事、外交 相互確証破壊と日本の核の傘

スティーブ・マックイーン[22997000874]| 写真素材・ストックフォト・画像・イラスト素材|アマナイメージズ

「昔は良かったなー」の代表例の西部劇(ウエスタン)

ベトナム戦争華やかなりしころ1960年代の日本国のお茶の間のテレビでは今では想像さえ出来ないが西部劇と言うハリウッド製本格的映画が連日放映されていた。ジョン・ウェイン(John Wayne) クリント・イーストウッド(Clint Eastwood) ゲイリー・クーパー(Gary Cooper)ヘンリー・フォンダ(Henry Fonda)バート・ランカスター(Burt Lancaster)カーク・ダグラス(Kirk Douglas)グレゴリー・ペック(Gregory Peck)スティーブ・マックイーン(Terence Steven “Steve” McQueen)などハリウッドのスーパースターが無料で見放題。毎週テレビ画面では西部劇の連載ドラマが連日見られた。ところが、現在は180度逆転。何故か今では絶対に再放送もされないタブー中のタブーになっていた。

本当は怖いアメリカ製ウエスタンとフロンティアスピリッツ

日本の高度成長前期の日本製は予算が無く全てが超粗悪品だった。対して絶頂期のアメリカ製は絢爛豪華、本物のスーパースターを使って予算をかけ放題で本格的に本場ハリウッドやネバダ砂漠で制作されたのですから素晴らしい出来上がりだったのである。その後すべての西部劇が何故か放送禁止になって仕舞い、今では誰も見ることが出来ない(★注、1992年アメリカ合衆国・ルイジアナ州バトンルージュ市でうっかり道を間違た日本人高校生が「フリーズ」と言われたのに「止まらなかった」として射殺されたが地元の裁判では全会一致で「正当防衛だ」と無罪になるが、たぶん44マグナムで殺された日本人留学生16歳はアメリカのハリウッド製ウエスタン映画を一度も見たことが無かったのである)

「もったいない」

たったの半世紀程度前には一世を風靡したウエスタン映画(西部劇)が全ての公的なメディアから、現在は一切消えてしまった不思議の原因とは、当時の西部劇で描かれていたアメリカ的正義や道徳、民主主義とか人道主義、フロンティアスピリッツ(開拓者魂)などの美しい「表看板」(スローガン)の後ろにある(もちろん不毛の居留地に押し込める「封じ込め」も恐ろしいが、邪魔なインデアンを皆殺しにする)アメリカの国是となっていた(ポールニッツイの)「抑止力」が時間の経過とともにだんだんと人々に分かってきたからなのです。なんとも恐ろしい話だが今でもイスラエルでパレスチナ人に対しては西部劇が実地で演じられていたとの不真面目なオチ。
もはや反撃する力がない日本に対するB29戦略爆撃機による無差別絨毯爆撃とか広島長崎への原爆投下などが、半世紀前に西部劇で演じられたアメリカの「抑止力」の代表例であると分かれば、今の日本人でも分かり易い。日本の時代劇は今も昔も徹底的にフィクションで現実性に乏しい代物だが、対して当時のアメリカのハリウッドで大金をはたいて一流の映画人が全力で制作した西部劇は大部分がファンタジーでも一部にはノンフィクション(生々しい現実)が反映されていたのである。(★注、「歩く迷惑」のような私の父親はケネディ暗殺までアメリカ製西部劇を嫌っていたが1963年から君子豹変「真実の米社会が分かる」とテレビの西部劇を熱心に見ていた)

正誤や善悪がたった半世紀で正反対に逆転するアメリカンドリーム

もちろん21世紀に入ってもアメリカの「抑止力」戦略は少しも終わらず9・11事件を利用したアフガン戦争やイラク戦争。(関係者なら誰一人の例外も無く必ず失敗すると分かっている無理筋のアフガン侵攻では「従わねば、石器時代に戻す」と渋るパキスタンのムシャラフ大統領を恫喝して屈服させている)
2011年「アラブの春」では全面的に大量破壊兵器を廃棄したリビアのカダフィは米軍傭兵組織ISISイスラム国を使って「なぶり殺し」にする。アメリカの「抑止力」がキューバやベネズエラ、シリア、中国、北朝鮮、ロシアに対しては延々と飽きることなく続いていた。だから、アメリカの基本戦略「抑止力」があまりにも恐ろしいので今のマスコミ有識者の全員が見ざる聞かざる言わざる「知らぬ。存ぜぬ」で押し通すが、これは「存在脅威管理理論」だと思えば納得する。(★注、もちろん「知らない」のではなくて有識者の全員が熟知しているから余計に一人の例外も無く全員が「黙っている」だけだった。これは「消えた弾丸」安倍殺し後に反日カルト組織の「統一協会」の話を一斉に喋り出した唐突なマスコミの大変身と同じ仕組み)

『壮大な虚構だったアメリカン・ドリーム』

そもそも『夢』とは今のように『希望』や『願望』等と合体してポジティブな意味を獲得したのは極最近の話で、夢はあの世のメッセージをこの世に伝える『霊的で恐ろしい現象』で本来ネガティブなものだった。普段見る夢は決して『素晴らしい夢』なんかではない。経験している事実は正反対である。

私が小学生の低学年だった大昔の話ですが何回も何回も裸の赤ん坊が空を飛ぶという意味不明の恐ろしい夢に悩まされていたが中学生になって夢の原因が幼いときに見たキリスト教系の幻灯画だったことを思い出して、やっと長年の悪夢から解放されたのです。
思い出そうとしても『素晴らしい夢』なんて見た記憶が無い。
楽しい話は夢では完結することは無い。美味しそうな料理が出ても普通は絶対に夢の中では食べれない。
楽しい夢というのは本当は少ない例外である。
普通の夢は、最初から奇妙な出来事の連続で夢の中では不安に慄き、恐怖に身をすくませ夢がひたすら早く終わることを願っている。

この『夢』の意味をコペルニクス的に180度ハッピーに転換させた張本人がアメリカ文化である。
『アメリカン・ドリーム』という言葉があるようにアメリカは人類にとって禍々しい『不幸の印』で『実現しない』ことが確実な『夢』を、『願望』(欲望)と合体させることで、正反対に『夢が実現して幸福になる』と大宣伝した。
アメリカは世界一の情報宣伝力を使って、本来禍々しい『夢』を、鮮やかに『希望』に向かって一直線にひた走るハッピーでポジティブな言葉に変えたのである。
しかしどれ程美しい夢でも、やはり夢は夢に過ぎず何時かは覚める時が来る。

そもそも悪魔の碾き臼である新自由主義全盛の今とは違い、以前の社会では無限に膨らむ危険性がある人間の欲望を『如何にして抑制するか』が宗教や哲学の大事な役割だと思われていたのですよ。
ところが現代資本主義(新自由主義)は人々の欲望(希望+夢)を最大限解放してしまう。
しかし、(アメリカの「力の衰え」と共に)今『夢』は本来の意味である禍々しい不可解で恐ろしい悪夢に逆戻りしつつあるのです。2011年10月15日 | 政治 
鉢呂大臣「死の町」辞任劇、アメリカンドリームが悪夢に変る時


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3 コメント

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太陰暦のマジック日本とイランの記念日重なり (ローレライ)
2023-02-14 11:20:16
旧暦の太陰暦のマジックで重なる日本とイランの記念日設定の思考法!
返信する
Unknown (ローレライ)
2023-02-14 12:31:06
抑止力の行使がナチスのホロコーストと変わらない,抑止力の実態!
返信する
Unknown (ローレライ)
2023-02-16 10:24:36
日本の建国記念日とイランの革命記念日が重なるのは太陰暦に基づき過去の吉日に神武天皇即位紀元の設定した日と未来の吉祥日に革命のスケジュール管理した日が重なった訳である。日本の敗戦日とタリバンのカブール解放日にも当てはまる!
返信する

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