逝きし世の面影

政治、経済、社会、宗教などを脈絡無く語る

一流の小説家は新聞記者と同じ仕事をしていた 

2015年05月08日 | 社会
『正しい綿密なリサーチ(調査、情報収集)こそ作品の命』

日本で一番ノーベル文学賞に近い作家として知られる村上春樹ですが、4月27日にインタビューに応じて毎日新聞紙上で語っているのですが、世界的な一流の流行作家の眼力は鋭い。
色々な話題に対して答えているのですが、村上ワールドが個人の脳内での自由気ままな創作物と言うよりも、綿密で正確な並外れたリサーチ力の賜物である事実が浮かび上がる。
作家が一つの小説を書く前には、新聞記事を書く記者と同じで作品に関連する情報収集が必須要件だった。リサーチに膨大な量の時間と労力を費やしていたのである。
良い作家とは、良い新聞記者と同じ種類の仕事をしていたのである。
二つの『違い』とは、作家は自分の作品を『フィクション』であるとして世に出すが、新聞記者は『フィクションではない』と世間に喧伝する程度の些細な違い(中身の『内容の違い』では無くて、外側の『包装紙の違い』)なのです。
ただし新聞社の場合には『何を書いたか』との個々の記者の記事よりも、『何を掲載するか』、『何を載せないか』(隠蔽するか)の編集局独自の取捨選択の判断とか、何が大事で何が些細かとの優先順位の方針『価値観』が全ての問題に優先する。(その意味では記者よりも編集部のほう1万倍は大事)
新聞でもテレビでも同じでマスコミの報道枠には最初から限界があり、現実問題としてもニュースの全部は掲載出来ない。
今の近代社会ではどれ程重要な大問題でもマスコミが報道しない限り、自動的に『なかったことになる』のである。

『記者の仕事は小説家と同じだった』

多くの善良な日本人が誤解しているのだが、既存の新聞の記者(いわゆるジャーナリスト)と一匹狼のフリージャーナリストとは別の役割を持っていて、別々のカテゴリーに分類される。
田中龍作ジャーナルを読めば明らかなように、大手新聞や記者クラブに対する激しい怒りは、もはや隠しようの無いレベルになっている。
フリージャーナリストの田中龍作は多分自分が事実を正しく正確に伝えるルポライターに徹しようと努力している。あるいは物事を正しく客観的に解説しようとしている。だから記者クラブからは相手にされず頭から馬鹿にされるのである。
(この田中龍作の根本的な勘違いですが、困ったことに日本では普通の一般市民も全員が同じ勘違いをしている)
致命的な勘違いの原因ですが、新聞記者というのは取材によって事実を集めて、それをもとに記事を書くのではない。(それは田中龍作の様なルポライターの仕事である)
そもそも商業新聞の記者の仕事に一番近いのは小説家であり、記者がある事件について記事を書くということは、司馬遼太郎が桶狭間の戦いについて生き生きと描写するのと同種の仕事(創作活動)だったのである。
あえて明確な新聞記者と小説家の違いを上げれば、
記者の方は取材した『出来事』を読者が注目するように出来る限り誇張して記事として書く。ところが、小説家はリアル感を出すために多少抑え目にして書く程度。
STAP騒動で科学論文の著作権云々がマスコミで議論されていたが勘違いも甚だしい。客観的な正しい科学的事実とは常に普遍的であり誰が書いても100%同一になる。(普遍的事実と少しでも違っている場合には、それは自動的に『間違い』であると証明される)
昨今新聞記事での著作権云々(コピペ)が大問題となっているが、これは新聞記事が『記者の創作物である』から著作権が発生するのである。(科学法則や客観的事実は常に普遍的であり同一。他と『違い』が無ければ著作権の主張は無理)
全て同一であるべき普遍的真実と、他との違いこそ命である著作権とは、原理的に二つ同時には絶対に成り立たないのである。
新聞記事の著作権ですが、これは表現を変えれば新聞社自身が、自分で『客観的事実とは無関係で、新聞記事は小説と同じ』と言っているのであリ、これは『真実を報じている』との建前の報道機関として自殺行為なのである。

『村上春樹さん:時代と歴史と物語を語る みんな一生懸命生きている』2015年04月27日毎日新聞(抜粋、要約)

今や世界を代表する作家となった村上春樹が読者とのメール応答サイト『村上さんのところ』を開設。質問は締め切られたが、4万通近いメールへの返信に日々取り組んでいる。
その合間を縫ってインタビューに応じた。地下鉄サリン事件20年やテロリズム、東アジアの国々との関係、原発問題、自作の世界について。時代と歴史と物語をめぐって、話は展開した。
◇核発電所
Q,【聞き手は共同通信編集委員・小山鉄郎】
−−村上さんは1997年刊行のエッセー本で「原子力発電に代わる安全でクリーンな新しいエネルギー源を開発実現化すること」について既に書いている。「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」(1985年)などの作品に出てくる発電所も風力発電です。
A,村上春樹 
『地震も火山もないドイツで原発を撤廃することが決まっているわけです。
危険だからという理由で。原発が効率的でいいなんて、ドイツ人は誰も言っていません。』
Q, −−読者との交流サイトで「原子力発電所」ではなく「核発電所」と呼ぼうと提案していますね。
A, 村上春樹 
『「ニュークリアプラント(nuclear plant)」は本来「原子力発電所」ではなく「核発電所」です。
ニュークリア=核だから。原子力はアトミックパワー(atomic power)です。
核が核爆弾を連想させ、原子力が平和利用を連想させるので「原子力発電所」と言いかえているのでしょう。
今後はちゃんと「核発電所」「核発」と呼んだらどうかというのが僕からの提案です。

村上春樹氏はインタビューで、地下鉄サリン事件から20年にあたり、オウム真理教事件に関連して『約束された場所で』や『アンダーグラウンド』ではオウム真理教の多数の元信者を取材して、マスコミが面白おかしく大宣伝した1999年に地球は滅びるとの『ノストラダムスの予言』や『スプーン曲げ』に代表される超能力信仰の関連性を論じている。
『被害者たちは、みんな物語を持っている・・・それらが集まるとすごい説得力を持ってくる。でもオウム真理教の人の語る物語は、本当の自分の物語というよりは、借り物っぽい、深みを欠いた物語であることが多い。』
◇善と悪、瞬時に動く時代
Q, −−村上春樹作品が欧米に初めて紹介されたのは1989年の『羊をめぐる冒険』の米国訳。
この年、ベルリンの壁が崩壊、日本も昭和から平成に変わった。その後の世界の変化は予想を超えるものでした。
A,村上春樹 
『先日「アルジェの戦い」という1960年代に作られた映画を久しぶりに見ました。この映画では植民地の宗主国フランスは悪で、独立のために闘うアルジェリアの人たちは善です。
僕らはこの映画に喝采を送りました。
でも今、これを見ると、行われていること自体は、現在起きているテロとほとんど同じなんですよね。
それに気づくと、ずいぶん複雑な気持ちになります。
60年代は反植民地闘争は善でした。
その価値観で映画を見ているから、その行為に納得できるのです。
でも今、善と悪が瞬時にして動いてしまう善悪不分明の時代に、この映画を見るととても混乱してしまう。』
Q,−−「この世には絶対的な善もなければ、絶対的な悪もない」「善悪とは静止し固定されたものではなく、常に場所や立場を入れ替え続けるものだ」。「1Q84」に善悪をめぐるそんな会話があります。動き続ける善悪の世界が描かれるのは村上作品の特徴ですね。
A、 村上春樹 
『今いちばん問題になっているのは、国境線が無くなってきていることです。テロリズムという、国境を越えた総合生命体みたいなものが出来てしまっている。これは西欧的なロジックと戦略では解決のつかない問題です。「テロリスト国家」をつぶすんだと言って、それを力でつぶしたところで、テロリストが拡散するだけです。
僕はイラク戦争のときにアメリカに住んでいたんですが、とくにメディアの論調の浅さに愕然(がくぜん)としました。
「アメリカの正義」の危うさというか。』
『長い目で見て、欧米に今起きているのは、そのロジックの消滅、拡散、メルトダウンです。それはベルリンの壁が壊れたころから始まっている。』

世界的に流行する人気作家の村上春樹ですが、
『ニュークリアプラント(nuclear plant)」は本来「原子力発電所」ではなく「核発電所」です。ニュークリア=核だから。原子力はアトミックパワー(atomic power)です』との指摘は秀逸であり物事の核心部分を正確に突いている。
他の部分でも矢張り正確に理解しているようなのだが、世間受けを狙ったモノ書きの悲しさで、今ひとつ歯切れが悪い。ものごとの正誤や善悪について知っているのだが断定するまでには至らず躊躇している様は歯がゆいと言うか情けないと言うか。もう少し一般大衆にも分かるようにはっきりと書けばもっと人気が出るのにもったいない。(あるいはメジャーなマスコミから完全に閉め出されるか、それとも性犯罪など破廉恥罪で逮捕されるか、何れにしろ主要マスコミから抹殺される)

『新聞記者はえらい、という話』(記者の仕事は小説家と同じだった)June 29, 2006 H-Yamaguchi.net 

目からウロコの落ちる瞬間、というのはうれしいものだ。今日もまた新しい「大発見」をして、ちょっと興奮ぎみなので、あまり時間はないが手短に書いてみる。たぶん、皆さんには先刻ご承知のことなんだろうが、私には新しい、そして大きな発見だった。

新聞記者はなぜえらいのか、についてだ。

新聞記者がえらい、という点について、疑問をもつ方はそう多くないのではないかと思う。新聞記者はえらい。えらくなければ旗を立てた黒塗りの車でどこへでも乗り付けたりできるわけないし、記者会見という公の場で人をつるし上げ、なんて大それたこともできようはずがない。もちろん全員がそういう人ではないのは重々承知した上で書いているのだが、「この人はえらい」と考えるしか納得のしようがない人、というのは確実に、それもけっこうたくさんいるように思われる。

私がわからなかったのは、それがなぜか、ということだ。なんでこんなにえらそうにふるまえるんだろう、と。その長年のなぞが今日、一気に氷解したのだ。こんなうれしいことはめったにない。

なぞを解いてくれたのは、某大手新聞社の現役役員の方。私はその方に、「新聞記者というのはなぜ予断をもって記事を書こうとするんでしょうか」と質問したのだった。個人的に新聞記者の方に取材らしきものをされたことが何回かあって、そのうち全部ではないが一部の方がそうだったような記憶がある。新聞記者は取材テーマについて必ずしも専門家であるとは限らない。むしろ専門家ではないからこそ取材に来るわけだが、それでも、書こうとする記事について、あらかじめ結論までの明確なイメージをもってやってくることがある。そういうケースを念頭において、なぜなんでしょうかと聞いたわけだ。

役員氏の答えは明快だった。記者というのはそういうものだと。あらかじめ何を書きたいかは決まっていて、それに添わなければあなたが何時間しゃべろうとも記事には反映されないのだ、と。

あまりのあっけなさに、一瞬ぽかんと口をあけてしまったのだが、考え直して、そうかそうだったんだ!と納得した。いやそうかそんなに簡単なことだったのか。

つまりだ。私は、とんでもない思い違いをしていたのだった。

私は、新聞記者というのは取材によって事実を集めて、それをもとに記事を書くのだとばかり思っていた。それが大きなまちがいだったわけだ。役員氏のいうところを斟酌すれば、新聞記者が書くのは事実ではなく、解釈された事実でもなく、その記者自身の主張なのだ。書かれるべき内容の主要部分は取材対象にではなく、記者自身の脳内にある。記者が取材に行くのは、事実を積み重ねるためではなく、自己の主張に沿った情報をネタとして仕入れるためだったのだ。

これで、新聞記者がなぜえらいかがわかってくる。新聞記者の仕事というのは、事実を伝えるルポライターの仕事とも、事実を解釈する学者の仕事ともちがう。より近いのは、小説家だ。新聞記者がある事件について記事を書くということは、いってみれば、司馬遼太郎が桶狭間の戦いについて生き生きと描写するのと同種の仕事、ということだ。

つまり、「先生」なのだ、彼らは。アーティストなのだ、その意味で。だからえらいのだ。

この理屈なら、なぜ新聞で署名記事が尊ばれるかもわかる。署名のない記事を書いている記者は、つまりはゴーストライターのような立場なのだ。早く自分の名前の入った記事を書きたい。そう記者の皆さんが思うのも当然だろう。小説家なら、自分の名の入った作品を残さずしてなんとする。めざせ論説委員!というわけだ。

そういえば、同じ場で、新聞社の元役員だった別の方が、「メディアとは『真ん中』。取材対象と読者との間に立って情報を伝えるのが役割」と説明していたっけ。その定義からすると、新聞はメディアではないということになるんだが、まあそんな細かいことはどうでもいいや。なにせえらいんだから。メディアであるかどうかなんてことより、自らの「作品」を残すことのほうがはるかに大事なことのはずだ。

日本新聞協会のサイトにある「新聞倫理綱領」というのをみると「報道は正確かつ公正でなければならず、記者個人の立場や信条に左右されてはならない。」なんて書いてあるが、まあ問題ないんだろう。なにせえらいんだから。たとえ100%記者の脳内から生まれたとしても、それは個人の立場や信条に左右されているのではなく、客観的な論述になっている、はずだ。

いやほんと、わかるってのは気持ちがいい。
…あれ?じゃあいったいなんで取材なんてものをするんだ?取材って本当に必要なのか?

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2 コメント

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アイロニーに満ちたこの世界に乾杯 (海坊主)
2015-05-08 22:16:53
今回も記事も秀逸でした。大変面白く拝読致しました。

新聞記者が小説家と同類である……、だとしたら、彼らは自分達の意見と論点を持っていて然るべきです。現実を題材に世間に訴えたいことがあるのなら、何故どの大手新聞もこんなにも体制翼賛的で金太郎飴的なのでしょう? 

独自の視点を持つ地方新聞があることは存じていますが、より多くの題材に迫る事が出来る大手新聞のエリート記者ならば、もっと独創的で社会に問いかける記事を書けるでしょうに。

そんな新聞記者たちが現実を、真実を書き綴る無名のルポライターよりも上位にいるとは断じて考えられません。それは現実に、真実に対する冒涜であり、読者である我々に対する嘲笑にほかなりません。

ジャーナリストで作家でもあったジョージ・オーウェルもこう言っているでしょう。「虚偽がまかり通る時代には、真実を語ることは革命的行為である」、と。せっかく署名記事を書くのなら、名が残るようなことを成しなされ。

いや、待てよ。「自由とは服従である」、だったけな……
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ユリウス・カエサル・シーザー (宗純)
2015-05-10 15:24:01
海坊主さん、コメント有難う御座います。

カエサルが、
『人間ならば誰にでも、現実のすべてが見えるわけではない。 多くの人は、見たいと欲する現実しか見ていない。』
との名言を残しているが、人は聞きたいことしか聞かない。
見たいものしか見ない。
カエサルは、『人々はほっするところのものを、喜んで信じる。』とも言っているが、人は望んでいることしか信じない傾向がある。
『人は、望んでいることを喜んで信じる』のですよ。
地獄を見ないと人間なかなか賢くはなれないし、一度地獄を見て少し賢くなっても時間が経てば元の状態に戻るのです。
70年前には国家とか権威有る人々が真っ赤な嘘を垂れ流すのを目撃している。
同じことを4年前のフクシマでも見て再確認しているはずなのですが、喉もと過ぎれば暑さ忘れるの例えのとおりで元の木阿弥。
情け無い。
カエサルの言葉から推察すれば、4年前のフクシマでも70年前でも同じで、マスコミの有識者や国家が嘘をついたと言うよりも、人々は美しい安心の方を薄々嘘だと思っていたのだが信じていたのですよ。あるいは嘘を真実だと誤魔化したい。『信じたい』と思ってるのです。丸っきり薬物中毒を同じ状態です。これでは助からないでしょう。
オスプレイを日本が購入するとか、米軍が横田基地に配備する計画だとか、
目的は災害救助となっているが、ネパール大地震で派遣されたオスプレイはまったく役に立たないことが証明されてしまう。
それなら何の目的で嫌われ者のオスプレイを無理やり日本に配備するのかの謎ですが、ヘリコブターとは大違いで足が長いのです。3・11のトモダチ作戦の原子力空母のロナルドレーガンが100キロの距離でj被曝する。
オスプレイなら倍以上原発との距離を取れるのです。多分フクシマが危険が予測されるのです。
空母の利用方法ですが、日本では攻撃用だと思っているようだが、ベトナム戦争の敗北時には脱出用に最大限利用されています。
勝ち戦では無くて、負戦のしんがりを空母が担っているのですが、その重要なアイテムこそオスプレイなのでしょう。
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