逝きし世の面影

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自民党大敗北の総選挙『平成維新?か、革命か?』

2009年09月01日 | 政治
『自民党とは何か?』

総選挙の大敗で今後の自民党はどうなるのか。
中曽根康弘の『自民党は150議席以下では再生出来ない』との不吉は予言?は的中し、到底今までどうりではいられないだろう。
何故なら自民党は欧米型の(社共のように)政治理念や主義主張によって結党されている政党ではなく基本的に個人個人、一人一人、誰でもが持っている『欲望』とか『情念』、これまでの様々な『情実』や言うに言われぬしがらみ(地縁血縁)によって寄り集まっている集団であり、厳密な意味では政治結社としての『政党』とは言い辛い。
自民党の持っている唯一の理念は『与党を続ける』ことであり、国家機構(官僚組織)と個人個人の要求(欲望)を仲介すること(自民党議員がいつも自慢している、いわゆる中央との太いパイプ)に最大の存在価値が有る不思議な集団である。



『馬糞の川流れ』

自民党の唯一の結束点は『政権』それ自体であり、与党として政権維持が最大の目標だった政党なので、『野党の自民党』はそもそも在り得ず、その存在の意義がない。
細川時代の10ヶ月程度の短さなら辛抱出来るが4年後の任期切れ総選挙までの長さなら『野党自民党』では辛抱出来るはずも無く、組織が持たないでしょう。
自民党は一応最初は一つに纏まっているが、時間が経てばバラバラに分裂するしかない。
自民党議員の中で、有る程度実力のある政治家なら『野党自民党』ではなく政権与党の民主党に入党してしまう。
民主に行けずに自民に残留するのは森元総理や武部、酔いどれの中川や足元がふらつく与謝野や兵器マニアの軍事オタク石破など、どこも引き取り手のない欠陥品ばかり。
次期自民党総裁の最有力と言われていた政界ネズミ男枡添厚生労働相や8党を渡り歩いた政界渡り鳥小池百合子は早々に総裁選に不出馬を宣言し勝ち馬(民主)に乗る準備に余念がない。
これでは2年前の福田総理小沢副総理で内々に手打ちしていた大連立話と同じで、実質的には『自民と民主の大連立』になり、結果自民党は消滅するしかない。



『与党でしかいられない公明党』

野党の『自民党』が在り得ない以上に、在り得ない存在が『野党の公明党』であろう。
公明党創価学会が権力志向(与党)なのは自民党以上で、地方自治体では結党当時からの伝統で、何十年も其の時々の風を読み勝ち馬に乗って与党になっていた。
1970年代、創価学会公明党の信者の多い大都市圏では社会党共産党の革新勢力が強く、そのために(与党入りする為に)当時の公明党は今では到底信じられないが(政策や政治信念はどうでも良く)『日米安保条約反対』とまで表明していた(現在の社民党以上に左翼的なポーズだった)時期もあったのです。
地方自治体(大都市)では何十年も前から、中央の国政でも10年前から与党として活動してきて、今更野等には絶対に戻る気はない。
自民党惨敗後は、田中角栄時代からの昔からの太いパイプが有る小沢一郎に恥も外聞も無く泣き付いて、何としても与党入りする心算でしょう。
さて。与党時代に数々の悪事を働いている破壊的カルト集団で有る創価学会公明党を与党内に『入れるか入れないか』、民主党のこれからの対応が見ものである。



『やっぱり保守二大政党にはならない』

個人主義の理念優先で対決を恐れず徹底的な討論を好む討論型の『政党政治』を基本とする欧米型の二大政党制は、日本には定着しない。
結局日本的な話し合い(談合)馴れ合い型の共同体志向で日本は長年にわたって動いてきた。
そして相変わらず理論ではなく情念優先型の、旧らいの自民党型擬似政党である民主党が今回大勝する。
理論的に白黒をはっきり断定せず、あえて曖昧にして大勢順応型で時流に便乗する日本では『二極並立』(二大政党制)にはならず、結局一極(一党集中)にしかならないので、幾等マスコミが煽動しても欧米型の二大政党制は根付かない。
日本で二大政党だった時代は80年前の1930年代の僅かな間だけで、それ以外は一極集中で、戦後の長い間二大政党ではなく自民党VS社会党の1党対0・5党体制が長年続いていたが、小選挙区制でもやっぱり現在の様に1対0・5党制(一極集中)に自動的になる。



『踊らない日本人』

今回の総選挙で戦後一貫して政治の実権を握っていた自民党大敗北(自民党解体)は矢張り革命的な出来事ですが、外国の報道が実に面白い。
曰く、政権交代だからといって『日本人は踊っていない』
『大勢が酔っぱらって大声で合唱することもないし、裸になって皇居のお堀に飛び込むなんてこともなかった』
欧米とは大違いである。
戦後64年で初めての野党民主党の歴史的大勝利にたいしては、21年ぶりの阪神タイガース優勝よりも、市民はいたってクールである。
そういえば140年前の明治維新も一般庶民はそれ程関心は無かった様で、革命騒ぎより伊勢参り(お陰参り)の方が熱狂していた。



『自民党が善戦した西日本、全滅した東日本』

民主党が完勝した県は愛知、静岡、山梨。長野。新潟など。南関東の東京、埼玉、神奈川、千葉、近畿の京都、大阪、奈良など、徳川幕府ゆかりの東日本地域や幕府直轄地で圧勝する。
かっての自民党完勝の保守王国和歌山で残った自民党議員は『落ちれば責任を取って死ぬ』と支持者に断言していた、紀伊半島の過疎地帯に超豪華な高速道(二階道路)を造って全国的にも有名になった自民党屈指の実力者二階俊博ただ一人。
因みに二階派現職議員12人のうちで生還(当選)できたのは二階代表ただ一人だった。

対して、自民党が善戦した県は鳥取、島根、山口、高知、福岡、鹿児島 など薩長連合の県が中心で西日本地域が主であった。



『薩摩、長州、土佐』

140年前には薩摩長州土佐の西国列藩が既成の幕府権力を倒し、新潟や東北の諸藩がこの動きに最期まで抵抗(徳川に義理立て?)して結果的に酷い目にあっているが、これらの例は日本の歴史では島原の乱と同じで例外的な行為であろう。
戊辰戦争の例とは正反対に、其の他の日本人は基本的に勝っている方に味方する。
豊臣秀頼の大阪方に味方したのは真田幸村など今風に言えばリストラで職を失った失業者ばかりで、豊臣方が期待した多くの豊臣恩顧の大名達の中で今までの義理や人情、道義に従って劣勢な大阪方に味方する者は唯の一人も出なかった。
負けても最早何も失うものがないニートの真田幸村とは違い、それ以外の正規雇用の武将達は、全て先を争って勝ち馬に乗ろうとした。

徳川譜代の桑名藩は鳥羽伏見の戦いで幕府勢が劣勢になった途端に、今までの態度を180度ひるがえして敗走する幕府軍の伏見城入城を拒み勝っている方(新政府)に味方した。
攘夷の急先鋒薩摩藩も幕末に徳川政権の有力な後ろ盾だったが、薩英戦争以後に幕府を見限って勝ちそうな長州と同盟して勝ち馬に乗りたがる
今回、負けた自民党(幕府)に味方した薩摩長州土佐の人々の殆んどが、日本の古くからの伝統にしたがって今後間違いなく雪崩をうって『負けた自民党』から『勝った民主党』支持に鞍替えするはずです。





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