中学編から引き続き、
中学の時に文集に書いた夢!
法政大学
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富士フィルム
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全日本
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オリンピック金メダル
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(ちなみに小学校の時の夢は、床屋さんになることでした
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)
まー、野球少年がプロ野球選手
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サッカー少年がW杯
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を目指すような、ごくごく普通の夢物語で、僕の中学時代はバレーボールでは、これが王道ではなかったでしょうか?
あれっ
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高校は・・・
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そうなんです。中学の時、先の夢を見すぎて高校のことは全く考えてませんでした。
当時はバレーボールでの推薦入学制度も、どうすれば強豪大学のバレー部に入れるかも全く知りませんでした。基本的に、バレーのエリートコースに乗るには、県大会で優勝して、全国大会に出て行くような高校に行っていないと駄目ですよねー
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(今でも突っ込まれる、「志は高いのに、何も知らないんだから・・・
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」この時からだったとは・・・今気づきました
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)
そんなことはいざ知らず、家庭の環境や親の教育もあり、進学先は自然に決まってました。三群 or ○○▲専のどちらか?。(三群というのは2つの高校から構成されていて、合格すると勝手にどちらかに振り分けられる制度で、今思えば理不尽な制度かもしれませんが、当時は当たり前だと思ってました。)
僕としては当然バレーボールをやる気満々だったので、バレーボールを一生懸命やれる環境がなければ、一層の事、○○▲専に行き、バイクレーサーを目指そうかと思ってました。
しかーし、神様は僕にバレーボールをやりなさいと、背中を後押ししてくれました!
運良く希望していた方の学校に入学が決まり、僕の高校バレー生活が始まったわけです。
僕の母校は文武両道を掲げた、自由な校風がとても良かったと思います。
バレーボール部は、過去には東海大会にも出場したこともあり、県大会では優勝こそしてなかったと思いますが、常に3位~ベスト8には入ってました。
勉強でも旧帝国大学、有名私立大学などに進学し、文武両道を達成出来ていたと思います。
(ちなみに僕達の代は、京都、筑波、早稲田、立命館、大工大
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など。)
さて、僕が入学した時(上の写真の時代)は一年生が12人、2年生が7人、3年生が10人、マネージャーさんが8人、計37人が所属していました。公立進学校のクラブとしては大世帯でした。
この時代は同地区の工業高校が県大会でベスト4に入る実力があり、地区でのシード権がなかなか取れなかった記憶があります。実力的には県ベスト4くらいはあったと思います。本当に偉大な先輩方でした
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僕はこの時代ではまだ12人にも入っていませんでした。たまーに、紅白戦でBチームに入れてもらえるのが楽しみでした
そして、次の世代!僕が2年生の時です。
色々あってレギュラーになることが出来ました。ちなみにポジションはライトでした。
下の写真はちょうど今頃?新人戦の県大会準決勝です。相手は強豪!松○工業!
スパイクを打ってるのは僕!このスパイクはワンチを取って決まりました。
嬉しかったので覚えてます
この時、まさか相手チームの中に、15年後に一緒に国体に出場することになるパートナーがいるなんて、思ってもいなかったです。
あっ、もちろんtomoさんのことは良く知ってましたよ!カットの名手で、とても巧い選手でしたから!
(その当時は恐れ多くて声すらかけれませんでしたが・・・。)
この試合は長年お世話になった監督の先生が退職される最後の年ということで、みんな先生の最後を優勝で飾ろうと、気合が入っていました!
しかしながら、先輩の両エースの活躍によって善戦したものの、常勝!松○工業には敵わず0-2で負け、3位決定戦に回りました。
3位決定戦では、何とか入賞して、先生を送り出したいというみんなの気持が一つになり、準決勝に引き続き、両エースの大車輪の活躍で見事勝利!
この時代、県ベスト4には選手を推薦入学で獲得できる工業高校が常連でしたが、久々に公立進学校が3位に輝きました!
残念ながら、現在と異なり、この新人戦は県大会までだったので、東海大会には進むことは出来ませんでした
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でも、僕の高校時代の一番の思い出となる大会でした!
そして、僕たちの時代!
僕は今まで中学ではレフト、先代ではライトとアタッカー以外はやったことがなかったのですが、身長の伸びが止まりつつあり、大学でこの身長では通用しないと思い、セッターに転向しました。
僕たちの時代は地区大会こそ、最初の新人戦以外は全て優勝していましたが、県大会ではベスト8までしか進むことは出来ませんでした。この頃、バレーボール人気も低下しつつあり、部員も全盛期の3分の2くらいになっていたと思います。
この時代での思い出の一つに、面白いことを試みた大会があります。
上記の通り、僕たちの高校は一箇所を受験し、勝手に2校に振り分けられます。そこで、もし、2校に振り分けられたチームが一つだったら、どうなったのか?それを試してみました!
その大会が、以前にブログに書いた
伊勢市民大会!
1・2年生の時は単独チームで出ていましたが、3年生の時は高校最後の記念にと、有志の合同チームで三群として参戦しました!
(現チームメイトもいます
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この時はこの中からVリーグで活躍する選手が育とうとは、誰も思ってなかったでしょう。今となっては郷土の自慢ですが
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)
夏の総体で引退し数ヵ月が経ち、急造チームということもあったので、満足な結果は得られませんでしたが、良い思い出になりました!
もし、このメンバーが一緒の高校で、ずっと練習をすることが出来ていたら、東海大会も夢ではなかったかもしれません。
まー、思いではこれくらいにして、高校時代は本当にバレーに明け暮れました。
平日は放課後の練習が終わると、ロマンの森(裏山の名前)を走り、坂ダッシュ、階段ダッシュ!
試合前になると20時過ぎまで体育館で練習していても、用務員のおじさんは暗黙の了解で見逃してくれてました。
盆・正以外はほとんど練習し、テスト期間になり体育館が使用禁止になると、仲間達の出身中学校に練習をさせてもらいに出歩いてました。多分、勉強よりもバレーをしてる時間の方が長かったかも?
僕たちの学校は、伝統的に練習日や練習メニューなどは全部自分たちで決めていました。もちろん先生方も、精神面の指導や僕たちの知らないところで、絶大なるサポートはしてくれていたと思いますが、基本的には監督従属型ではなく選手自立型のチームでした。
強豪チームに比べれば大してバレー漬けではなかったかもしれませんが、バレーボールをすることが第一目的ではないチームとしては、よくやれていた方だと思います。
本当に古きよき時代でした
高校バレーを引退する頃になり、身長は172cmで止まり、さほどバレーボールの才能がないことに気づき、志半ばで夢の軌道修正を余儀なくされました
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そして、気がつけば勉強不足がたたり、大学進学の選択肢も多くはなく・・・。
とにかく、唯一得意な化学で何とかやっていこう!と思い、残り数ヶ月を勉強で悪足掻きし、何とかある大学へ進学することになりました!
この時は大学でバレーボールをするかどうか、少し迷っていました。
さて、どうなることやら・・・。
大学編へ続く