ヨドヤのブログ

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うらやましい・・・

2013年09月18日 | 国体

今回はチームメイトの雄姿を後ろから見て,応援することしかできなかった.
選手で参加している各県の仲間を見ながら,やっぱり大会は選手で参加するもんだな~って,ちょっとうらやましく思う.
でも戦っている選手のプレーを見ると,今の自分には到底この炎天下であそこまで必死にボールを追いかけられる気力はないと感じる・・・.

自分も選手でまたやりたいという気持ちはあるけど,時間がないという言い訳が脳裏を過る・・・.
そんな中,福岡代表で選手として参加している高尾さんに久々にお会いした


カッコいい!
歳をとるたびさらにカッコよくなっていくような・・・オーラを感じる!

そして,仲間から大きなプレゼント!!

三重県代表は男子5位入賞!女子ベスト8!
なんと!監督の分も賞状があった!!

色々な刺激と感激を受けた4日間だった

みんなありがとう!

国体!

2013年09月18日 | 国体
11日から15日まで東京都の神津島に行ってきました!
今回は選手ではなく,監督として同行です.
戦術的なサポートができない代わりに,環境づくりを心掛けました.
さて,開会式では子供たちが頑張ってゆりーとダンスを踊ってくれました!


ゆりーととは,今回の国体のキャラクターです.



旅館の料理も豪勢で美味しかったです


レセプションの料理はさらに豪勢!!

景色も最高で海もきれい


帰りも親切に見送ってくれました!

レインボーブリッジをくぐって東京に帰ってきたときは,明日から現実の世界が待っていると思い,少しブルーになりました


現実逃避できた4日間でした.

国体を振り返って③ ~我が青春時代~ (大学編)

2007年10月02日 | 国体
いつまで振り返るねぇ~ん!
って、罵声が聞こえてきます
そんな人には、こう答えます・・・
「一生です
バレーに関して何の功績も無い僕には、去年の出来事は一生の宝物
すがらせてください

なんで今頃、思い立ったのかというと・・・。
土曜日にふと立ち寄った食堂のテレビで、国体の開会式がやっていました。僕も行進したかった・・・。そんな思いからです
兵庫国体ではビーチバレーは別会場だったので、開会式には参加できなかったんです
あっでも、開会式に参加したがってたのは僕くらいで、みんなはめんどくさいから参加せずによかった!って言ってましたが・・・。
めんどくさく感じるくらい、国体に出れてる人には分からない気持かもしれませんが、凡人の僕にとっては憧れの場所!メインスタンド前で帽子とって敬礼っ
やりたかった!
新潟では必ず

という事で、前置きが長くなりましたが、高校時代まで書いたので次は大学時代の話!
ここまで間が空くと、何で自分のバレーボールの生い立ちを喜んで書いているのか?
そのテンションが分からなくなってきましたが・・・。
まー「そんなの関係ねぇ~!」ってことで

高校バレー引退後、受験のストレスで、もともと68Kgだった体重がいつの間にやら103Kg
受験終了後、徐々にトレーニングを始めましたが、大学入学時でも90Kg超級
クラブの勧誘されるのは、柔道、ラグビー、アメフト等、そりゃそうだ
そんな勧誘を蹴散らして、即行、体育館へバレー部の練習を見に行きました!

第一印象は・・・。私立の単科大学でセレクションがないという先入観と自分が県大会でベスト4に入ったことがあるという過剰な自信と、ブランク時の想像上で肥えていった目と頭(違う意味で体もですが)から、これは余裕でレギュラーになれそう!と思い、次の日、即行!部室に行きました!
しかーし、実際に入ってみると、とんだ勘違い
確かに外から見るとプレーは荒いし、決して上手くは見えませんが、流石、レベルの高い大阪の出身者が多いだけあって、選手の能力は高かったです。
当然レギュラーなんかは程遠く、まずはダイエットから!

うちの大学は最初は関西5部リーグ、高校生に毛が生えたくらいのレベルかもしれませんでも、何故か監督は日本リーグを何度か制覇し、全日本の監督も経験されたことのある、元カネボウの上野先生!この方に指導を受けたことが、後のバレー人生に大きく影響しています。

上野先生に基礎からしっかり教えてもらい、大学のトレーニングセンターにしっかり通い、淀川沿いをジョギングして、ビンボーな生活をしていたら、いつの間にか体重は68kgに戻っていました!
体もできて、良ーし!ここからレギュラーポジション奪取!
って時に足首の靭帯を切断&リバウンド
結局、陽の目を見ることはありませんでした。

しかし、思い出に残る試合が2つ

一つ目はインカレです。上下の写真はその時のものです。(下の写真でカットしてるのが僕ね!)



本戦に上がることができました!本戦では当時、関東3部リーグの産能大学にケチョンケチョンにいわされた記憶があります。
でも、多分、僕たちの世代が、初めて?本戦に上がったんじゃなかったかと思います。

二つ目は今はもう無いと思いますが、大阪府身長制大会!
これは大阪府内の大学だけの大会で、規定で身長が180cm以下のプレーヤーしかエントリーできないという大会でした。
大阪府内の大学なので当然、当時、1部リーグだった近大、大経法大、大体大も参加していました。
そんな中!なんと優勝!
まー、勝因は180cm以下の選手という制限では、強豪チームはベンチにも入ってない選手で構成するしかないのに対して、うちの大学はほぼベストメンバーで臨めたことでしょう!
(もちろんどのチームも暗黙の了解で180cm以上の選手が数人出ていましたが・・・。ちゅーかK大はCチームクラスでもほとんど180cm以上だったような

今でも決勝のK大戦のこと忘れません。
K大はファンの黄色い声援を受けながら、メチャメチャなめてやっていました
僕たちはそれが悔しくて笑われてもいいから必死にプレーをしようと心に誓い、相手が遊んでるうちに、それでも何とかですが、フルセットまで持ち込みました。
何、真剣にやってんねん的に余裕を見せ付けたかったのか、相手は3セット目のオーダーをほぼ控選手を出してきました。でも、勢いに乗った僕達は終始リードを保ち、後半、相手がそろそろヤバイんちゃう的にレギュラーにメンバーチェンジをしてきましたが、それでもその流れを断ち切られず、多分?17-15くらいのギリギリで勝ったんじゃなかったかなー?

まー、確かにお遊びの試合といっちゃーそれまでなんですが、僕たちから見れば相手は1部リーグ、普段はベンチ入りしていなくても、パンフレットを見れば、みんな春高、インターハイなどの肩書きを持ってる雲の上の選手ばかりです。
でも、背が低くて、何の肩書きを持たない選手の集まりでも、頑張って練習して、必死に試合に取り組めば、そういう選手にも勝てる!まさに鶏口牛後という言葉を実感した試合でした。
大学に帰って監督に報告したときに、本当に喜んで、「どんな大会でも優勝することは価値がある!」って褒めてくれました!
日本一になったことのある人に、こんなローカル大会での優勝を褒めてもらえるとは思っていなかったので、それも凄くうれしかった記憶があります。
そんな経験が、今でも現役を続けている支えになっているのかもしれません。

まーまー、そんなこんなで低レベルの話ですが、僕にとっては現在の糧になっている大切な思い出です。
今でも、このときのチームメイトや同リーグだった仲間と年1回集まって大会に出ています。

バレーボールって本当にすばらしいスポーツですね

クラブチーム編に続く・・・のか?

国体を振り返って② ~我が青春時代~ (高校編)

2006年11月14日 | 国体
中学編から引き続き、

中学の時に文集に書いた夢!
法政大学富士フィルム全日本オリンピック金メダル
(ちなみに小学校の時の夢は、床屋さんになることでした

まー、野球少年がプロ野球選手サッカー少年がW杯を目指すような、ごくごく普通の夢物語で、僕の中学時代はバレーボールでは、これが王道ではなかったでしょうか?

あれっ高校は・・・
そうなんです。中学の時、先の夢を見すぎて高校のことは全く考えてませんでした。
当時はバレーボールでの推薦入学制度も、どうすれば強豪大学のバレー部に入れるかも全く知りませんでした。基本的に、バレーのエリートコースに乗るには、県大会で優勝して、全国大会に出て行くような高校に行っていないと駄目ですよねー
(今でも突っ込まれる、「志は高いのに、何も知らないんだから・・・」この時からだったとは・・・今気づきました

そんなことはいざ知らず、家庭の環境や親の教育もあり、進学先は自然に決まってました。三群 or ○○▲専のどちらか?。(三群というのは2つの高校から構成されていて、合格すると勝手にどちらかに振り分けられる制度で、今思えば理不尽な制度かもしれませんが、当時は当たり前だと思ってました。)
僕としては当然バレーボールをやる気満々だったので、バレーボールを一生懸命やれる環境がなければ、一層の事、○○▲専に行き、バイクレーサーを目指そうかと思ってました。
しかーし、神様は僕にバレーボールをやりなさいと、背中を後押ししてくれました!
運良く希望していた方の学校に入学が決まり、僕の高校バレー生活が始まったわけです。

僕の母校は文武両道を掲げた、自由な校風がとても良かったと思います。
バレーボール部は、過去には東海大会にも出場したこともあり、県大会では優勝こそしてなかったと思いますが、常に3位~ベスト8には入ってました。
勉強でも旧帝国大学、有名私立大学などに進学し、文武両道を達成出来ていたと思います。
(ちなみに僕達の代は、京都、筑波、早稲田、立命館、大工大など。)

さて、僕が入学した時(上の写真の時代)は一年生が12人、2年生が7人、3年生が10人、マネージャーさんが8人、計37人が所属していました。公立進学校のクラブとしては大世帯でした。
この時代は同地区の工業高校が県大会でベスト4に入る実力があり、地区でのシード権がなかなか取れなかった記憶があります。実力的には県ベスト4くらいはあったと思います。本当に偉大な先輩方でした
僕はこの時代ではまだ12人にも入っていませんでした。たまーに、紅白戦でBチームに入れてもらえるのが楽しみでした

そして、次の世代!僕が2年生の時です。
色々あってレギュラーになることが出来ました。ちなみにポジションはライトでした。
下の写真はちょうど今頃?新人戦の県大会準決勝です。相手は強豪!松○工業!
スパイクを打ってるのは僕!このスパイクはワンチを取って決まりました。
嬉しかったので覚えてます



この時、まさか相手チームの中に、15年後に一緒に国体に出場することになるパートナーがいるなんて、思ってもいなかったです。
あっ、もちろんtomoさんのことは良く知ってましたよ!カットの名手で、とても巧い選手でしたから!
(その当時は恐れ多くて声すらかけれませんでしたが・・・。)

この試合は長年お世話になった監督の先生が退職される最後の年ということで、みんな先生の最後を優勝で飾ろうと、気合が入っていました!
しかしながら、先輩の両エースの活躍によって善戦したものの、常勝!松○工業には敵わず0-2で負け、3位決定戦に回りました。
3位決定戦では、何とか入賞して、先生を送り出したいというみんなの気持が一つになり、準決勝に引き続き、両エースの大車輪の活躍で見事勝利!
この時代、県ベスト4には選手を推薦入学で獲得できる工業高校が常連でしたが、久々に公立進学校が3位に輝きました!
残念ながら、現在と異なり、この新人戦は県大会までだったので、東海大会には進むことは出来ませんでした
でも、僕の高校時代の一番の思い出となる大会でした!

そして、僕たちの時代!
僕は今まで中学ではレフト、先代ではライトとアタッカー以外はやったことがなかったのですが、身長の伸びが止まりつつあり、大学でこの身長では通用しないと思い、セッターに転向しました。
僕たちの時代は地区大会こそ、最初の新人戦以外は全て優勝していましたが、県大会ではベスト8までしか進むことは出来ませんでした。この頃、バレーボール人気も低下しつつあり、部員も全盛期の3分の2くらいになっていたと思います。

この時代での思い出の一つに、面白いことを試みた大会があります。
上記の通り、僕たちの高校は一箇所を受験し、勝手に2校に振り分けられます。そこで、もし、2校に振り分けられたチームが一つだったら、どうなったのか?それを試してみました!
その大会が、以前にブログに書いた伊勢市民大会!
1・2年生の時は単独チームで出ていましたが、3年生の時は高校最後の記念にと、有志の合同チームで三群として参戦しました!



(現チームメイトもいますこの時はこの中からVリーグで活躍する選手が育とうとは、誰も思ってなかったでしょう。今となっては郷土の自慢ですが

夏の総体で引退し数ヵ月が経ち、急造チームということもあったので、満足な結果は得られませんでしたが、良い思い出になりました!
もし、このメンバーが一緒の高校で、ずっと練習をすることが出来ていたら、東海大会も夢ではなかったかもしれません。

まー、思いではこれくらいにして、高校時代は本当にバレーに明け暮れました。
平日は放課後の練習が終わると、ロマンの森(裏山の名前)を走り、坂ダッシュ、階段ダッシュ!
試合前になると20時過ぎまで体育館で練習していても、用務員のおじさんは暗黙の了解で見逃してくれてました。
盆・正以外はほとんど練習し、テスト期間になり体育館が使用禁止になると、仲間達の出身中学校に練習をさせてもらいに出歩いてました。多分、勉強よりもバレーをしてる時間の方が長かったかも?

僕たちの学校は、伝統的に練習日や練習メニューなどは全部自分たちで決めていました。もちろん先生方も、精神面の指導や僕たちの知らないところで、絶大なるサポートはしてくれていたと思いますが、基本的には監督従属型ではなく選手自立型のチームでした。
強豪チームに比べれば大してバレー漬けではなかったかもしれませんが、バレーボールをすることが第一目的ではないチームとしては、よくやれていた方だと思います。
本当に古きよき時代でした

高校バレーを引退する頃になり、身長は172cmで止まり、さほどバレーボールの才能がないことに気づき、志半ばで夢の軌道修正を余儀なくされました
そして、気がつけば勉強不足がたたり、大学進学の選択肢も多くはなく・・・。
とにかく、唯一得意な化学で何とかやっていこう!と思い、残り数ヶ月を勉強で悪足掻きし、何とかある大学へ進学することになりました!

この時は大学でバレーボールをするかどうか、少し迷っていました。
さて、どうなることやら・・・。

大学編へ続く

はばたんグッズ

2006年10月08日 | 国体
はばたん
聞くところによるとフェニックスらしい
南淡路には国体グッズが売ってなかったので、メインのスタジアムの近く(散歩コースらしい)に住む姉にグッズを買って送ってもらった!
記念、記念と買いあさったら、こんなに買ってしまった!
タオル、トレーナー、ウインドブレーカー等々
まー、記念だからね

国体を振り返って① ~バレーボールとの出会い~ (中学編)

2006年10月05日 | 国体
本当に国体は楽しかった
集大成というわけではありませんが僕にとっては金字塔を建てれたわけで、これを機に時間を見つけては、これまでの道のりを振り返ってみようと思います。
今回は序章ということで、僕のバレー人生を振り返ります。

僕がバレーボールを始めたのは中学の時からです。それまではスポーツ少年団の野球部に所属していたサッカー小僧でした
当時はキャプテン翼、頑張れキッカーズなどのサッカー漫画が大ブレイクし、それとあわせて86年のW杯メキシコ大会でマラドーナが大活躍し、小さなサッカーブームが到来しつつありました。
当然、僕もその流れに乗り、野球部なのにサッカーばかりやってました。ポジションは・・・御察しの通!キーパーでした。
自分で言うのもなんですが、中学生と練習試合をしても小学生用のゴールでやればほとんど無失点に抑えていました。
もちろん、そのときは中学に行ってもサッカーを続ける気でいました。しかし、僕の通っていた中学にはサッカー部はありませんでした。
そこで、小学生ながらに高校生になるまでに、サッカー(キーパー)が上手くなるスポーツは何か?と考えた結果・・・。
バレーボール全日本チームが練習でリフティングやフライングをしているところをテレビで見て、これだーと思い、バレー部に入った訳です
動機は不純な方が良いとはよく言ったもので、それ以来、バレーボールのとりこになってしまいました。

僕の中学は昔からそんなに強くありませんでした。僕たちの代も例外ではなく、チームでスパイクを打てるのは僕(キャプテン&エース)と対角の裏エース、あと、ツーセッターをしていた二人のみ、ブロック出来るのも両エースと両セッターくらいでした。フォーメーションは苦肉の策で2-2-2をとってました。おまけに同市には県大会で常に上位に入っている強豪校がいて、なぜか分かりませんが市内大会では常にそこと準決勝であたるという悪循環にはまっていました。
しかし、中学3年生の中体連春季大会?で監督のくじ運の悪さに業を煮やして、僕がクジをひくことにしました。そうすると運のよいことに強豪校と反対側の山を引き当てましたしかも、そのときは強豪校のエースは肩を痛めていて、左手でスパイクを打たないといけない状態でした。(しかし、知らない人には左利きといってもわからないくらい打ってましたが)これは、初優勝のチャンスと期待は膨らみ、モチベーションは高まりました!
一回戦はかなり格下のチームでこれまでに一度も二桁失点はしていないチームです。
今でも覚えています、1セット目の8-3でのサイドアウト、セッターのトスが流れてアンテナの外へ、無理して右肩を入れて、超インナーへ打ち、着地した瞬間・・・左足の膝が異様な音を立てて、よからぬ方向へ曲がり・・・THE END
すぐに病院に搬送されて、膝に溜まった血と水を抜いてもらい、テーピングで固定してもらいましたが、復帰できるわけもなく・・・。
チームは何とか決勝まで勝ち進みましたが、準優勝に終わりました
(これが、僕のバレー人生の不運のスタートとなるとは・・・。当時は気づきませんでした。)

まー、ここでとったシード権のお陰で、僕が復帰後の地区大会では過去最高の3位に入ることができました!
それ以降は相変わらず、準決勝で強豪校にあたり、一度も県大会に出ることはありませんでした。
たらればですが、もし、県大会に出ていたら「さわやかに召集されていたかもなー?」って中体連の人から同情で言ってもらえたのが、中学生時代のなけなしの勲章です。

高校時代へ続く・・・

前夜祭!

2006年09月30日 | 国体
北から茨城、富山、福井、愛知、侍、三重、山口の選手みんなで前夜祭!最高に楽しい時間を過ごしました!ローカル大会だといつもはこのまま明け方まで宴会が続くんですが、今日は流石に国体!今からみんなお風呂に入って寝ます!明日はとうとう試合です!悔いの残らないように頑張ります!