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俳人・金子兜太氏「アベとかいう変な人に痛切な危機感」

2016-05-31 | いろいろ

より

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俳人・金子兜太氏「アベとかいう変な人に痛切な危機感」

 気迫ある毛筆で書かれた「アベ政治を許さない」のプラカードは、昨夏の「安保法制反対」運動のシンボルだった。揮毫したのは、現在96歳の俳句の大御所・金子兜太氏。南方で終戦を迎え、1年3カ月の間、米軍の捕虜となって最終船で引き揚げたという。あれから70年。安倍政権の安保法強行の動きに奮い立ち、老体を押して戦争体験を語る講演を全国各地で行っている。


■“カタカナ”なのは漢字じゃもったいないから

――「九条の会」呼びかけ人で、作家の澤地久枝さんの依頼で揮毫したそうですね。「許さない」の文字の大きさに、金子さんの思いが伝わってきます。

 若い人に絶対に戦争をさせてはならないという思いで、一発で書いたの。今の政権は国民の言うことに耳を傾けようとしない。憲法を変えずに自衛隊を戦場に送ろうとし、ズルいやり方でアメリカの顔色ばかりうかがっている。「アベ政治」をカタカナにしたのは、こんな政権に漢字を使うのはもったいないからね。戦争なんて無残な死を積み重ねるだけ。戦争ほどの悪夢はない。人間にとって全くの不幸ですよ。この体験を絶対に忘れないぞと思って帰ってきたんですが、70年の間に気持ちが緩む時もあった。

――安倍首相の再登板で思いが蘇った。

 そう、アベとかいう変な人が出てきたもんですから。私のようなボンクラな男でも危機感を痛切に感じるようになりましたね。安保法をやりだした時にね、こりゃ危ないって気がした。憲法9条の改正の是非を国民投票にはかる、とハッキリ言ってくれればいいんですよ。それが、直接9条には触らないで、周辺をグルグルといじった。特定秘密保護法なんて治安維持法みたいなものでしょう。遠巻きに近づく、これが危ないと思ったのね。

――過去に「戦前の私はデモクラティックでなくてデレデレティックなんです」と発言されています。それだけ、戦争体験が金子さんの思考を一変させたということなんでしょうか。

 戦争は反対だ、戦争はイヤだ、という気持ちにデモクラティックな意思が加わったというんでしょうか。だいたい、今の国会には戦争体験者が2割くらいしかいないんじゃないか。においを嗅いだ程度のやつも少ない。そういう連中が戦争に関わる憲法9条を議論して、安保法のようなケチなものをつくる。そんな資格はないと思いますよ。戦争経験がないのに、「戦争辞せず」くらいの顔をするやつがたくさんいる。戦争というのは、いろんな形で人間が死ぬんですよ。ろくなもんじゃない。なのに、戦争は男らしいなんて思っているバカげた国会議員が多い。一方では、女性のお尻をなでてばかりのやつもたくさんおるしね。

――戦時中、海軍主計中尉として旧南洋諸島のトラック島(現ミクロネシア連邦チューク諸島)に派遣された。米軍の爆撃で1日に50~60人が死んだり、補給路を断たれて餓死者が続出するのを目の当たりにしたそうですね。

 着任したのが25歳、1944年3月だった。海軍経理学校を出て、1カ月の訓練を終えると、志望を聞かれる。行く以上は、と思って「南方第一線で戦いたい」と答えたら、「よし行ってこい」となったわけです。私は秩父の山の中の育ち。養蚕で生計を立てる家庭が多かったのですが、昭和恐慌で繭価が暴落してしまった。年頃になると、郷里の人たちが「兜太さん、あんた戦争に行ってくれ。戦争に勝ってくれ。そうしたら俺たちは楽になるだろう」と言う。当時は青年でしたから、雄々しい気持ちというか、励まされる気持ちを感じましてね。郷里の人を何とか救ってあげたいという思いが湧き上がるわけです


爆弾でポーンと飛んだ「男根」

――引き揚げまでの約3年間、トラック島で過ごした。

 派遣されたのは補給基地でもあった海軍施設群。海軍の土建現場ですよ。島の要塞化のために徴用された工員さんが大半で、私のような将校なんて数えるほどしかいない。工員さんたちはグラマン(戦闘機)の爆撃にやられ、自分たちで作った手榴弾の実験で死に、飢えて拾い食いして逝った。むごい死に方を山ほど見ました。私は工員さんたちを生の人間という意味で「存在者」と呼んでるんです。

――「存在者」ですか。

 工員さんたちは全く恥も外聞もなく、バカバカしさを如実に表している人たちだった。神様のような人間というのはこの人たちだな、と思いましたな。隧道(トンネル)が足らず、空襲で工員さんたちがまとめて殺された例がたくさんあった。掘っ立て小屋が1発の爆撃で吹っ飛ぶ。30人くらいの人間の手足がバラバラになり、首からストーンと吹っ飛ぶ。男根まで妙にハッキリとポーンと飛んで行く。実に残酷な状態、あるいは笑うべき状態、悲しむべき状態、いろんなものが錯綜した風景は耐えられないものでした。


■戦争で人間は普通じゃなくなる

――戦況が悪化すると、餓死も日常になった。

 腹が減る、拾って食う、腹を壊す。トラック島の周辺はサンゴ環礁なので、工員さんがポンポン船で漁をする。手榴弾をブッ込んで、浮き上がった魚を捕るんです。フグが上がって、工員さんが横に捨てても、別の工員さんが拾って食う。周りが毒があるからと止めても食う。餓死の状況は悲惨だと言うしかない。部隊の5、6人で代わる代わる山の上に遺体を担ぎ上げて、掘っておいた大きな穴にポンポン放り込んだね。最後は何人死ねば何人生き残るとか、そういう計算もしたな。

――戦場で俳句を作ろうとしたそうですね。

 自分に余裕を持たせようとしたんだけれど、男色が広がってからはそんな時期じゃないと思ったね。44年にトラック島が大空襲に遭い、病院船で女性たちを内地に帰したんです。病院の看護婦さん、施設群の電話交換手、タイプライター。売春の女性たちも帰した。島にいるのはカナカ族の女性だけ。それで、忍び込むんですよ。だけど、カナカ族の男はヤシの木を切る大きなナタのようなものを持って歩いている。後ろから切り付けられ、日本人はかなり死にましてね。男だけの社会ですから、男が男と一緒になる。約1カ月半くらいで、私のいた部隊が男色の世界になったんですね。それを見た時、こう思いましたね。これはもう普通の人間じゃない、生の人間だと。

――安倍政権はそうした悲惨な戦争体験に耳を傾けずに暴走し、権力を監視すべきメディアは牙を抜かれたように見えます。総務大臣は公然と「電波停止」をチラつかせ、政権に批判的なキャスターがテレビから消え、新聞は自粛する。自由な言論人が少なくなりました。

 満州事変以降の15年戦争と比べても、国民のあらかたは危ういという認識を持っていないように見える。まだみんなボケてる。どこかのんびりしている。政府の連中は、あの時の治安維持法の使い方を知っている。それだけに、見えない部分で言論統制が進行しているんじゃないかという気がするね。

――40~43年に起きた特高による「新興俳句弾圧事件」にも直面された。

 戦争を風刺した俳人が次々に治安維持法で捕まった。当時は東大に通っていた時分だったけれど、英雄ぶって率先して抵抗するなんてできっこない、と思いました。1年の時だったな、俳句をやっている学生の先輩の姿がしばらく見えなかった。それがある時、私を待っていたようにその先輩がやって来て、(東大本郷キャンパスの)三四郎池に引っ張った。それで手を突きだすんですよ。見ると、爪が全部はがされていた。「金子、これになるから注意しろ」って言う。拷問を受けていたんです。顔が青くてね、蹌踉としていた。「気を失ったよ」って。その後は自分の行動をチェックして、警戒するようになったのを覚えています。

――金子さんの作品は常に時代をとらえていて、後になってからズシリと重みをもつことも多いですね。選者を務める東京新聞の「平和の俳句」は2年目を迎えました。

 戦後70年を過ぎて、新聞紙上で戦争法反対の句を選ぶ時代がくるとは思わなかった。(体制に対する)警戒は常に念頭にありますよ。この辺で警察が何とか言ってきやがったら、くらいの気持ちでやっている。どこまで(体制批判の)表現が許されるのか、新聞という制限の中で限界までやってみようと思っています。


 ▽かねこ・とうた 1919年、埼玉県生まれ。旧制水戸高在学中に句作を始め、加藤楸邨に師事。東京帝国大(現東大)卒業後、日本銀行に入行。43年、海軍経理学校に入学。44年、トラック島に派遣。戦後は社会性俳句の旗手として活躍、56年に第1句集「少年」で現代俳句協会賞を受賞。2000年から現代俳句協会名誉会長。
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