アメリカが抗議し21カ条から削除された第5号とは?
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話が前後するが、第一次世界大戦中の大正4年(1915)1月に、第二次大隈内閣は対支21カ条をシナの袁世凱政府に提出している。当時の外務大臣は加藤高明だが、第一次世界大戦の参戦をめぐって元老と協議する中で、元老から不信感を買うなど批判が多かった。
ただし、日本がこの対支21カ条を提出した背景には、日清戦争の折の三国干渉が当時の日本人にとって、いわゆるトラウマになっていたことを挙げる必要はあるだろう。
第1号から第4号までは、山東省に関する条約(第1号)、旅順と大連の租借権および満鉄権益の期限を99カ年に延長することなど(第2号)、製鉄会社の漢冶萍公司(かんやひょうこんす)の合弁について(第3号)、福建省の沿岸を外国に割譲したり貸与したりしないこと(第4号)を要求したものとされている。
だが、たとえば山東省に関する条約も、ドイツが保有している山東省の権益について日本政府がドイツ政府と結ぶ協定を承認すること、という内容であり、福建省については、福建省沿岸地方で外国に造船所や軍用貯炭所、海軍根拠地などの軍事施設を置かせないことを、日本側がシナ側に確認している内容だ。これらを見ると、必ずしも戦後に「日本の横暴」として批判されているほど無理な要求であるとは思えない。
もう一つ、対支21カ条には、あくまで希望事項である第5号もあった。政治・財政・警察における日本人顧問の招聘、日本の兵器受給などが盛り込まれており、日本が図に乗っていると取られても仕方がなかったが、当時治安が非常に悪かったシナ側にとって、まったく損であるとはいえない部分もあった。
ところが、シナ側が秘密事項だった第5号を海外に暴露したため、これを火事場泥棒だと受け取ったアメリカが抗議し、イギリスも、自分たちがヨーロッパで戦争をしている間に、日本が勝手に事を運ぶのではないかという疑心暗鬼に駆られた。もともと反日の塊で、朝鮮人にも独立運動をけしかけていたアメリカ人宣教師がシナを焚きつけ、イギリス人宣教師たちも、その頃から猛烈な反日運動を展開するようになっていた。あるいはイギリス人宣教師たちは、本国政府から何らかの指示を受けていたのかもしれない。
日本国内で元老たちも反対したため、結局、日本政府は第5号を削除した。そのため最終的には21カ条が16カ条になり、当時のシナ政府も渋々その16カ条を認めたのだが、シナ側は削除された第5号も含めて、対支21カ条要求として宣伝を行ない、要求を受諾した5月9日を「国恥記念日」として排日運動を展開したのである。
これが、のちにアメリカが反日に向かう際、非常に有効な口実になっている。その意味で大正時代は、日本国内は比較的平和だったが、外交では取り返しのつかない失敗を犯していたと考えざるをえない。
短い文章ですが、ここからこの日本の外交の概要がつかめます。
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