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東北地方太平洋沖地震を海外はどう報じているか・・・30日朝

2011-05-30 06:07:22 | 日本を見つめる世界の目
今日も、海外のメディアが東日本太平洋沖地震をどう報道しているかを見ましょう。

 【中国】
人民日報 http://j.peopledaily.com.cn/home.html

更新なし

チャイナネットhttp://japanese.china.org.cn/

日系の部品メーカー群が中国進出 工業団地の稼働も間近
自動車部品を取り扱う日本の中小メーカーを主な誘致先とする自動車部品工業団地が江蘇省丹陽市で稼働されようとしている。

5月24日、江蘇省丹陽市招商局筋の情報によると、江蘇省丹陽市政府は「丹陽日本自動車部品工業園」を設立し、日本貿易振興機構(ジェトロ)の支援を受け、自動車部品を扱う日本の中小メーカー一群を主な誘致の対象とする自動車部品工業園の運営が開始されている。今年11月には入居した工場が稼働できる体制が整うという。

東日本大震災は、日本国内の製造業に甚大な被害をもたらした。財務省が5月26日に公開した貿易統計(速報)によると、自動車輸出額は2,553億円、前年同期比67%減と激減し、1979年1月以来の最低値を記録した。現在、海外進出の動きが一企業から産業全体にシフトしており、自動車産業全体では裾野産業に当たる部品メーカーも、江蘇省丹陽工業団地などの部品製造工業基地への進出に積極的になっている。

▽3年後、入居企業は300社に

5月24日、江蘇省丹陽市に設立された日系部品メーカーを主体とする丹陽市経済開発区のプロジェクト紹介文には、「日本自動車部品工業園(JAPIC)は日系中小メーカーを主体に誘致し、国内一流の自動車部品産業パークを構築する」と書かれている。同工業団地は大まかに分けると、金属加工、電気・電子、樹脂・ゴム、繊維・その他の4機能を持つことになる。

当該工業団地の総面積は310ムー(1ムー=1/15ヘクタール)で、建築物の延べ床面積は10万3千㎡となっている。うち2,500万㎡を占める第1期プロジェクトが今年11月には竣工し、入居メーカーの稼働が行なわれる予定である。計画によると、日本自動車部品工業区は第1期および第2期に建設プロジェクトが分かれており、第1期は日本自動車部品工業園区(JAPIC)、第2期は日本自動車装備工業園区(JAEIC)を主体としている。

丹陽市経済開発区経済管理委員会招商局の殷輝副局長は取材に対し、「入居する日系自動車部品メーカーは、ハイテク製品を丹陽で製造することが契約により取り決められます。製造内容の承認に関しては中国側の厳しい審査を受けることになります」と述べている。

東日本大震災の影響を受け、日本製の部品供給システムがストップし、自動車メーカーに多大な影響を及ぼすことになった。その結果、リスク分散策として、日本国内の中小部品メーカーによる海外進出が積極的に行なわれている。

殷輝副局長は、「日本自動車部品工業園(JAPIC)の入居企業は年末時で30~50社を見込んでいる。3年後には日系部品メーカー300社の入居を予測している。JAEICは2012年には稼働できる予定だ」と述べている。

▽集団での発展

日系中小部品メーカーは日本貿易振興機構(ジェトロ)および中国自動車工業協会の支援を受け、集団化して、関連産業が集中する中国の工業団地に進出するとされている。

日本国内では、大地震により自動車産業全体が影響を受けている。部品の供給体系が切断され、自動車組み立て工場の製造停止や減産などといった難局に見舞われている。製造のみならず、港湾も被害を受けたため輸送面も停滞しており、日本国内の生産拠点を一極集中型する分業生産体制の弊害が明るみになった。

被災地の企業の中では、中小の部品メーカーがその被害を大きく受けている。この度の大地震により、中小部品メーカーの海外進出を望む声が高くなってきている。日本貿易振興機構(ジェトロ)の関係者は、「進出企業が集団化、組織化を行なうことで、中国政府のより多くの支援を得たいと思っている」と述べている。

この度、自動車産業の一環である日系中小部品メーカーの一団が中国に進出するのは、当該工業区の計画の第1期となる誘致プロジェクトとなる。今のところ30社以上が進出の意向を示しているという。

この度、日本の部品メーカーが一団となって中国に進出することは、現地の発展をもたらすことになるかもしれない。また、供給体系のレベルアップや改善を促進することになるであろう。日本自動車部品工業園区に入居する日系企業および組織は、現地政府およびJAPIC関連団体の支援を享受することになる。原材料の共同買付け、物流ルートの共有、従業員の共同管理などは、生産コストの削減につながるはずである。法令・規定関連の手続き、通関業務、労務管理などを現地政府およびJAPIC関連団体に委ねることにより、JAPICの入居者は無駄な労力を使うことなく、製造や研究開発に集中して従事することが出来る。

社団法人日本自動車部品工業会の関連責任者である田中氏は、「日本の自動車部品メーカーにとって、中国の自動車市場は大きな潜在力を持っている。協会は、日本の自動車部品メーカーの中国進出・発展を促進していく次第であり、日本の自動車産業における供給体系をより完備していきたいと思っている」と述べている。



災害頻発、経済衰退 それでも日本に留学する?
「それでも、日本に留学するべきか?」。目下、中国の一部の学生や父兄、留学斡旋業者は、この問題について議論している。結論を急ぐ必要はないのだから、その判断を下す前に、中国人留学生の発展の歴史の一端を振り返ってみたい。

中国人留学生の歴史を見れば、まず近代では、日清戦争後のかなりの期間に、大量の中国人留学生が日本に流れ込んだ。彼らは敗戦の痛みを胸に抱きつつ、明治維新後の日本の台頭を支えた政治的、経済的、軍事的、文化的な経験を学ぼうと志し、短期集中的な学びを通じて、祖国を強くしたいと考えていた。それが、後の辛亥革命や五・四運動、ひいては、中国共産党創設など、中国社会の一連の劇的な変革に、強い日本的要素が含まれることに繋がった。陳独秀、李大という、中国共産党の創始者二人も、かつて日本への留学生だった。国民党・共産党両党の指導者には、日本に留学した人が少なくない。

中国の現代史を見てみれば、中国人学生が、日本に対して恐れや憎しみ、拒絶を感じるというのは、1930年代の日本による対中侵略戦争に始まったものであろう。当時、大勢の中国人留学生が憤然として日本から帰国し、中国社会においても、初めて、「中国人は日本に留学するべきか?」との大議論が出現し、多くの中国人学生が日本への留学を拒否した。

続いて、中華人民共和国成立後の歴史を見てみると、改革解放の画期的な象徴の1つが、国の門戸を開くことであり、公費や私費での海外留学が許可され、日本は再び中国人学生が注目する留学先になった。そして、日本は、米国と共に中国人の海外留学の2大目的国の1つとなり、何万人もの学生達が日本に学び、壮大な規模に発展した。

このことから分かるのは、中国人は、日本が台頭した時期には日本留学を希望する、日本が中国を侵略した時期には日本留学を拒否する。そして、戦後に日本が復興し、中国が国の門戸を開いた改革開放の時には、再び、中国人は日本を経済面での見本として研究し、日本留学のブームが沸き起こったのである。

目下、「中国人は日本に留学するべきか?」が、再び議論されているのは何故か。今回の議論の背景は、「国難に直面して」というものでは既になく、強い愛国感情が然らしめるところで、ここにも時代の激しい変化を見ることが出来る、と筆者は考える。また、この議論は、既に、中国が留学手段に多くの選択肢を持つようになり、昔のように、距離が近いから、漢字を見れば大体分かるから、というだけで日本に留学した時代ではないことを示している。

更に重要なのは、東日本大震災後に発生した、地震・津波・放射能漏れが三位一体となった「複合型災害」は、日本社会の安全神話を破壊しただけでなく、日本経済にも大きな打撃を与え、また、それが正に中国のGDPが日本を越えて世界第二位になった時期であり、この変化が特に人々の注目を集めた点である。地震の後、「日本人にとっては苦しい時期になる」「日本の教育に対する投資はこれ以上増えない」等々の話題も、特に熱く議論された。

「中国人は日本に留学するべきか?」を再び議論するのは、決して、古臭いテーマの単なる繰り返しではない。また、行くのにも理由があり、行かないのにも理由があり、どれも一言二言で言い表せるものでもないのだ。逆に言えば、この問題を再議論する時代の背景、ひいては、日中両国の国力差の変化を認識すること、悟ること、それこそが最も重要なのである。(文=馮紹彤)



震災後の日本見聞録(1)いつも通り開花した桜
4月16日から23日までの間、笹川日中友好基金の招待を受けた中国の企業家が日本の被災地を訪れ、学校や被災現場、自衛隊やボランティアによる救援・救助活動を視察し、帰国後、そこで見聞きしたことや感じたことを語った。

(1)いつも通り開花した桜

文=磨鉄図書創新空間 王小山総経理

4月23日、東京から北京へ戻り、そのまますぐに友人の誕生日パーティーに参加した。その席で、「一流国家も、今回の地震で二流国家に成り下がったのでは?」という声があったが、私は、もちろんそんなことはない。今でも絶対に一流国家だと答えた。

中国では、日本を賞賛することは危険だが、事実は事実、私が目にしたのは部分的な側面かもしれないが、見てきたことをそのまま話すことしかできない。

▽動じない日本人



家の近くで遊ぶ子供

今回の視察は、笹川日中友好基金の招待を受けてのもので、もともと3月11日より前に、それが決まっていた。しかし地震の影響で半月延期となった。メディア出身の私は急遽、それまでの視察予定の変更を申し出、被災地に向かうことにした。

出発前、家族や友人、そして私自身が最も心配していたのが、地震や津波ではなく、放射能だった。しかし東京に到着後、それは完全に打ち消された。東京の整然とした秩序は、駅近くの音楽隊によるチャリティショーがなければ、日本で一体何が起こったのか全く分からないほどだった。

飛行機が降下する30分ほど前、機体が突然激しく揺れた。上下だけでなく左右にも揺れ動いた。着陸後、迎えに来てくれることになっていた基金の日本人通訳、小林義之氏は、まだ到着ゲートにいなかった。不安そうな私たちを見て、隣の中国人が地震のために成田空港向けの電車がストップしていることを教えてくれた。30分後、ようやく現れた小林氏は申し訳なさそうに、電車が途中で止まってしまい、仕方なくタクシーで2万円かけて駆けつけたのだと話してくれた。

ネット上では「日本はマナーモードに調整済み」でマグニチュード6~7クラスの地震は日常茶飯事だなどという冗談を言う者もいる。だが、私が日本滞在中に感じた地震はたった1回だけだった。ある日の夜中12時ごろ、私は松島にあるバーでネットサーフィンをしていた。すると突然店が揺れだし、窓もガタガタと音を立てたので慌てて畳から飛びあがり、小林氏と林楚方に「はやく、上着を着て!地震だ!」と言った。すると小林氏は、これは地震のうちに入らないと笑った。小林氏に震度と震源を調べてもらうと、震源はまさに宮城県内、震度は4.5だった。

小林氏の落ち着きは、被災地のその他の日本人とほとんど変わらないものだった。

落ち着いた動じなさ、それは日本人が私に与えた最大の印象だった。被災者もボランティアも、その他の一般の人々も、不満こそあるが、大部分の人の生活はいつも通りに進んでいた。

▽女川と石巻での見聞

19日、私たちは石巻市の海沿いにいた。林楚方は海を見ながら言った。「こんなに青くてきれいな海が、あんなに恐ろしいものになるなんて、誰が想像できただろう。」私はこう言った。「あんなに恐ろしかった海が、またこんなに美しい青を取り戻せるなんて、誰が想像できただろう。」「災難」について、私はこう思う。もしそれが来たのなら、静かに受け止めるしかない。取り乱して大騒ぎしたところで何もならないし、それどころかかえって心を乱し、冷静な判断ができなくなり、結果的に災難をより大きなものにしてしまうだけである。

もちろん、被災地の光景はとても衝撃的なものだ。私は以前、中国青海省玉樹地震の半年後に現地に行ったことがあるが、今回の宮城県石巻市と女川市で見た光景は、その玉樹地震を遥かに上回るものだった。特に女川市は、町全体が「平ら」になってしまっており、瓦礫や残骸を残すのみとなっていた。

だが、震災後の状況は、玉樹より石巻市の方が良かった。その理由としては次のことが考えられる。1、石巻市は交通の便が良いが、玉樹の方は交通が不便で現地入りが難しかった。2、日本の救助システムの完成度が高い。3、日本政府の動きは確かに効率が低く、ごちゃごちゃうるさいが、決定さえすれば必ず実行され、頻繁に方案が変更して混乱するようなことがない。

▽日本政府への不安を募らす被災者

被災者は、日本政府に対し多くの不満を持っている。ある高齢者は次のように語った。石巻には15000人の被災者が避難所で生活しており、その大部分が学校に寝泊りしている。だが、もうすぐ学校の授業が再開されるため、そこを離れなければならない。新しい住まいとなる仮設住宅200戸は抽選で、しかもさまざまな条件をクリアしなければ、入ることができない。基本的には身内に犠牲者が出た者や全ての財産を失った者たちが優先されてしまい、この高齢者は抽選に落ちてしまった。今後どうすればいいのか。このまま石巻で先の見えない生活をするのか、しかし石巻を離れれば、一人ぼっちになってしまう。政府からの一時金10万円も、仙台では半月の生活費で消えてしまう。これから先、不安だらけだ。

菅総理の言う震災前より素晴らしい日本の再建というのは、絵空事に過ぎない。

東京の首相官邸と国会議事堂の間の道では、一人の老婦人がプラカードを掲げてデモを行っていた。大体の意味は「菅総理 殺人犯 辞職せよ」というもの。沿道に立つ二人の警官はただ黙って立っているだけだった。

被災現地の地方政府も努力を続けているが、金銭面の問題と人手不足(公務員の3分の1が震災で亡くなった)でなかなか思うように動けないのが現状だ。また、政府与党も野党と国会制約により、自由な動きがとれず、特に日本の官僚体制のもと、公平さを重視するあまり、部分的効率が失われ、大災害を前にその受身的側面を露呈している。

だが、この日本政府の効率の悪さについては、私たちが見落としている政府側の困難もある。例えば津波によって押し流された家や建物は、全て私的所有物であり、許可なしに政府が勝手に処分してしまうわけにはいかないのだ。また、津波によって損壊した物品についても、それが使用価値のないゴミとなったかどうかは、その持ち主によって認定されなければならないため、作業はなかなか前に進まない。

被災者の一部は、すでに自ら自宅の片づけを行い、戻ってきて生活しようとしている。自衛隊はまず道路の片付け作業を行うしかない。政府の効率の悪さにはそれなりの理由があるが、被災者には文句を言われてばかりだ。例えば菅総理が「がんばれ」と言うと、被災者からは「がんばれしか言えないのか。」と不満をあらわにした。

▽専門の民間救助隊

政府の頼りなさに比べ、日本の民間救助隊は非常に専門的で頼りになる。女川では、日本財団が全ての犠牲者の遺族に対し5万円の見舞金を受け渡した。見舞金の受領にはサインが必要だが、事務的に遺族と犠牲者をいちいち照らし合わせるということはせず、受け取りに来た人にはすぐに与え、遺族が悲しい過去を思い出さないよう配慮されていた。我々が、遺族に成りすましてお金をもらいに来る人はいないか尋ねると、スタッフは次のように答えた。そういうこともすでに想定済みで、ここへ来る前、上司から「成りすましに騙されてでも、遺族の心の傷に触れることがあってはいけない」と指導されたという。

成りすましもそうだが、遺族間の連絡がうまく取れていない場合、一人の犠牲者に対し複数の遺族が見舞金を受け取りに来る可能性もある。スタッフによれば、すでに返金したケースが1件あるという。その遺族は、返金の際、家族の他の者が受け取っていたが、それを知らず再び受け取りに来てしまった。大変申し訳ないと話したという。

石巻住吉中学の体育館には、多くの被災者が寝泊りしている。また、その被災者たちに食事を作る自衛隊の中に、なんと大連出身の実直そうな若者がいた。彼によれば、以前は庶民たちの自衛隊に対するイメージはあまりよくなかったが、今回の地震で、すぐに駆けつけ、積極的に救済に当たってくれたことで、かなりイメージがアップしたという。

役人と比べ、日本の一般庶民たちの方が更に賞賛に値する。身近な例では、多くの被災者が休憩した場所で、人々が立ち去った後には、一つもゴミが落ちていないことである。これは地震前から変わらないことだ。宮城県で写真館を営む女性は、多くの人が被災し、さまざまな証明を再発行する必要があるため、後先考えず、とりあえず店を再開、みんなの役に立てればと語る。また、石巻市で立ち寄った再開3日目という居酒屋では、店員がやっとの思いで再開できた店だから、今後も続けて頑張っていくつもりだと笑いながら語った。素晴らしいのは、震災前と全く変わらないメニュー料金である。

今回の視察で最も感動したのが、住吉に身を寄せる50代の女性で、彼女は我々に向かって道端の桜の木を指差しながら言った。「津波が来たけど、いつも通り桜の花が咲きました」

玉樹でも同じような楽観的な高齢者に出会った。その人は、私に「あっかんベー」をしていた。



【米国】
ウォール・ストリート・ジャーナル
http://jp.wsj.com/

震災が奪った生活―遠い再起
3月11日まで、クマガイ・ヤヨイさんは地元の水産加工工場で働き、家族を養っていた。しかし、あの日襲ってきた津波が工場を破壊し、生計の道は断たれた。


Gordon Fairclough/The Wall Street Journal

ショベルカーの運転訓練を受けるオカダ・キミエさん
 43歳のクマガイさんは、10代の子供2人を持つシングルマザーだ。東日本大震災は2万人の命を奪い、東北沿岸各地の集落を破壊し、地域経済をずたずたにした。クマガイさんのように、被災から2カ月以上経っても職探しを続けている人が増えている。

 そうした人々の多くが、これまでに身に付けた技能がこの先、役立つことはないかもしれないという現実に直面し、この地を離れようとしている人々もいる。

 「漁業はこの辺で最大の産業だったが、大半が流されてしまった」と、隣接する大船渡市公共職業安定所のコン・タダアキ所長は言う。同安定所では津波以降、失業手当の受給申請が急増している。

 陸前高田など、被害が大きかった地域が雇用を創出できなければ、住民は他の地域で職を探さざるを得ない。そうなれば、既に災害によるストレスと格闘している家族が、離れ離れに暮らすことになるかもしれない。

 「正社員の口は余りない」とクマガイさんは言う。クマガイさんの家は津波で流されてしまったため、現在は両親と2人の息子とともに市の体育館に作られた避難所で生活している。これまで一家は、震災前の給与の約60%に相当するクマガイさんの失業手当でやり繰りしてきた。

 厚生労働省によれば、東日本大震災以来、最も被害が大きかった3県で10万人以上が失業保険の給付を申請した。1年前の2倍を超える水準だ。

 国の失業保険制度の対象は、漁業、農業、商店などの自営業者を含まないため、実際の失業者数はこれをはるかに上回るとみられる。

 3月の全国失業率は4.6%だが、これには陸前高田市や大船渡市がある岩手県のほか、宮城、福島の3県は除外されている。被害が甚大で、雇用調査が実施できなかったからだ。

 大船渡市、陸前高田市、住田町を管轄する職業安定所によると、震災後の失業保険給付申請は4千件に達した。通常、同安定所が受ける申請は年間2千件前後である。

 今回の災害で陸前高田の人々は、自分にどのような仕事ができるのか、再考を強いられている。オカダ・キミエさん(43)は、震災前は市内の酔仙酒造でびんにラベルを貼る仕事をしていた。

 爪に丁寧にマニキュアを施した小柄なオカダさんだが、現在は、市内のがれき除去作業に就くことを視野に入れ、建設用重機の運転訓練を受けている。

 材木会社でトラックの運転をするオカダさんの夫には、まだ仕事がある。しかし、「住宅ローンがあるので、2人で働かないと」とオカダさんは語る。ローン返済は猶予が認められたが、どれだけ待ってもらえるかは分からない。

 「働く場所がない」。黄色いショベルカーの運転席に乗り込みながら、オカダさんが言った。「6カ月後に求人が増えていなかったら、みんな、ここを離れるしかない」

 クマガイさんの長男、ショウさん(18)は、介護の仕事をするために、30日に陸前高田から760キロ離れた神戸近郊の老人ホームに向けて出発する予定だ。

 ショウさんは、実家に近い大船渡の旅行代理店で働くことを考えていた。しかし、津波の後、旅行業の今後の見通しが悪化し、家族を支えるために他の場所で働く必要があると感じた。

 4月に運転免許を取得したばかりのショウさんは、「とても楽しみだけれど、不安な気持ちもある」と言う。

 母親のクマガイさんは、次男で高校3年生のリョウ君(17)が、来年の卒業まで学校に通えることを望んでいる。

 各市が、津波が襲った後の大量のがれきや残骸の除去、仮設住宅の建設を行ない、町の再建に着手するのに伴い、そのほとんどは男性だが、復興関連事業で一時的な職を見つけられた人もいる。

 陸前高田で大工をしていたオオサカ・ユウジさんは、約1カ月前から仮設住宅の建設に携わっている。報酬は良く、津波前とほぼ同じ収入だという。

 しかし、市が本格的な再建に取りかかれるようになる前に仮設住宅の仕事が終わった場合は、何の仕事をするか決まっていないとオオサカさんは言う。「次の仕事をどうするか不安。仕事のない知り合いがたくさんいる」

 ナカノ・トモヤさん(23)は、被災を機に人生を見直すことになったと語る。津波が来る前は、陸前高田のパチンコ店に勤務していた。

 勤務先の店は波に破壊されてしまい、ナカノさんは同じような仕事にこだわるつもりはないと言う。それよりも、自動車整備士の資格を取り、地元で整備工場を始めたいと考えている。何年も前から、整備学校への入学を先延ばししていたと言う。

 「友達を何人か亡くして、本当にやりたいことをする前に命を落とす人たちを目の当たりにした」と語るナカノさんは、自分はそうなるまいと決心したという。「私は自分の夢を叶えたい」



【英国】
ロイター
http://jp.reuters.com/

福島原発、年内の収束絶望的
2:02am
福島第1原発事故の収束に向けた工程表について、東京電力が「年内の収束は不可能」との見方を強めていることが29日、複数の東電幹部の証言で分かった。1~3号機でメルトダウン(炉心溶融)が起き、原子炉圧力容器の破損が明らかになったことで、東電幹部は「作業に大きな遅れが出るだろう」としている。東電は4月17日に「6~9カ月で原子炉を冷温停止状態にする」との工程表を公表、1号機の炉心溶融が発覚した後の5月17日にも工程表の見直しはないとしていた。東電幹部の一人は「9カ月という期限はあくまで努力目標だ」としており、原子炉を安定状態に持ち込んだ後に想定していた政府による原発周辺住民の避難見直し時期についても影響が出そうだ。東電は5月初旬まで、原子炉格納容器に水を満たし燃料が入った内側の圧力容器ごと冷やす「冠水」に向けた作業を続けていたが、12日に1号機の炉心溶融と圧力容器の損傷が明らかになり、冠水を断念。原子炉建屋にたまった大量の汚染水を再利用する「循環注水冷却」という新たな方法で原子炉を冷却する方針に切り替えた。


日中韓、「観光危機」に管理指針
2011年 05月 29日 21:02 JST


福島5号機で冷却15時間停止
2011年 05月 29日 19:46 JST

震災復興へ「特区」を活用
2011年 05月 29日 19:27 JST


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