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江南市縁の七人の戦国武将-蜂須賀 家政-

2013-04-30 05:45:17 | 郷土の歴史
《 蜂須賀 家政 》

江南市縁の七人の戦国武将を昨年に続いて紹介しています。

今日は、蜂須賀 家政です。






江南郷土史研究会の説明には次のように書かれていました。

永禄元年(1558年)出生・丹羽郡宮後村宮後城〔蜂須賀屋敷)(現江南市宮後町)
幼名・小六、彦右衛門、蓬庵、従五位下阿波守
『徳島藩祖 25万石』賜う
寛永15年(1638年)81歳 逝去


江南の七夕祭りでは、多くの阿波踊りの連が出ます。
この4年間、私も教員チームの一員として参加しました。
鳴子踊りに比べて動きは単純。
しかし、本場では奥の深い阿波踊りが演じられています。

でも、なぜ江南で阿波踊り?

ここに、江南市生まれの蜂須賀家政が登場します。

蜂須賀家政は、尾張国の川並衆棟梁、あの蜂須賀小六の嫡男です。
1558年に、小六の母の在所である安川氏宅(今の江南市宮後)で生まれました。

家政の母は、宮後八幡社々家三輪若狭の妹まつ(後の大匠院)といわれています。
家政は幼児期を宮後で過ごし、三輪氏の檀那寺である曼陀羅寺本誓院へ預けられ、学問を学びました。
当時、彼が使用した机が、今も大切に保管されています。

1565年頃(8歳)頃、父蜂須賀正勝(小六)が木下藤吉郎(豊臣秀吉)の与力となります。
その舞台が小折の生駒屋敷で、吉乃の仲立ちだと言われています。
藤吉郎が信長の草履をふところで温めたのは、個人的には、清洲ではなく、生駒屋敷ではなかったのではないかと思っています。

生駒屋敷には、今では歴史上の人物が、ごろごろと集ってきていたのです。

ここが歴史のロマンですね。


さて、蜂須賀小六はもちろん、家政も秀吉の家臣です。
これが、後々に影響します。

家政は、13歳で姉川の戦で初陣、その10年後には父に従い、秀吉の中国攻めに参陣しています。
1583年(27歳)には賤ヶ岳の戦に参陣し功を挙げ、翌年には、父 蜂須賀正勝が播磨国の龍野城主となる折に、播磨国佐用郡に3千石を与えられました。

その後、蜂須賀正勝が阿波国一国18万石を配されることになりましたが、高齢を理由に家政が拝領しました。
そして、渭津を徳島と改名し、徳島城を築城しました。

この徳島城の竣工の際、工事に従事した町民たちが家政に酒を振舞われ、二日間に渡り踊り騒いだのが、阿波踊りの始まりだったと言われています。
領民も連れて行っているので、もとは、尾張で踊られていた踊りが原型ではなかったかという説もあります。
だから、江南でも阿波踊りが踊られるのです。



1586年には、父蜂須賀正勝が大坂で死去しますが、その後、九州攻めや小田原攻めで功を立てます。
朝鮮出兵では、前回登場した浅野長政幸長を助け出すという武功を挙げました。
しかし、これにより、石田三成により懲罰を受けました。

この事件も、歴史のカギになります。

そして問題の関ヶ原。44歳の時です。
豊臣に大恩のある家政は西軍に味方しなければいけませんが、石田三成は嫌い。
どちらが勝っても、家は守りたい。
そこで、家臣を大坂に派遣し、西軍に付いたふりをして、自らは剃髪して高野山に。
子の蜂須賀至鎮を東軍につかせます。
なぜなら、は至鎮、徳川家康の娘(養女)婿として差し出していたからです。


これで、どちらが勝っても言い訳が出来ます。

結果はご存じ、東軍の勝利。
蜂須賀至鎮が東軍についたおかげで、戦後も蜂須賀家が阿波国を治めることが出来ました。

1614年(58歳)大坂冬の陣でも、やはり大恩のある豊臣氏は裏切れません。
大坂方につこうとしますが、子の蜂須賀至鎮の説得により徳川方に味方します。
夏の陣の後、淡路国一国を加増され、25万7千石となります。

豊臣氏の滅亡には、家政は複雑な思いだったのでしょう。

子の至鎮は名君といわれましたが、もともと病弱であり、父より早く亡くなってしまいます。

再度、家政が阿波を守ります。

波瀾万丈の人生です。

秀吉にかわいがられ、大きな恩を感じながらも、時代の流れを見ながら行動する。
戦国の世で生き残るすべなのでしょう。

家政は、郷土にも大きな恩を感じています。

母の大匠院が信仰し、安産祈願をされた常蓮寺の如意輪観音を思い起こして、堂を寄進しています。
さらに、宮後八幡社を再建、曼陀羅寺正堂を再建しています。

歴史はロマンです。

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