文明のターンテーブルThe Turntable of Civilization

日本の時間、世界の時間。
The time of Japan, the time of the world

私の履歴書 瀬戸雄三(アサヒビール元会長)5/16、日経新聞から

2011年05月17日 10時32分39秒 | 日記

銀行出身役員と合わず
初の東京勤務は11ヵ月で幕
 
初めての東京本社勤務は1970年(昭45年)11月。
営業第一部ビール課課長。全国の営業部隊を統括する新設の部署だ。スタッフはたったの3人。40歳になっていた。
「新設の課長だから社長に挨拶に行くように」と先輩に言われた。
社長の中島正義さんからは「君は長い間、体だけを使っていたから、これからは頭を使い給え」。
なるほどと納得する。
当時、アサヒのシェアは約15%まで低下し往時の半分。
中島さんに言われたように頭の体操をしていたが、衝撃が走る出来事が起きた。
翌年2月、立て直しのため初めて住友銀行から高橋吉隆さんを社長に、延命直松さんを専務に迎えることになったのだ。
外から来られた高橋さんたちとどう接すればいいのか。
警戒心もあり誰もが悩んでいたのは間違いない。
ビール課としては、この経営の大変革をチャンスにして士気を高めなければならないと思った。
東京の大森工場に全国の営業マンを集結させ、総決起大会を開催した。
課員の発案で作った旭日マークのエンブレムを施した新しいブレザーを全営業マンが着用。
当日は高橋さんと延命さんを取り囲み、盛大な催しとなった。
「おい君。今日は握手攻めで右手がしびれたよ」。
会の終わりごろ高橋さんが笑顔で声を掛けてくれた。
 
本社に来たからには、新しい取り組みをしないと意味がない。
まずは休刊していた企業広報誌「ほろにが通信」を復活させた。
ビールにまつわる著名人の対談やエッセーなどを載せる。
初代社長の山本為三郎さんが打ち立てた、アサヒの文化活動を途絶えさせたくなかった。
 
今までの現場経験を生かし、新作戦も課員と一緒に考える。
要諦はお客様に「うまい」と実感してもらうこと。
それには過剰在庫を減らし、鮮度のいいビールを飲んでもらうしかない。
ただし〝押し込み″を一斉にやめると決算が持たない。
結果検証が分かりやすい静岡、愛知、香川、高知の4県でテストをする。
市場の独立性などから判断した。
現場にも頻繁に足を運び、意思の疎通を綿密にする。
3月から始めた新しい試み。
夏ごろに専務の延命さんに呼び出される。
「君、テストマーケットというのをやっているそうだな」「はい」「そもそもお客様を〝テスト″するというのは失礼だ。モデルマーヶツトならまだ許せる。で、どれ位のお金が掛かっているんだ」と聞いてきたので「7800万円位です」と答える。
今なら数億円だろう。「なに?」。
延命さんの逆鱗に触れた。
試みは即中止。広報誌も槍玉に。
部長には報告していたが役員まで伝わっていなかった。
独断専行ととられた。
お札が商品の銀行出身の役員には〝鮮度″が理解されなかったのだろう。
本社のトイレの中でため息をつく。
「ここは伏魔殿だ」。現場育ちには堪えた。
ビール課長は11力月で解任。
大阪支店販売第一課長を言い渡される。
 
春に家族を呼んでいたので子どもは1学期と少しだけ過ごして再び舞子へ。
東京見物も何一つしてやれなかった。
せめてもの罪滅ぼしと思い、はとバスで銀座や東京タワーを見物。
その日は京王プラザホテルに泊まり、翌日は飛行機で大阪へ。
舞子で迎えてくれた母は「東京でなんか悪いことでもしたんと違うか」。
「心配せんでええよ」。そうとしか言えなかった。

*昨日、仕事場に向かう途中で読んでいたのだが、私は、不覚にも涙がにじんだ。

   


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