文明のターンテーブルThe Turntable of Civilization

日本の時間、世界の時間。
The time of Japan, the time of the world

「村八分」にされ助手のまま 安斎 育郎さん…今朝の朝日15面、耕論 原子力村から。

2011年05月20日 08時41分47秒 | 日記

以前に、私が書いた事…東大は猿山の社会だが、桑原武夫が所長をしていた頃の京大人文科学研究所は、その反対の横のつながり社会だった。そういうことも含めて、官学の東大、野学の京大、権威主義の東大…現首相に内閣を組成させた男なぞは、この弊害の典型というか、塊の見本だろう…自由と反戦の錦の御旗を掲げていた京大(今は殆ど死語かもしれないが)という意味だったのだ。
文中黒字化は私。
安斎 育郎さん 立命館大名誉教授
 40年生まれ。専門は放射線防護学、平和学。東京大助手を経て、86年立命館大教授。 08年から国際平和ミュージアム名誉館長を務める。
私は1960年にできた東京大工学部原子力工学科の第1期生、15人の1人でした国が原子力産業に必要な専門家を育成するため、各分野の研究者を寄せ集めてつくった学科で、「原子力村の村民養成機関」というわけです。当然、同期生のほとんどは原子力業界に進みましたが、私は学生のころから「原子力の安全が秘結したらどうなるか」ということに関心があり、1人だけ原子力政策を批判する立場になりました。 
国が原子力推進のためにつくった学科から「反原発」の人材が出るなど、あってはいけないことです。私は東大で研究者だった17年間、ずっと助手のままでした。主任教授が研究室のメンバー全員に「安斎とは口をきくな」と厳命し、私は後進の教育からも外されました。研究費も回してくれないので、紙と鉛筆だけでできる研究に絞らざるを得ませんでした。東京電力から一時研修に来ていた人は、去り際に「安斎さんが原発で何をやろうとしているか、偵察する係でした」と告白しました。 
私は「村八分」にあったからこそ、原子力村の存在を強く実感できたわけです。「私に自由に発言させないこの国の原子力が、安全であるはずはない」と、直観的に分かりました。
そもそも、原子力産業は国家の意思なしにはスタートできません。原発は事故が起こった時の被害総額があまりに大きく、大量の使用済み燃料処理にかかる最終的なコストもはっきりしない。一般の企業がこんなリスクを背負うことは到底できず、産業化には「原発をつくる。一定限度以上のリスクは国が肩代わりする」という国策が前提となります。  
「国がやる」ということから始まっているから、「やるのがいいのか、悪いのか」という話には、そもそもならない。「反原発」は即、反国家的行為とされます。原子力業界が批判を受けつけない「村社会」になるのは必然だったと思います。
 しかも、「村民」は業界や国だけにとどまらず、原発の建設候補地でもカネを使って、地元の政治家や住民を原発推進派に仕立てていきました。
 私たち原発を批判する研究者は「せめて事故のリスクを分散させるために、原発の集中立地はやめよ。原子炉の出力にも制限を設けよ」と言い続けたのですが、黙殺されました。村の閉鎖性が福島第一原発の事故を悪化させた一因だったことは否めません。 
一方で事故後には、これまで原子力利用の推進派だった専門家16人が、事態の深刻さを率直に認め、政府に提言しました。村全体からみればわずかな人数とはいえ、それだけ今回の事故が「村民」にも深刻な影響を与えた、ということでしょう。     
(聞き手・太田啓之)


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。