以下は前章の続きである。
日本にナチスはいなかった。
そこでその代替にしたのが、軍であった。
軍が元凶であり、すべての罪をそこになすりっけることによって日本人は免罪符を得たのである。
そういう思想的・感覚的根本から出てくることばが、例えば、NHK「あさイチ」に出演する柳澤某のことば「兵隊にとられる」。
兵隊にとられる―これは、古代のヒミコから、戦国時代あたりまでの、国家・領土には所有者(王や貴族)がいるという政治の立場であり、前近代思想である。
明治政府が目差したものは、国民国家(主権は国民に在るとする国家)であった。
もちろん、一気にこれを実現することは、当時、国難であったので、徐々に進め、国会や憲法を作ってゆく。
憲法上、主権は天皇に在ったが、事実上は、国会が政治を左右し、立憲君主制の内実化を図っていっていた。
すなわち国民国家の内実化が進行していったのである。
その国民国家(現代日本がそれ)の場合、〈自分たち国民の国家〉であるのだから、自分たちの国は自分たちで守ることとなる。
この点が、近代前の〈王の国家〉と決定的に異なる。
となると、当然、徴兵制であり、〈兵となる〉のであって、〈兵にとられる〉のではない。
ここのところの理解ができていない。
さらに言えば〈戦争はいやだ〉、これはだれしも同じである。
しかし、その後が異なる。
〈王の国家の兵にとられるから〉なら分かるが、〈国民国家の兵にとられるから〉となると、国民国家、その自国は自らが守るという当然の論理が崩壊してしまうではないか。
それでいいのか。
古人曰く、周子に兄有れども、〔兄は〕慧無し。菽(豆)と麦とを弁ずる(分ける)能はず、と。