文明のターンテーブルThe Turntable of Civilization

日本の時間、世界の時間。
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北朝鮮へは行くつもりもないし、行ったこともない。北に情報提供などしていない」と答えたという。*これもまた「まことしやかな嘘」の国の答えであることは言うまでもないだろう。

2019年06月16日 15時05分25秒 | 全般

以下は前章の続きである。
筆者は昨年12月、この卞准教授に取材する為に同実験所を訪れたが、「総務を通してほしい」という一言で事実上断られ、代わりに同実験所の副所長に話を聞いた。
それによると、昨年2月19日付で、本人の元に法務大臣名で、「北朝鮮に入国した場合は再入国できない」とする認定通知書が届いた。
実験所が本人に事情聴取を行ったところ、卞准教授は「こんな文書が来るとは思っていなかった。抑々、それほど重要な文書だとも思わなかった。北朝鮮へは行くつもりもないし、行ったこともない。北に情報提供などしていない」と答えたという。
*これもまた「まことしやかな嘘」の国の答えであることは言うまでもないだろう。*
更に、過去の公用渡航歴の提出を求めたところ、韓国に多数回、他に中国・イタリア・アメリカ等への渡航歴が確認できたという。
彼の専攻は原子炉物理・原子力教育。
同実験所の副所長によれば、「研究者として優秀であるばかりでなく、教育者としても非常に優れた方である」。
確かに、京都大学原子炉実験所のホームへージには、2014・2015年と、卞準教授の英文の論文の引用回数が最多であるとして、2年続けて賞を受賞したことが記されている。
しかし、素人には“原子炉物理”と言われても何のことかわからない。
そこで、卞准教授と同様、原子力を専攻する専門家にご登場願おう。
卞氏が目下職場とする京都大学の理学部物理学科を卒業し、現在は『東京工業大学先導原子力研究所』の助教で、工学博士の澤田哲生氏だ。
専門は原子核工学。この澤田氏に、彼の専攻を解説してもらった。
「原子炉物理というのは、この分野を専攻する学生が皆学ぶ基本の学問です。制御された核分裂反応を維持することができるように設計された原子炉の中で、どういった物理的反応が起こるか、その振る舞いを実験やコンピュータシミュレーションで研究します。この核分裂連鎖反応、つまり原子核分裂の連鎖反応が一定の割合で継続していることを“臨界”と言いますが、臨界の度合いが1程度だと原子力発電に、2以上だと核爆弾、つまり核兵器に利用することができる。よく、原子力の平和利用・軍事利用と言いますが、その境界は極めて曖昧です」。
① 卞准教授は神奈川県川崎市生まれの、恐らく在日3世である。父親の経歴は不明だが、母親は今年81歳。彼女は9人兄妹の長女として、北海道滝川市で生まれた。
“祖国解放後”(※終戦の年)に、親戚を頼りに家族で九州へ引っ越したという。
そして、福岡県飯塚市で、炭鉱で働く同胞たちの苦労を目の当たりにしながら育ったらしい。
この辺りの母親の経歴については、川崎市の朝鮮総連系地域同胞生活情報紙『トンネだより川崎』(※題字はハングル・2009年10月26日発行)が、『この人』というコラムで紹介している。
以下引用する。“S”としたのが母親である。
「1955年に総聯が結成され民族学校が開校するやSさんも朝鮮学校に編入。親の手伝いや兄妹の面倒を見ながらではあったが勉強が楽しく、学校には常に一番で登校した。当時、ウリハッキョ(※“私たちの学校”の意)の高校は東京にしかなく、Sさんは、中学卒業後、単身で上京。家計が大変ではあったが、アボジ、オモニはすんなりと承諾してくれ、寮生活が始まった。『民族学校で学んだのは、ことばと民族心、朝鮮人として生きる信念』。卒業後は、東京に残り品川支部にて活動開始。2年後、家族は祖国に帰国したが、Sさんは、ひとり日本に残って活動家の道を歩み続けた。そして、同じく活動家だったご主人と結婚し、川崎に住みついた。
家族のいないSさんの為、結婚式は組織ですべて行ってくれた。『いまでも、その恩を忘れられない』と話す」。苦労の中で育ちはしたが、しっかり者の、まさに朝鮮のオモニの姿が浮かぶ。
見過ごせないのは、この母親の両親・兄妹が全員、“祖国に帰国した”とあることだ。
これは、1959年から1980年代にかけて約9万人の在日朝鮮人が北朝鮮に“移住した”帰国運動のことだろう。
在日韓国・朝鮮人の大半は元々、朝鮮半島南部の出身である。
しかし、朝鮮総連が北朝鮮を“地上の楽園”と宣伝し、日本の政治家・マスコミもそれに同調して煽った挙げ句、空前の“民族大移動”が起きた。
朝鮮総連の公式見解によれば、ここ川崎に住んでいた朝鮮人たちの間で「祖国に帰ろう」という運動が起こったのが発端だとする。
① しかし、この結果は悲惨だった。
帰国者から「あらゆる日用品・食料・日本円を送ってくれ」という悲鳴のような手紙が、日本に残った家族の元に続々と届き始めたのである。
筆者は、「卞准教授が本当に北朝鮮に核の情報を提供しているとしたら、それは、向こうに渡ったこの親族の存在が影響しているかもしれない」と思う。
母親を紹介したコラムには続きがある。
彼女は、60歳を目前にしてへルパーの資格を取得したとある。
「同胞社会で自分に出来ることは何かを模索していたとき、老人介護の講演を聴いた。ところが、ここにも民族差別があることを知り胸が痛んだ。『同じ人間なのになぜ?…』。
やりきれない思いを抑えながら心に誓った。介護士になろうと。そして、2000年にへルパーの資格を取得し、訪問介護を5年程やった。
そんな時、NPOアリランの家発足の話が持ち上がり、【中略】Sさんも自身の経験を生かし積極的に参加、現在に至っている。【後略】」。
NPO法人『アリランの家』は、在日コリアンの老人の為に訪問介護やデイサービスを提供する福祉施設で、2003年にオープン。
卞准教授の母は事務局長に就任した。
彼女はまた、同胞高齢者の親睦と交流を行う『川崎高麗長寿会』の事務局長も務めており、朝鮮総連系の人権セミナーで積極的に発言する等、バリバリの活動家だ。
卞准教授は、こういう母親の下に生まれたのである。
筆者は、卞准教授が育った川崎市幸区にある実家を訪ねてみた。
付近は小さな家が軒を連ねる一角で、借家だというその平屋の家は僅か16坪ほどだが、改装したのか小奇麗になっている。
表札は卞准教授の母親の名前である。インターホンを押したが応答が無い。近所で聞いてみると、母親は「何年か前に特別養護老人ホームに入所した」といい、留守宅には休日になると卞准教授が時折訪れるらしい。幼い頃の卞准教授は“優秀なお子さん”として評判だったらしいが、近隣の日本人とは殆ど付き合いが無く、両親・哲浩少年とも挨拶程度の仲だったという。
父親は、定時に出て定時に帰ってくる仕事だったようだが、何をしていたのかはわからない。
卞准教授には妹がいて、留学先のアメリカに留まったままだという。
母親は今でも朝鮮籍だろうという。
卞准教授も幼い頃は朝鮮籍だった筈だが、いつの頃か韓国籍に変えている。
「韓国籍のほうが海外に渡航し易い」という指摘がある。
日本の公安関係者から“北朝鮮の核ミサイル開発を支えてきたスパイ集団”とまで見做される科協に所属していること、両親とも朝鮮総連の活動家で少なくとも母親は朝鮮総連べったりで日本社会に批判的であること、卞准教授も朝鮮学校育ちで恐らく幼い頃は日本人とはあまり交流が無かったことを考え合わせれば、北朝鮮との強い繋がりがあるのは当然だろう。
更に、こんな事実がある。「卞は、特例財団法人“金萬有科学振興会”(現在の『成和記念財団』)から、1997年度と1999年度の2度に亘り、専門の原子炉物理関連の研究論文で、研究奨励金を其々70万円受け取っています」(『アジア調査機構』の加藤健代表)。
この財団は、東京都内で病院を経営していた在日朝鮮人の金萬有医師が、在日の研究者の研究助成を目的に1977年に設立した。
金医師は、1986年に22億円の資金を投じ、平壌に病院を設立する等、北との関係が深い。
尚、徐錫洪・徐判道・李栄篤も、過去に同財団の助成を受けている。
だが、北との関係はそれだけではなかったのだ。

この稿続く。


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