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文明のターンテーブルThe Turntable of Civilization

日本の時間、世界の時間。
The time of Japan, the time of the world

なぜ破壊に手を貸した…朝日夕刊1面から。

2011年10月18日 17時10分23秒 | 日記
チェコ出身のアントニン・レーモンドは、コンクリートとガラスの近代建築の美を日本に伝えながら、日本人建築家からは複雑な思いでみられてきた。
 
米国の巨匠フランク・ロイド・ライト設計による帝国ホテル建設に参加するため1919年に来日した。その後とどまり、築地の聖路加国際病院の旧館や杉並の東京女子大の校舎群を残した。
 
日米関係が悪化し戦争へ向かうと、米国に帰った。開戦後の43年、日本での経験を買われて風変わりな建築を依頼される。ユタ州の砂漠に、日本そっくりに木造の家の町並みを造ることだった。
 
焼夷弾を落とし、効果を試す実験が行われた。
 
その焼夷弾による無差別爆撃は、45年3月10日の東京大空襲で10万の死者を出し、日本中の都市を焼き尽くす。
 
戦後、レーモンドは日本に戻り、51年には皇居の堀端の一等地にリーダーズ・ダイジェストの東京支社を完成させた。総ガラス張りの透明感あふれる建物が粗末なバラックの街に出現し、若い日本の律築家たちは衝撃を受けた。
   
 
衝撃を受けた一人に、林昌二(83)がいた。東京・銀座の真ん中に63年から輝き続け芯ガラス張りの円筒、三愛ドリームセンターなどを設計した。林の建築は、暗い戦前から民主主義の戦後への転換を象徴する、明るさ、平明さで知られる。作風に、レーモンドの影響が色濃い。
 
しかし、町を破壊する無差別爆撃に協力したことは、建築家として許せない。林の東京の自宅も空襲で全焼した。
 
レーモンドに砂漠の町を造らせ、無差別爆撃を指揮した米空軍大将の力-チス・ルメイは戦後、航空自衛隊育成への貢献で日本政府から勲章を贈られた。レーモンドのとった行動も合わせ、林は「建築家であること、日本人であること、20世紀人であることが、ときに疎ましくなります」と著書に書いた。
 
リーダーズ・ダイジェスト支社の跡地に、林は直線と円筒の陰影を特徴とするパレスサイドビルを66年に建てた。オフィス建築の名作とされる。そこに「レーモンドを据える」という思いがあった。
 
なぜ、レーモンドは焼夷弾実験に協力したのか。彼の白伝には「日本への愛情にもかかわらず、戦争を早く終わらせるためにやった」と悩みがつづられている。
 
建築史家の藤森照信(64)はチェコの首都プラハ近郊にある生誕地のクラドノ市を80年代に訪れるなどし、一つの考えにたどりつく。レーモンドの姉弟はナチスに殺されていた。「ユダヤ人だったとすれば、動機も理解できる」
 
だが、レーモンドは自分をユダヤ人とは言わなかった。
   
東欧の民主化後、チェコで研究が進んだ。クラドノ市当局はレーモンド一族の足跡を詳細に調べ、姉や弟のアウシュビッツ収容所への護送記録も見つかった。
 
「彼はチェコのユダヤ人一家に生まれた。家族はナチスの収容所で死んだ。だから日本とドイツの全体主義国家の戦争を、必死で止めようとした。米国市民としての義務もある」
 
こう語る土屋重文(64)はレーモンドの仕事を日本で引き継ぐレーモンド設計事務所の取締役を務める。
 
レーモンドの晩年の3年間を土屋は一緒に働いた。「たとえば教会の建築を依頼され、相手にお金がなければ設計料をとらないこともあった。基本は人類愛の人で、焼夷弾実験も、深い哲学から苦渋の選択でたどり着いたとしか思えない」と土屋はいう。
 
林は、レーモンド一族のこうした過去を最近知った。
 
「複雑な育ちをした人は理解を超えるところがある。でも魅力のある人だ」。建築家として尊敬しながら、人間としては非難せざるを得なかったレーモンドを、そう語った。
       
(大野正美)

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