文明のターンテーブルThe Turntable of Civilization

日本の時間、世界の時間。
The time of Japan, the time of the world

そしてそのあとはここまで述べてきたように、敗戦利得者の憲法学者によって、占領政策基本法がいまでも大手を振って歩く国になってしまっているのである。

2019年06月02日 11時58分57秒 | 日記

以下は前章の続きである。
明治憲法と新憲法 
成文憲法を最初に作った国はアメリカである。
ヨーロッパからやってきた人たちが自由を求めて作ったものだが、いざ作ってみたら「言論の自由」や「宗教の自由」を書き忘れていた。
そんな欠陥だらけの憲法だから常に改正を続けている。 
戦後のドイツ憲法も同じで、常に変化している。
つまり完璧なものなどないということだし、変わらなければ憲法は生きていないのと同じなのである。 
憲法「constitution」は、直訳すれば「体質」という意味だ。
つまり、憲法は国の体質であって、昔、「国体」と訳していたのが正しい。
国の体質が変われば、憲法は時代に合わせて変化してもいいのだ。 
イギリスにはちゃんと書かれた憲法、「written constitution」というものはない。
立憲君主国でありながら、理想的なのは憲法を作らないという選択だったのだ。
しかし、「constitutional」(憲法的・国体的)と言われる法律はある。 
イギリスでは重要法案が通ったりすると、「あの法律はconstitutionalだ」と言う。
体質にかかわるほどの法律であるという意味だ。
そして新しい法律ができ、それが古いものと矛盾すると古いものが自然と無効になる。
それほどシステムは簡単だ。 
戦前の英和大辞典を引くと、「constitution」の項目には「written constitution」と「unwritten constitution」と書かれている。
つまり、「書いた憲法=成文憲法」と「書かない憲法=非成文憲法」である。
イギリスは書かない憲法を選択した。
アメリカは独立したことを世界に示さなければならないために憲法を書いた、つまり成文化した。
革命を起こしたフランスも同様に文字にした。
すると、書くとわかりやすくて都合がよいということで立憲運動が起こり、それが日本にも入ってきたのである。 
日本も明治憲法を作った時は、憲法が国の体質にかかわることであると十分に認識していた。
のちに初代首相となる伊藤博文が憲法調査に向かったが、自分が若い頃に訪ねたイギリスには憲法がない。
幕府、が頼ったフランスは共和国なので参考にならない。
アメリカも共和国だからこれもだめだ。 
そこで伊藤博文はウィーンへ向かう。
ウィーンはハプスプルグ家の時代だったので、伝統的な君主を戴いた憲法があった。
伊藤はウィーン大学のシュタイン教授に憲法を学び、胸の晴れる思いをして喜びの手紙を書いている。 
その後、伊藤博文はベルリンに行き、ドイツ帝国を建設した鉄血宰相ビスマルクに会った。
ビスマルクは伊藤の話を聞いて、日本にはドイツ帝国憲法は参考にならないだろうと言う。
ドイツ帝国はいくつもの王国を抱えた国だから、日本とは事情が異なるのだ。
そして、代々天皇がいる国であるならば、代々王様がいるプロイセン(注1)憲法が参考になるだろうとアドバイスした。 
そして伊藤博文は、ベルリン大学教授のグナイストという大学者からプロイセン憲法を逐条講義してもらうことになった。
グナイストという人は面白い人で、ローマ法を学び、ドイツの官僚機構にもタッチしたが、世界で初めてイギリス憲政史を書いた人でもある。
まだイギリスにもそういう通史がなかった時代だった。
これが、伊藤博文が明治憲法を作る元になったのだが、グナイストの名は伏せられていた。
ところ。が、昭和9年(1934)に伊藤博文の秘書だった伊東巳代治が亡くなったあとに書斎を整理したら、伊藤博文が受けたグナイストの講義録が出てきた。
これは出版されたものの、すでにシナ事変が始まっていたため出版禁止になったという経緯がある。
その一冊を私は持っているので、明治憲法の「天皇は陸海軍を統帥す」というようなものの基礎になったのはプロイセン憲法だということを述べたが、戦後これについて触れたのは私が初めてだ、と小堀桂一郎氏が言ってくださった。 
伊藤博文が明治憲法を作る時に一番苦労したのは、日本の国の体質、つまり国体(constitution)と世界の常識を合わせることだった。
だが、皇室に関してはどうしても世界の常識に合わせることができなかったので憲法には入れず、皇室典範を作った。
これは皇室の家法であるとし、憲法とは関係ないとしたのである。
まさに綱渡りのような見事さで伊藤は道を開いた。 
だから日本国憲法を作る時、東大の宮澤悛義教授でさえも、最初は明治憲法の改正でいいと言っていたのである。
しかし、マッカーサーがそれにしびれをきらした。 
このあたりのやりとりについては、『白洲次郎 占領を背負った男』(北康利著、講談社刊)に詳しく読みやすい形で書かれている。 
そしてそのあとはここまで述べてきたように、敗戦利得者の憲法学者によって、占領政策基本法がいまでも大手を振って歩く国になってしまっているのである。 
ちなみに指摘しておけば、天皇の地位については、明治の帝国憲法でも占領下の新憲法でも変わっていない。
ポツダム宣言を受諾する時、鈴木貫太郎内閣は「天皇の国法上の地位を変更する要求を含まざるもので諒解する」ということを述べていたが、これは実現した。
というのは、帝国憲法においても法律を作るのは天皇でなく議会であった。
議会が作った法律の発布に天皇の名前と玉璽が使われたのである。 
これは現在でも同じで、法律は議会が作り、その議会の開会や法律の発布には天皇の権威が関与する。
天皇を日本国民の、つまり日本統合の「象徴」と考えることは明治時代から普通であり、新渡戸稲造の『武士道』にも用いられている表現である。
天皇に対する国民の反乱など、フランス革命みたいなものは日本ではなかったのであり、「天皇vs国民」の対立ではなく、常に「政府(幕府)vs国民」であった。
この点について、竹田恒泰氏が明快に論じておられる。
竹田氏は皇族の血筋の方であり、皇族関係者が天皇に関することを論述されるにはタブー的な縛りもあったと思うが、敢えて真実を述べられたことを多としたい。 
天皇・皇室に関することで占領軍が根本的に変更したのは「憲法」においてではなく、「皇室典範」に関してであった。「皇室典範」は前に述べたように、「皇室の家法」であって憲法とは関係ないと明言したのは、「皇室典範」を成文化した責任者の伊藤博文であった。
ところが、占領軍は「皇室典範」を「憲法」の下位法規にしてしまったのである。  
(注1)プロイセン ドイツ北東部を占め、1701年、ブランデンブルク選帝俟フリードリヒ三世(プロイセン国王フリードリヒ一世)を王としてプロイセン王国が成立。
ドイツで最も強大な王国に成長し、普仏戦争の結果、ドイツ帝国を成立させてその中核となった。 
第一次世界大戦後にはドイツ共和国の一州となり、第二次世界大戦後は「ドイツ軍国主義と反動の先鋒」として州としても解体された。英語名はプロシア。


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