文明のターンテーブルThe Turntable of Civilization

日本の時間、世界の時間。
The time of Japan, the time of the world

軍艦を並べて脅し、国際ルールを破って尖閣も西沙も手に入れようとする。

2021年11月04日 14時13分40秒 | 全般

以下は本日発売された週刊新潮の掉尾を飾る高山正之の連載コラムからである。
本論文も彼が戦後の世界で唯一無二のジャーナリストである事を証明している。
日本国民のみならず世界中の人たちが必読。
日清戦争前夜
江戸期、李氏朝鮮は上も下もあさましかった。 
徳川新将軍が就任すると、お祝いと称して400人の一団がやってきて一年間、日本で遊び回った。
朝鮮通信使という名のたかり集団だった。
幕府の出費は100万両を超えた。
支那はこのころ、まともな満洲人の清王朝が漢民族こと支那人を支配していたから、日本へのたかり行脚などはあり得なかった。
囚みに習近平は「栄光ある漢民族文化の復興」を唱えるが、それは間違いだ。
漢人は4000年の歴史の大方を外来民族の奴隷として過ごしてきた。
絢爛の文化を生んだ清朝も彼らを家奴と呼び、満洲人の血が汚れないよう漢人との結婚を禁じた。
「栄光」も「文化」もみな外来民族のものだった。
漢人は自分の国にいながら奴隷にされ続けた。
「大義を知らず」(辻政信)、嘘つきで、投げやりで、残忍な国民性はそんな環境から生まれたと言われる。
実際、阿片騒ぎもそうだ。
清朝は阿片を禁じたが、漢人は広東沖の零丁島で英側と取引し、阿片禍を広げた。
阿片戦争では漢人は英側に付いた。
習近平は国辱と言うが、漢人が自ら招いた禍に見える。
清朝はこの敗戦を機に軍の近代化を図り、当時、最大級の戦艦「定遠」を旗艦とする北洋艦隊を備えた。
艦隊の初任務は朝鮮に介入する日本を脅し上げることだった。
明治19年、「定遠」など4隻が長崎港に無断で入港した。
その威容は3000㌧級巡洋艦しか持たない日本を十分に青ざめさせた。
漢人艦長は頭に乗る。日本側の許可も取らずに水兵500人を上陸させた。 
彼らは長崎の街に繰り出して狼藉を働き、一部は丸山町の遊郭にも押しかけたが、日本の色街は外人の登楼を認めない伝統を持ち、それは今の風俗にも続く。
彼らは怒って暴れ、警官と衝突する。
日を改めて300人の新手が交番を襲い、警官2人を殺した。
日本人が初めて見た支那人の集団は凶悪な無頼の徒だった。
彼らの膺懲に市民も加わり、結果、支那側は士官を含む4人が死亡、50人が重傷。
市民も十数人が負傷した。
一方的に支那が悪いのに日清の和解交渉では日本が支那の払う額の4倍の慰謝料支払いを呑まされた。 
「いやならこの戦艦相手に戦争するあるか」の脅しに日本が屈した形だ。
支那の艦隊はその5年後、今度は東京湾に「定遠」以下6隻を連ねて押しかけて威嚇した。
まるでペリー気取りだった。
彼らの無礼は続く。無断で瀬戸内海に入り込み、軍事機密の呉の軍港を観察して帰っていった。
それから3年。
日本艦隊は豊島沖と黄海で2度会戦して勝った。
そこでも漢人らしさが目立った。
巡洋艦「済遠」の艦長、方伯謙は豊島沖の戦いで艦を停めて白旗を揚げた。
国際ルールに則る降伏の形だが、日本艦が近づくと魚雷を放って遁走した。
彼は黄海海戦でも前代未聞の敵前逃亡をやった。
漢人政権ならそれもありだが、このときは恥を知る満洲人、西太后が方伯謙を斬首に処した。彼女は日清戦争の敗因を分析し、支那の形だった科挙の制をやめ、海外留学を新たな登竜門にした。
奴隷根性の漢人の心をそれで変えようとした。
しかし漢人がまともになる前に辛亥革命が起きて漢人政権が生まれた。
袁世凱から蒋介石、そして毛沢東の中共へと漢人治世は続く。
そして大躍進で3000万人が、文革でまた2000万人が殺された。
民を虐げる。
それが習近平の言う漢民族の文化なのだ。
被害は周辺に及んでチベットもウイグルもやられて、今は日本が狙われる。
軍艦を並べて脅し、国際ルールを破って尖閣も西沙も手に入れようとする。
それは北洋艦隊と方伯謙の佇(たたず)まいとそっくりだ。
あのとき日本人は「上下心を一にして」建艦費を拠出して備えを成した。   
今、GDP2%以上の国防費を出そうという。
いいことじゃないか。    

 


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