文明のターンテーブルThe Turntable of Civilization

日本の時間、世界の時間。
The time of Japan, the time of the world

植民地帝国である白人列強を相手の戦争であるならば、感情的にすっきりしたことを日本海軍航空隊の市丸利之助司令官は歌に詠んだのである。

2024年06月23日 10時55分33秒 | 全般

2020/6/20
月刊誌正論今月号で読み残している箇所がたくさんあった。
今朝、平川祐弘さんの連載(長文である)を読んでいた時に、これは今の中国そのものだな、と思った箇所があった。
最後に平川さんがまとめて掲載している註の中に、私の思いが正鵠を射ていた事を証明する箇所があった。
本稿では、それらの箇所と、日本国民全員が知るべき箇所を抜粋してご紹介する。
平川さんの論文は日本国民のみならず世界中の人たちが必読である。

春秋に義戦なし

前文省略
日本が戦ったあの戦争は「反帝国主義的帝国主義」の戦争だったと私は考える。
世界史的には後発の「持たざる国」の先進の「持てる国」への挑戦だったともいえるが、アジアに植民地をもちはするが資源に乏しい黄色人種の一帝国日本の、アジアに植民地をもつ白人の豊かな大帝国連合の既成秩序への挑戦だったとも考える。
そして日本は敗れた。
「春秋に義戦無し」とは名言で、国際戦争には一方が絶対に正義で他方が絶対に不正という場合はまずあり得ない。
―そんな「大東亜」戦争と東京裁判について、いかなる見方が適当か。
私は戦争やそれに引き続く別次元での戦争であった東京裁判などについて、いろいろな局面を明確化するよう資料を引いて語りたい。
読者の理性にも感性にも働きかけることで、その資料の内在的な価値によって、おのずと結論が抽(ひ)き出されるようにしたい。
それで新しい歴史の視野を示すことができるかどうか。
外国人の読者がなんと言うであろうか、私はその反応にも期待している。
12月8日 
日本にとって12月8日に始まった「あの戦争」註1、とは何だったのか。
太平洋戦争か、それとも大東亜戦争か、あるいはそのいずれかに割り切ることが間違いなのか。
過去の大戦について、西洋本位でもなく日本本位でもない、よりバランスのとれた歴史上の位置づけを、インドなど第三国からの視点も含めることで、試みたい。
複眼で過去を振り返るのが、私のアプローチだが、もとより私論に過ぎない。
個人的な思い出もまじえさせていただく。 
1931(昭和6)年7月生まれの私は、小学校4年生の時、12月8日を迎えた。
1941(昭和16)年の師走の月曜の帝都の空は晴れていた。
朝7時のニュースで日本が米英と西太平洋で交戦状態にはいったことを知り、学校に向かった。
電車の中で向いに座った乗客の日本人の緊張した顔が美しく見えた。
「いま神明の気はわれらの天と海とに満ちる」。
詩人高村光太郎がうたったそんな気分は子供心にも感じられた。
そしてその直後から戦争は「大東亜戦争」と呼ばれたのである。
日本軍の中国大陸における長期にわたる戦争には大義に欠ける面があった。
終わらないシナ事変に多くの人が嫌気を感じていた。
そして汪兆銘のように日本側に付く人がいただけに、蒋介石が抗日的であるのは背後に英米がいるからだと思われていた。
そんな認識だったからこそ、同じ戦争でも、シナ事変と違い、12月8日以後の日本は米英という真の敵との戦争であり、それはアジア解放のための大東亜戦争として大義名分を持ち得るかに思われたのである。
その時の国民感情は、
5年間我が日本に立ち籠めし 雲を払ひし大詔(たいせう)を読む  新しき修理固成(つくりかため)の時は来ぬ 有色の民に所得しめて 
の歌にもうかがわれる。
植民地帝国である白人列強を相手の戦争であるならば、感情的にすっきりしたことを日本海軍航空隊の市丸利之助司令官は歌に詠んだのである。
高村光太郎は緒戦の勝利に興奮した。  
ハワイに大艦隊を即刻滅ぼし  
マライ沖に沈まざる巨艦を沈め、  
岩とベトンと深謀遠慮の香港を降(くだ)し、  
マニラをたいらげて呂宋の昔にかへし、…  
鉄で固めたシンガポールをみりみり潰した

この稿続く。



2023/6/10 in Osaka


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