『黄金の馬車』 - LE CARROSSE D'OR -
1953年 103分 フランス/イタリア
監督 ジャン・ルノワール
製作 フランチェスコ・アリアータ
原作 プロスペル・メリメ
脚本 ジャン・ルノワール
ジャック・カークランド
レンツォ・アヴァンツォ
ジュリオ・マッキ
ジネット・ドワネル
撮影 ロドルフォ・ロンバルディ
クロード・ルノワール
音楽 アントニオ・ヴィヴァルディ
アルカンジェロ・ユレッリ
オリヴィエ・メトラ
出演 アンナ・マニャーニ
オドアルド・スパダーロ
ポール・キャンベル
ダンカン・ラモント
ラルフ・トルーマン
次第に高まりつつあった植民地での民族運動、第二次世界大戦後は独立の機運となって高まりを見せていた.
1951 英仏共同統治より、リビア独立
1956 フランスよりモロッコ独立
フランスよりチュニジア独立
アルジェリア
1830 フランスがアルジェリアに進出
1847 フランス、アルジェリア全土を支配
1954 アルジェリア紛争勃発
1960 サハラ砂漠でフランスの核実験
1962 アルジェリア民主人民共和国独立
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欲張りと卑怯
一座を呼んだ宿屋の主人
彼は、仕事の条件が嘘ばかりだっただけでなく、行く当てのない芸人たちに嫌なら出て行けと言った.そして彼の取り分は8割は.欲張りで、人を騙す卑怯な人間でした.
フェリペ
宿屋の主人を咎めるフェリペは、『誰でもいいなら一緒に激戦地へ行こう』と、つかみ合いの喧嘩を迫る.フェリペは勇敢な男.
カミーラに求婚したフェリペでしたが、煮え切らない彼女を諦め、黄金を欲しがる欲張りな彼女と喧嘩別れをして、激戦地へ旅立ました.
植民地に巣くう貴族たち
彼らは、隠し銀山に代表されるように、卑怯で欲張りのかたまりだった.描かれた通り、とするだけで充分でしょう.
さて、カミーラ.彼女が欲したものを、順に追ってみましょう.
自分自身には、舞台での評価、成功、名声.
フェリペに対しては、優しい思いやり.
闘牛士ラモンには、単純明瞭さ.
総督には、貴族社会の気品、優雅な生活.と同時にお金、黄金、そして黄金の馬車.
次々に訪れる男たちが、それぞれに正しい愛を語る.成り行き任せに、皆の言葉を受け入れてしまったカミーラなのだけれど.けれでも、くれるものなら何でももらう、この考え方は、欲張りと言わなければなりません.
そして、カミーラはフェリペの求婚をあやふやなまま反故にし、総督に対する態度もあやふやなまま、あやふやな気持ちのままに、闘牛場でラモンに首飾りを投げました.あやふやなままに幾人もの相手と付き合うことは、卑怯なことと言うべきでしょう.
何もかもを欲したカミーラは、欲張りな女.彼女の欲張りが、貴族の社会にもめ事を起こし、彼女を巡って男同士のもめ事を起こしました.
彼女の欲張りの所為とは言え、3人の男の心は、それぞれに彼女を正しく愛するものでした.カミーラ自身は、3人のそれぞれの心を正しく理解し、自分にとって、黄金の馬車とは比較すべきでない、大切なものであると自覚するとき、馬車を教会に寄進して3人を救う事にしました.そして、その行為が、自分を含め、皆を救うことになったのです.
司教は、『馬車があれば誰にでも秘蹟の施しにいける.おかげで、多くの魂が救われる』、と言ったのですが.
欲張りとは、何もかも全てを欲しがること.その逆は、本当に必要とする人に、必要なものを譲ることである.そして、欲張りの逆の行いは、もめ事を終わらせる事に、平和をもたらす事になりました.
ナショナリズムが台頭し、植民地の独立機運が高まりを見せる時代を背景として、この映画は撮られました.
権力とは全てを自分のものとして扱う力、欲張りの象徴的行為と言える.黄金の馬車は皆の羨望の的であり、貴族社会の権力の象徴でした.その権力の象徴を、庶民のカミーラは欲しがった.
革命によって貴族社会を打ち倒し、民主主義の社会を実現したはずのフランス国民は、植民地の独立に反対していた.
貴族社会に対する批判は、そのまま自分達への批判と言える.革命によって自分たちの力で貴族社会を終わらせたはず.それなのに、民主主義の社会を自称しながらも、貴族社会の遺物、権力の象徴と言える植民地に対する支配を、未だ続けている現実.その現実に対して、欲張りにすぎないと批判を込めて描かれた映画、と言うことが出来ます.
纏めとしてもう一度.
欲張りは、もめ事を引き起こす.
欲張りの逆は、必要とする人に、必要なものを譲ることである.
全てを手に入れると同時に、全てを失ったカミーラ、あるいは全てを手放すことになったカミーラ.
フェリペ、ラモン、総督、皆、彼女の元から去ったのだけど、けれども、一つだけ残ったものがある.それは、舞台の上で真実を求める姿、言い換えれば、演技のなかに正しいものを追い求める、自分自身.自分自身の中に、正しい自分をどれだけ追い求めたにしても、それは決して欲張りな行為ではありません.
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撮影場所はイタリアのチネチッタ.監督はフランス人で、役者はイタリア人とスペイン人.そしてオリジナルの言語は英語.
変な映画ですね.面白いのか下らないのか?.ちょっと判断に迷いながらも、やはり下らない映画、欲張りとは下らない行為であると、きちんと描き上げていると思われます.あるいは、面白くもあり下らなくもある、迷わせて、欲張りとは下らない行為と理解させる様に描かれている、こう言うべきなのでしょうか?
1953年 103分 フランス/イタリア
監督 ジャン・ルノワール
製作 フランチェスコ・アリアータ
原作 プロスペル・メリメ
脚本 ジャン・ルノワール
ジャック・カークランド
レンツォ・アヴァンツォ
ジュリオ・マッキ
ジネット・ドワネル
撮影 ロドルフォ・ロンバルディ
クロード・ルノワール
音楽 アントニオ・ヴィヴァルディ
アルカンジェロ・ユレッリ
オリヴィエ・メトラ
出演 アンナ・マニャーニ
オドアルド・スパダーロ
ポール・キャンベル
ダンカン・ラモント
ラルフ・トルーマン
次第に高まりつつあった植民地での民族運動、第二次世界大戦後は独立の機運となって高まりを見せていた.
1951 英仏共同統治より、リビア独立
1956 フランスよりモロッコ独立
フランスよりチュニジア独立
アルジェリア
1830 フランスがアルジェリアに進出
1847 フランス、アルジェリア全土を支配
1954 アルジェリア紛争勃発
1960 サハラ砂漠でフランスの核実験
1962 アルジェリア民主人民共和国独立
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欲張りと卑怯
一座を呼んだ宿屋の主人
彼は、仕事の条件が嘘ばかりだっただけでなく、行く当てのない芸人たちに嫌なら出て行けと言った.そして彼の取り分は8割は.欲張りで、人を騙す卑怯な人間でした.
フェリペ
宿屋の主人を咎めるフェリペは、『誰でもいいなら一緒に激戦地へ行こう』と、つかみ合いの喧嘩を迫る.フェリペは勇敢な男.
カミーラに求婚したフェリペでしたが、煮え切らない彼女を諦め、黄金を欲しがる欲張りな彼女と喧嘩別れをして、激戦地へ旅立ました.
植民地に巣くう貴族たち
彼らは、隠し銀山に代表されるように、卑怯で欲張りのかたまりだった.描かれた通り、とするだけで充分でしょう.
さて、カミーラ.彼女が欲したものを、順に追ってみましょう.
自分自身には、舞台での評価、成功、名声.
フェリペに対しては、優しい思いやり.
闘牛士ラモンには、単純明瞭さ.
総督には、貴族社会の気品、優雅な生活.と同時にお金、黄金、そして黄金の馬車.
次々に訪れる男たちが、それぞれに正しい愛を語る.成り行き任せに、皆の言葉を受け入れてしまったカミーラなのだけれど.けれでも、くれるものなら何でももらう、この考え方は、欲張りと言わなければなりません.
そして、カミーラはフェリペの求婚をあやふやなまま反故にし、総督に対する態度もあやふやなまま、あやふやな気持ちのままに、闘牛場でラモンに首飾りを投げました.あやふやなままに幾人もの相手と付き合うことは、卑怯なことと言うべきでしょう.
何もかもを欲したカミーラは、欲張りな女.彼女の欲張りが、貴族の社会にもめ事を起こし、彼女を巡って男同士のもめ事を起こしました.
彼女の欲張りの所為とは言え、3人の男の心は、それぞれに彼女を正しく愛するものでした.カミーラ自身は、3人のそれぞれの心を正しく理解し、自分にとって、黄金の馬車とは比較すべきでない、大切なものであると自覚するとき、馬車を教会に寄進して3人を救う事にしました.そして、その行為が、自分を含め、皆を救うことになったのです.
司教は、『馬車があれば誰にでも秘蹟の施しにいける.おかげで、多くの魂が救われる』、と言ったのですが.
欲張りとは、何もかも全てを欲しがること.その逆は、本当に必要とする人に、必要なものを譲ることである.そして、欲張りの逆の行いは、もめ事を終わらせる事に、平和をもたらす事になりました.
ナショナリズムが台頭し、植民地の独立機運が高まりを見せる時代を背景として、この映画は撮られました.
権力とは全てを自分のものとして扱う力、欲張りの象徴的行為と言える.黄金の馬車は皆の羨望の的であり、貴族社会の権力の象徴でした.その権力の象徴を、庶民のカミーラは欲しがった.
革命によって貴族社会を打ち倒し、民主主義の社会を実現したはずのフランス国民は、植民地の独立に反対していた.
貴族社会に対する批判は、そのまま自分達への批判と言える.革命によって自分たちの力で貴族社会を終わらせたはず.それなのに、民主主義の社会を自称しながらも、貴族社会の遺物、権力の象徴と言える植民地に対する支配を、未だ続けている現実.その現実に対して、欲張りにすぎないと批判を込めて描かれた映画、と言うことが出来ます.
纏めとしてもう一度.
欲張りは、もめ事を引き起こす.
欲張りの逆は、必要とする人に、必要なものを譲ることである.
全てを手に入れると同時に、全てを失ったカミーラ、あるいは全てを手放すことになったカミーラ.
フェリペ、ラモン、総督、皆、彼女の元から去ったのだけど、けれども、一つだけ残ったものがある.それは、舞台の上で真実を求める姿、言い換えれば、演技のなかに正しいものを追い求める、自分自身.自分自身の中に、正しい自分をどれだけ追い求めたにしても、それは決して欲張りな行為ではありません.
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撮影場所はイタリアのチネチッタ.監督はフランス人で、役者はイタリア人とスペイン人.そしてオリジナルの言語は英語.
変な映画ですね.面白いのか下らないのか?.ちょっと判断に迷いながらも、やはり下らない映画、欲張りとは下らない行為であると、きちんと描き上げていると思われます.あるいは、面白くもあり下らなくもある、迷わせて、欲張りとは下らない行為と理解させる様に描かれている、こう言うべきなのでしょうか?