映画と自然主義 労働者は奴隷ではない.生産者でない者は、全て泥棒と思え

自身の、先入観に囚われてはならない
社会の、既成概念に囚われてはならない
周りの言うことに、惑わされてはならない

リラの門 - PORTE DES LILAS - (ルネ・クレール 1957年 98分 フランス)

2012年12月07日 03時10分58秒 | ルネ・クレール
リラの門 - PORTE DES LILAS - (1957年 98分 フランス)

監督  ルネ・クレール
原作  ルネ・ファレ
脚本  ルネ・クレール
    ジャン・オーレル
撮影  ロベール・ルフェーヴル
音楽  ジョルジュ・ブラッサンス

出演  ジョルジュ・ブラッサンス
    ピエール・ブラッスール
    ダニー・カレル
    アンリ・ヴィダル
    ガブリエル・フォンタン







ろくでなしの男、ジュジュは、警察に追われる男、ピエロを匿うことになった.
ピエロは、警察に捕まれば死刑を免れない殺人犯であった.
ジュジュの好きだったマリア、けれども彼女はピエロに惹かれて行く.
マリアを騙し、金を奪って南米へ逃亡を図るピエロ.
「金を返せ」
「マリアの父親のためか?」
「マリアのためだ、彼女が知ったら」
それを知ったジュジュは、言い争いの末、ピエロを撃ち殺してしまった.
「ピエロは、金がいらなくなったと言うさ」ジュジュはマリアに金を返すとき、こう言い訳すると言うのだけれど、この嘘に、ピエロを撃ち殺した事実が重くのしかかる.

殺人犯を匿うことは、所詮は馬鹿げた、ろくでもないことであったかもしれない.ピエロは身勝手で迷惑のかたまりに過ぎない存在であった.けれども、人を助けることには、たとえ細やかでも喜びがあったのも確かなことであった.
しかし、その男を撃ち殺したとき、殺されても当然の人間を殺したのだけれど、けれども、その行為によって誰も喜びはしなかった.むしろ、自分の好きなマリアのことを思うとき、マリアに金を返すときの言い訳の言葉を口にするときには、彼女に対して悲しみを与えただけであったのが分ったはず.単に騙され捨てられた時よりも、より深い悲しみを与えることになったに違いない、ジュジュにはこう思われたのではないか.














殺人犯を匿って助けたのだけど、結局は撃ち殺してしまった.
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ルネ・クレールは、人の死が意味を持つ映画はこの作品まで撮りませんでした.なぜなら、人を殺してもなにも良いことはない.単純明瞭な答えが、この作品に描かれて居ると言えます.
アガサ・クリスティ原作の、『そして誰も居なくなった』は例外と言うか、推理小説の映画化です.
この作品の前作の『夜の騎士道』のラストシーンが二つ撮影されていることは、DVDを買われた方はご存じのはず.はっきりしたことは分りませんが、ひょっとすると撮影してから、ルネ・クレールは、映画監督としての自分の一生を台無しにするところであったのに気がついたのかもしれません.
ルネ・クレールは、人としての優しさを生涯大切にして映画を撮り続けた、映画監督でした.


『リラの門』 予告編
https://www.youtube.com/watch?v=7BJFJWrwWS4


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