街道ウォーク>旧中山道>沓掛宿(しなの電鉄・御代田駅)~長久保宿(宿泊)
2012年5月31日 7回目
石割坂(茂田井)
勾配がきつく大きな石があり、交通に不便だったがその石を割り中山道を開通させたので 石割坂と呼ばれている。茂田井間の宿保全・活性化事業実行委員会
本文 cosmophantom
街道ウォーク>旧中山道>沓掛宿(しなの電鉄・御代田駅)~長久保宿(宿泊)
2012年5月31日 7回目
石割坂(茂田井)
勾配がきつく大きな石があり、交通に不便だったがその石を割り中山道を開通させたので 石割坂と呼ばれている。茂田井間の宿保全・活性化事業実行委員会
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街道ウォーク>旧中山道>沓掛宿(しなの電鉄・御代田駅)~長久保宿(宿泊)
2012年5月31日 7回目
茂田井村下組高札場跡
江戸時代、庶民に法令を徹底させるため、ここに高札を掲げた。高札場は名主宅前に設けられることが多い。大澤家は元文2年(1737年)より明治4年(1871年)に至るまで茂田井村名主を勤め、元治元年(1864年)11月19日、水戸浪士(天狗党)中山道通過の際、それを追って来た小諸藩兵士の本陣となった。茂田井間の宿保全・活性化事業実行委員会
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街道ウォーク>旧中山道>沓掛宿(しなの電鉄・御代田駅)~長久保宿(宿泊)
2012年5月31日 7回目
中山道茂田井入口
望月宿を抜けると中山道は茂田井に至っている。茂田井は、東の望月宿と西の芦田宿の間にある旧村で、現在は間の宿(あいのしゅく)とも呼ばれている。 ここは茂田井への入口で坂を下りはじめると、江戸時代の面影の残る民家や造り酒屋が軒を連ねている。寛保二年の大洪水で望月新町が道ごと流されたり、本町も大きな被害を受けたため、茂田井村を望月宿の加宿にしようと江戸幕府に願い出たが却下された経緯がある。元治元年11月19日、天狗党水戸浪士の中山道通貨に際しては、茂田井村が小諸藩兵士400人程の宿となっている。また、文久元年11月7日には、徳川十四代将軍家茂に、公武合体の犠牲となって降嫁される孝明天皇の妹和宮の大行列が茂田井を通過するなど大きなできごとがあった。一里塚は、瓜生坂頂上付近に続き、立科町茂田井の石原坂を上りきった左右に位置しているが、現在は痕跡がみられるだけである。 佐久市教育委員会
本文 cosmophantom
2012年5月31日 長野県
望月(宿)の町並み
長野県佐久市望月
江戸時代には本陣、脇本陣、問屋など29軒が軒を並べ賑わった。真山家屋敷(国重要文化財)など宿場の面影を残し、往時の繁栄ぶりを伝えている。町並みには昔の赴きが多く残る。江戸から25番目の宿場
▲御宿 山城屋(真山家)
▲出野屋旅館▼
▲望月宿本陣跡
▲脇本陣鷹野▼
▲真山家▼
旅籠と問屋を兼ね、幕末には名主も務めた。現存する建物は明和2(1765)年の大火後に再建された。明和3年(1766年)建築 切妻造、桟瓦葺
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2012年5月31日 7回目
大伴神社 長野県佐久市望月
平安時代の延喜式に記載されている佐久式内社(しきないしゃ)の一つ
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2012年5月31日 長野県
真山家(大和屋) 重要文化財
長野県佐久市望月
真山家は旅籠と問屋を兼ね、幕末には名主も務めた。現存する建物は明和2(1765)年の大火後に再建された。明和3年(1766年)建築 切妻造、桟瓦葺
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2012年5月31日 7回目
真山家(大和屋)重要文化財
長野県佐久市望月
真山家は旅籠と問屋を兼ね、幕末には名主も務めた。現存する建物は明和2(1765)年の大火後に再建された。明和3年(1766年)建築 切妻造、桟瓦葺
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