今日は休みだったので、ずいぶん久しぶりに「殺人の追憶」を見返してみた。
以前見た時は主人公である刑事二人の演技力の高さや情景・音楽の美しさに感銘を受けたが、今回は「ノーカントリー」や「ダークナイト」を見た後なのもあって違う部分が印象に残った。
具体的には、ポストモダン社会における犯罪・正義の問題(日本で言えば酒鬼薔薇聖斗的なもの)の扱いであり、2007年の「ノーカントリー」や2008年の「ダークナイト」が伝統的な正義の立場(検事や保安官)を描きつつ、自己目的化した正義(バットマン)や社会を逸脱した存在(殺し屋)に対して白旗を上げさせている一方で、2003年に上映された「殺人の追憶」は、社会の変化によって伝統が通じなくなる過渡期に翻弄される刑事(=先の例で言えば検事や保安官)の視点から描いている点が異なっている。
両者の差異は、端的に言えば、5年の歳月を経て社会の変化が所与のものとなりつつあることを示しているが、一方でそれは「殺人の追憶」が時代遅れの作品であることを全く意味しない。というのも、人間が意味を求める存在である以上、理解の範疇(社会の枠組み)を逸脱した行為に対して本作品の刑事たちのように反応をする人たちは決していなくなることはないからだ。ゆえに、「精神薄弱者」や「家庭にストレスを持つ社会人の裏の顔」といった「わかりやすい」犯罪者の像が次々と否定されていき、最後に「犯人は普通の顔をしていた」という印象的な言葉で終わるこの作品もまた、きちんと段階を踏ませるという点で、多くの受け手に社会の変化に対する内省と気付きをもたらすのではないだろうか。
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