理解と共感2:社会、文芸などとの関連

2005-11-19 23:28:44 | 抽象的話題
先の記事で理解と共感について述べたが、私は言葉の概念などといった抽象的命題のためにこれを書いているわけではない。

世間の人々の大半は「共感はできる」と信じているだろうが、これが誤解に過ぎないことは前述したとおりである。しかし、その誤解自体は実のところそれほど重要ではない。むしろ、その誤解を逆手に取れば大衆扇動において大いに役立つだろう。あるいはまた「異文化理解」においては、まさに言葉どおり理解しようとする姿勢が重要といえる。

さて、共感ではなく理解をしようとする姿勢というのは、文章全般の解釈や小説・物語などの登場人物の行動・心情分析においても有用である。小説などに関して言えば、よく「感情移入できなかった」というコメントを目にすることがある。なるほどこれはこれで一つの読み方ではある。

しかしながら、そういった読み方があらゆる小説などに通用するかと言えばそうではない。高度な内容のモノに多いが、多くの読者が拒否反応を示すであろう行動や思考などをわざと入れておき、それによって作中人物との距離[=客体化]を強制するとともに、それらの行動や思考をしっかりと理由付け・文脈規定するという作品も存在するからである。それらを、分析するとまで言わなくとも楽しんで読むためには、作中人物の行動・思考を理解しようとする姿勢が必要とされる。つまり、人物の(あるorあらゆる)行動や思考に必然性[=状況・心情・性格・行動原理など]があるかどうかを考えるor重要視する態度である。またこのためには、「自分は~しない、~とは考えない」という信条や思考に距離を置いておく必要もあると言えるだろう。
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