うちの神さんがねえ・・・

2017-10-24 12:10:04 | 宗教分析

といつもコボしてるのはコロンボ先生だが(違う)、それにしても日本人は拝んでいる時に一体「何を」拝んでいるのか謎だというのは頷ける話である。

 

たとえば八幡神社や氷川神社、稲荷神社といったものの区別をどれだけの人が意識しているのか微妙だし、また説明を受けたとしても、区別することの意味をそもそも感じないのでは?とさえ思う(由来をに基づいて正しい向き合い方を知ることより、その場所でどのようなご利益があるのかを喧伝する方が効果がありそうな気がする)。その他、権現や明王の位置づけを一々気にしたことがあるという人は非常に少ないだろうが、一方で七福神は全員ではないにしても個別性がそれなりに認識されているなど、ものによってグラデーションがあっておもしろい(ヒンドゥー教で定番の神がシヴァやガネーシャなどある程度決まっていて、彼らが多く祀られているのとは好対照にも思えるが、ヒンドゥー教徒が彼らの固有性=誰にどのような特性やご利益があるか、をどの程度認識しているのかは私の不勉強もあって未知数である。まあこれもグラデーションなのだろうが。そう言えばタイで会ったインド系スイス人が、「家ではヒンドゥー教の神を祀ってるけど、自分は熱心に拝む気はない」という趣旨のことを言っていて、戦後日本における仏壇・神棚と出稼ぎ・核家族化などによるイエ宗教との対比を連想して興味深かった)。

 

それらは日本(人)における神の交換可能性や融通無碍さを思わせはするが、大いに気になる点が一つある。というのも、「神々の明治維新」などで記されるように、明治維新による政策(神仏分離令)とその影響によって、昔から祀られていたものが地方の支配者・権力者によって勝手に改変されたり、あるいは祀っていきたものの名称を由緒正しいとされるものに名目上だけ改変した事例が多々見られることである(他にも修験の解体や巫女の禁止など、民間信仰はこの時様々な変容を余儀なくされた)。たとえば、琵琶湖にある竹生島には弁財天が祀られ、僧侶身分の者が奉仕していた。しかし明治になると、大津県庁の方針で弁財天を(仏像であるにもかかわらず)都久部須麻神社と改称させ、弁財天女像は観音堂に移され、宝源寺という寺の宝物から「二個の品」が取り出されて神体とされ、新しい神社が生まれた。信仰の実態を全く無視した「改革」であり、このような作為をもって生まれた神社に祀られた神が何であるかなど礼拝者が意識しなかったとしても、それが「宗教的な適当さ」に由来するものと評価するのはいささか不当にすぎるというものだろう。また新潟県滝原村の多伎社では不動明王が祀られていたが、社祠方は不動象を取り除いて鏡を神体とすることを命じた。あるいは越御堂村の床浦社では以前祀られていた疱瘡神が神武天皇に祀り替えられる(強引なこじつけ・権威付け)などということも行われたが、このような事例は全国津々浦々に見られたのであった。

 

ことほどさように、地域に根を張りたる自然林=伝統的に培われてきた信仰が無理やり除去され、そこに人工林=お仕着せの信仰が植え込まれたわけで、徐々に形骸化してその内実に興味を持たなくなってくるのは自然なことだと思うのだが。もっと正確に言えば、地域性・歴史性を持ち、体系化されておらず、それゆえ必ずしも論理的でも合理的でもない民間信仰が、神道の権威付けの中で中途半端に改変を被った結果、中途半端に民間信仰から遊離し、なおいっそう由来のわからぬ混沌とした、しかも表層的なものとなってしまった(そして今日に至る)と評価すべきではないだろうか(なお、「公式化」に際して異端論争や弾圧を伴わずにおかないのは日本の場合に限らないわけで、たとえば西欧ならキリスト教公認とニケーア公会議が好例であろう。ちなみに、より立体的な理解を追求するなら、ヒンドゥー教が憲法レベルで定められているインドと比較対象してみることが必要だと思われる)。

 

ゆえに、この案件を考えるには、「日本人てホントいい加減な国民だよなあ・・・」といったナイーブな印象論ではなく、明治前後の変化、戦前・戦後の変化、神祇不拝の真宗篤信地帯の状況、古くからある祭りの分析、インドといった他国との比較などを行っていく必要があるだろう。少なくとも、政府の大々的介入を取り上げず、あたかも自然なる性質であるかのように語る・思い込むのは、「作為の契機の不在」の最たるもので、そこからは何も生まれないのである(たとえば、マッカーサーの意向があったにもかかわらず、GHQがキリスト教を大々的に布教する政策を採らなかったのは、天皇制とそれを媒介にした日本支配を目的とした「不作為の作為」によるものである・・・という具合にまっさらな民衆の意思など存在し得ないのは、今日のポピュリズムや報道の影響を見るだけでも思い半ばに過ぎるというものだろう)。

 

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