認識についての疑問

2006-03-05 17:56:22 | 抽象的話題
認識の話が出たのでそれに関して書いてみたい。なお結論があって書いているのではないから、問題提起とそれに対する意見・反論の提示という形式をとりたい。てゆうかあーでもないこーでもないという文章なので読みにくいかもしれません。先に謝っときます。ごめんなさい。あと言語概念の違いなども考察の対象にせねばならんのですが、私にはそこまで手が回りません。よって「美しい」という日本語のみを便宜的に使用することにします。


少し前、私は「人はなぜ美しいがわかるのか」ということを書いた。これに対し、「美しいという人々のコンセンサスによるのでないか?」という意見を持つ人がいるかもしれない。なるほど、例えばファッションリーダーやランキングなどによる権威付けといった現象もあるので、そういった認識の「押し付け」(あるいは「選択」)という他律的な動きは確かに無視できないものと言える。しかし、ここでより本質的な問題としているのは、人間の自律的な知覚の働き方である。

というのも、そういった権威付けなどの届かない領域で「美しい」という感情が湧き起こる場合があるからだ。例えば外国に旅行して、何の計算もなく訪れた場所の風景に心を奪われたりすることがある。仮にそれが庭園だとして、手入れをする人の計算という要素はあるかもしれないが、評価や感情はもっぱら自らの知覚情報に拠っているのだから、認識の「押し付け」というほどに他律的な働きは弱いと言える。とすれば、その人はいかにして庭園を「美しい」と認識したのだろうか?あるいは前述のようにその庭園に計算が働いているとしたら、見た者がそれを「美しい」と受け取るにあたって両者を繋ぐもの(感覚的な共通性など)は何なのだろうか(ただそれが計算どおりなのかどうかは難しいところ。見ている人は、庭を手入れした人の期待をまったく裏切るような視点・感覚で「美しい」と感じているかもしれないからだ)?

こう問題提起すると、庭園に関しては、木の並び方、色合い、あるいはより抽象的に全体の調和といった理由が提示されるだろう。もしそれが西洋の庭園を念頭に置いているのなら(本来は国や様式を限定すべきかもしれないが、それだけの知識を持ち合わせていない)、今度は日本庭園の作りがそれと全く異なっているという反論ができる。その二つを止揚すれば「感覚の違い」という見方が出てくるだろうが、すると次に「その感覚の違いはどのようにして生じたか、また各々がそう感じるようになったのはなぜか」というような疑問に行きつく。ただ、この場合は認識論に限定するよりカルチュラル・スタディーズととらえたほうが適切なのかもしれない。もし(人間の知覚への疑問ということで)認識論を問題にするなら、さっき提示した外国旅行の例などから共通性を考えるほうが「より」重要だと思われるからだ。また知覚の共通性という点では、不快指数や色に対する反応の仕方(様々な色の部屋に人間を入れておくとバイオリズムに差異が生まれるという話を聞いたことがある)といった科学的なアプローチが必要不可欠である(それがそのまま「美しい」という評価・感覚についての疑問を解いてくれるとは思わないが、外堀を埋めていく上で重要)。


とまあまとまり無く終わるのだが、「美しい」という感覚についていったいどれだけのことが判明しているのだろうかと疑問は尽きない。今まで書いただけでも問題がえらく煩雑なのでどう手をつけるべきかわからない、というかつけたくない(笑)が、もし時間ができたら、関連の本をゆっくり読んでみたいものだ。
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